《2024年2月28日》ー手びねり陶芸について | aichanの双極性日記

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札幌にひとりで住んでいたとき、障害者就労継続支援A型事業所で働いていた。

 

陶芸班に配属され、手びねりで器や置物などを作った。

 

その陶芸班は電動ロクロを使わずに手だけで作品を作っていく、いわゆる“てびねり”だけをやっていた。

 

その事業所に入る以前、私は札幌の精神科のデイケアで陶芸のプログラムに参加していた。

 

そこでは電動ロクロしか使わなかった。

 

試しに“てびねり”で数点の作品を作ってみたことはあるが(火焔土器など)、大半は電動ロクロを使っていた。

 

〈右がうまくできなかった私の“火焔土器”。左は、テレビの『なんでも鑑定団』に出ていたヨーロッパのガラス器を見て、その形を思い出しながら手びねりで作った水差し〉

 

〈手びねりで作ったペン立て〉

 

電動ロクロの上に粘土のかたまりを置いてロクロを回し、粘土を両手で左右から押していって上にスーッと抜いていく。

 

すると粘土は山型になる。

 

山型になったらそれらを押し潰してまた同じくまた山型を作っていく。

 

それを何度も繰り返していくと、ロクロを回してもその山が静止して見えるようになる。

 

そうなったら“芯が出た”といい、それから山の頂上に指を差し込んで穴を開け、その穴を指を使って広げていく。

 

芯が出ないまま器を作っても、歪むか途中で壊れる。

 

だから、電動ロクロをで作品を作るにはまず“芯出し”が不可欠である。

 

デイケアで陶芸のプログラムに参加した初めのとき、指導員がまず“芯出し”のやり方を実地に見せてくれた。

 

私たち参加者はそれぞれやってみたが、誰も“芯出し”ができない。

 

それで私以外の人は指導員に“芯出し”してもらって、指導員の手を借りて器を作りはじめた。

 

私だけは、もう一台の電動ロクロにしがみつき、“芯出し”だけを練習した(電動ロクロは2台あった)。

 

陶芸のプログラムは週に一度だけで、しかも1回2時間程度だった。

 

だから私の“芯出し”作業はさっぱりはかどらず、ちゃんと“芯出し”できるまで数ヵ月もかかった。

 

それから私はまず湯呑みを作り、いろいろなものを作っていった。

 

〈私の最初の作品である湯呑み〉

 

電動ロクロの上で形ができたら、そのかなり下の部分をロクロを回したままピンと伸ばした細い針金を向こう側から手前に引いてくると上の器が切り取られる。

 

切り取られた器を数本の指で優しくつかんで板の上に置く。

 

その上に逆さまにしたバケツをかぶせて数日おく。

 

すると粘土が適度に乾いて硬くなる。

 

そしたら電動ロクロの上に専用の器具を取り付け、それで半乾きに硬くなって器を逆さまに乗せて固定し、ロクロを回しながら特殊な器具を使って器の下部に高台というものを削り出していく。

 

〈高台〉

 

高台をうまく削り出したら、外側や内側をこれまた専用のツールを使って削ったりして、ようやく形が完成する。

 

あとはすっかり乾かしてから電気炉でまず低温で素焼きをする(その精神科には電気炉あった)。

 

素焼きしないと、釉薬をかけたとき粘土が溶けて崩れてしまう恐れがあるので素焼きするのだ。

 

釉薬はガラス粉などを水に溶かしたものなので、素焼きしない粘土の器などにかけると、水が粘土に染み込み、粘土が柔らかくなって崩れてしまうことがある。

 

素焼きを終えたらら、器に好きな色の釉薬をかけて、今度は高温で本焼きをする。

 

焼き上がったらできあがり。

 

そうやって私はいくつかの作品を作った。

 

そんなころ、私は冒頭のA型事業所で手びねり陶芸をするようになった。

 

手びねりでは「手ロクロ」という小さなロクロは使うが、すべての作業は手で行う。

 

〈私は大抵“紐作り”という手法で器を作っていた〉

 

「手びねり陶芸」と聞いたとき、私は手作り感溢れる作品を連想した。

 

しかし、そのA型事業所の手びねり陶芸班では、電動ロクロで作るよりもスベスベツルツルマルマルの器作りをしていた。

 

「これでは百円ショップで売っている大量生産品と変わらない。手びねり感がまったく殺されている」と思った。

 

しかし、その陶芸班では“手びねり感”溢れるような器などを作ることは許されていなかった。

 

しかも、手びねりでは、ひとつの作品を作るのに何日もかかる。

 

粘土は柔らかいので、最初はグニャグニャである。

 

それをいくつかの方法で器などにしていくのだが、粘土が乾かないと次の作業に移れない。

 

それで何日もかかるのだ。

 

電動ロクロなら、ひとつの作品を作って逆さまにしてバケツを被せて乾かしているうちに、また電動ロクロで次の作品を作ることができる。

 

そうやって次々と作品を作ることができるが、手びねりではそれは難しい。

 

そして私が驚いたのは、どうにか整形した作品を指導員のところに持っていくと、「ここはもっと薄くしたほうがいい」とか「ここは少し歪んでいる」といった指摘を受け、直さなければならないことだった。

 

それでは“手びねり感”を殺すことになると思った。

 

次にさらに驚いたのは、素焼きまで漕ぎ着けた作品を紙やすりでツルツルに磨くことだった。

 

そんなことをしたら“手びねり感”がまるまる消滅する。

 

だから私はやすり掛けをいつもさぼった。

 

すると、それを見ていた指導員(みんなから「先生」と呼ばれていた。私は最初は○○さんと苗字で呼んだが、みんなが「先生」と呼ぶのにつられて私も仕方なく「先生」と呼ぶようになった)や古参の先輩から文句を言われる。

 

仕方なく紙やすりをかけて釉薬をかけて本焼きした。

 

〈素焼きの器に釉薬をかけているところ〉

 

あと変だなと思ったのは、私が指導員に「絵付けをしたい」と言ったときだ。

 

絵付けとは、素焼きを終えた器などに専用の絵の具などで模様や絵を描くことだ。

 

絵付けをして透明釉薬などをかけて本焼きすれば、描いた絵や模様がきれいに出る。

 

あるいは撥釉剤という水をはじく液体を素焼きした器などに筆で塗って絵や模様を描き、それに釉薬をかけるとその液体を塗った部分だけ水をはじいて絵や模様ができる。

 

それで釉薬をかけて本焼きすれば絵付けしたようにきれいな絵柄などが器などに現れる。

 

これも絵付けのひとつと言っていいだろう。

 

〈撥釉剤でわんこの肉球を描いて釉薬をかけて本焼きした作品〉

 

しかし、絵付けを指導員は許可してくれなかった。

 

「あんたたちに絵付けなどできるものか」と思っていたようだった。

 

経営陣から「各自の干支(えと)の置物をつくるように」という指示が来て、陶芸班のメンバーがそれぞれの干支の置物を作ったとき、ひとりだけ物凄いものを作ったメンバーがいた。

 

彼(○○くん)は辰年生まれだから龍の置物を作ったのだが、それがもう凄まじくリアルで、よくまあ何も見ず想像だけでこんなものを作れたものだと私たちは感心した。

 

その後も「サンタクロースを作れ」と言われれば何も見ずにサンタの置物を見事に作ってのけた。

 

私たちメンバーは彼の才能の凄さに敬意を表した。

 

しかし指導員は違った。

 

辰年の彼がいないとき、「○○くんはきっとアニメや漫画をたくさん見ているだろう。だからああいうものが作れるんだ」とあっさり言った。

 

それだけでも凄いじゃないかと私は思ったが、指導員の言い方に皮肉のにおいが感じられたので言い返すことはやめた。

 

その後も指導員は○○くんの想像力と創造力を認めようとしなかった。

 

あるとき、誰かが作った昔の器が出てきた。

 

5、6枚の花びらをまるく重ねて作った、作るのがなかなか難しそうな立派な小鉢だった。

 

しかし裏返してみても刻印がなく、誰が作ったのか最初はわからなかった。

 

その小鉢を見ていた社長が、「作ったの、○○くんじゃないの?」と指導員に言った。

 

すると指導員は「この中に」とメンバーを見渡し、「これだけのものを作れる人はいない」と言った。

 

しかし、やはりそれは○○くんが作ったものだったのだ。

 

指導員はメンバー全員を見下しているんだなとそのとき思った。

 

また、石膏で肩を作って同じものを量産する技術を指導員は私たちメンバーに教えようとしなかった。

 

「これは俺が長い職人生活で盗んで身につけたものだ」と彼は思っていたようで、「それを他人にタダで教えられるものか!」と考えていたフシがあり、また教えても私たちメンバーにはできっこないとメンバーたちの技量を見下げていたのは確かだ。

 

その指導員は自分の技術をメンバーに教えようとしなかっさた。

 

あるとき、社長の知り合いが「花瓶を作ってほしい」と言っているのを知った指導員は、「僕が作りますよ!」と意気込んだ。

 

指導員自ら作ろうと言ったのだ。

 

指導員なら、メンバーたちに作らせるべく指導すべきなのに、そんなことは一切考えていなかった。

 

そういう指導員だった。

 

私が辞める決心をする少し前くらいから経営陣が陶芸班に乗り込んでくるようになり、指導員は立場を半ば失った。

 

それからは私たちメンバーは自由に絵付けなどをするようになった。

 

〈素焼きした器に絵付けしているところ〉

 

しかし、紙やすりで磨くことなどは従前のままで、相変わらずツルツルピカピカのものばかり作られていた。

 

そうやって作ったものを私は、どうしても“手びねり作品”とは思えなかった。

 

“手びねり”を謳うなら、デコボコしていたほうがいいし、ザラザラしていたほうがいい。

 

しかし、私たちの作る作品はみないつもツルツルピカピカマルマルで、私はいつも不満を感じていた。

 

〈私の働いていたA型事業所手びねり陶芸班で本焼きを終えた作品たち〉

 

〈私が一番うまくできたと思っているフリーカップ。ただしツルツルピカピカマルマルなのが気に入っていない〉

 

手びねりとはいえ、一度だけ私は指導員に石膏で型を取ってもらって大量の同じ作品(「割り山椒」という小鉢)を作ったことがある。

 

東京の割烹料理店(『白金台こばやし』さん)から「10個送ってください」という注文が入ったからだ。

 

 

〈石膏で型を取って作った“割り山椒”の器たち〉

 

『白金台こばやし』さんで「割り山椒」が実際に使われた様子〉

 

あの陶芸班では、京都で陶器の人形作りの職人が指導員だったから、作品はすべてスベスベツルツルにしなければならないという班風が生まれたのだと思う。

 

陶器人形作はスベスベツルツルに仕上げないとダメだからだ。

 

それはともかく、この指導員は作陶作業に没頭してばかりで、指導員としての仕事をさっぱりしなかった。

 

するスベも持っていなかったと思う。

 

本来なら自分がいくら作陶したくても我慢して陶芸班のメンバーの席を回って指導すべきなのだが、そんなことは一度もしなかった。

 

私が入ったときにも何も教えられなかった。

 

何十年も職人としてやってきた人だから、そういう感覚がわからなかったのだと思う。

 

それで事業所の経営陣から、陶芸班には問題があるといつも見られていた。

 

しかし、その指導員はそんなことはおかまいなく、自分の作りたいものを作ることに熱中してばかりいた。

 

その事業所を辞めて精神科のデイケアに戻った私は手びねりと電動ロクロの両方で作品作りに精を出した。

 

午前だけだけど今度は毎日、陶芸室で作陶をした。

 

そのころには上手だった指導員が異動になっていたので、私は新しい指導員に電動ロクロでの“芯出し”を教え、参加者たちには“手びねり”の手法を教えた。

 

その合間に私は自分の作りたい“手びねり”作品をたくさん作った。

 

〈デイケアで作った花瓶など〉

 

〈デイケアで作った、水玉模様のきれいなぐい呑み〉

 

私が手びねりの手法を教えた利用者はいい感じの器を作った。

 

「これこそ手びねり!」と言いたくなるほどのものだ。

 

〈私がデイケアで手びねりを教えた女性利用者が作った可愛い器〉

 

また、ブログ『せともん道楽だもんで・・・』で紹介されているような器こそ“手びねり”だと思う。

 

紹介されているのは歪んだぐい呑みばかりだが、こういう作品こそ手びねりなのだ。

 

『せともん道楽だもんで・・・』で紹介されている「ぐい呑み」たち〉

 

いま通所している千歳の障害者就労継続支援B型事業所では陶芸はやっていない。

 

仕方なくレザークラフトをしているが、陶芸をまたやれたらなあといつも思っている。

 

札幌のA型事業所で働いていたときに“手びねり”に必要な道具一式を買って、それを今も持っているし。

 

〈“手びねり陶芸”ツール一式〉

 

 

【ダイエット記録】「0.2キロ減った。あと0.7キロだ」のまま。