私がいま住んでいるおんぼろアパートは冷える。
私の住むアパートは北に突き出していて、私の部屋はその一番北の1階にあり、寒風に包まれている。
特に床が冷える。
ストーブを炊いていても、床は冷たくて裸足では歩けないほどだ。
その床に缶ビールなどを置いておくと、ほどよく冷える。
あまりに冷えるので、寝るまでは着込んで、ときにはダウンを着て寒さに耐えている。
ストーブの設定温度を18℃にしているので(光熱費節減のため)、部屋の室温は16℃くらいにしかならない。
その寒さに耐えるには着込むか、歩き回って寒さをしのぐしかない。
寝るときはストーブの設定温度を12℃にして寝る(部屋の室温は10℃にしかならない)。
それに耐えるのも大変である。
こんなに冷える地に、昔はアイヌ民族が藁で作った粗末な家で暮らしていた。
〈アイヌ民族の民家外観(復元)〉
〈アイヌ民族の民家内部(復元)〉
ストーブなんてなく、囲炉裏だけが家の中と体を暖めてくれる唯一の暖房機だった。
しかも服は薄手のものばかりで、もちろんダウンなどなく、寒さをしのぐには無理がある服ばかりだった。
よくぞそんな環境の中で厳冬期を暮らしていけたものだと思う。
江戸時代前から蝦夷地(北海道)の南部には和人が暮らしていた。
江戸期になると彼らの領地は松前藩になり、その城と城下には武家や商人たちが住んだ。
彼らの家は本州と同じ普通の日本家屋で、隙間風だらけの建物だった。
ここにもストーブはなく、江戸期の260年もの間、火鉢と炭火を利用した炬燵(こたつ)と囲炉裏だけで暮らしていた。
彼らはなぜストーブというものを発明しなかったのだろうかと思う。
本州とは桁違いの寒さの中で暮らすには、本州と違う家屋で、囲炉裏や炬燵ではなく別の暖房機が必要だとは考えなかったのか。
服装だって本州の武家や商人のように薄い和服で、手袋もなければダウンもない。
綿入れの厚い和服はあったが、防寒服といったらそれくらいだ。
あとは襟巻きみたいなものもあったようだ。
しかし、その程度でしかない。
体を暖めるための服をなぜもっと考案しなかったのか。
それらが不思議でならない。
彼らは意地でも張るように日本家屋と古来からの火鉢と炬燵と囲炉裏と日本風の服装に固執した。
明治になって蝦夷地が北海道と名付けられて間もなく、欧米のストーブを真似た暖房機が作られた。
しかしそれは普及しなかった。
使い方がよくわからなかったのと、性能があまり良くなかったためだと思われる。
北海道開拓のため入植してきた人たちは藁(わら)や薄い板だけで作った粗末な家で囲炉裏だけで暮らした。
玄関や窓はにドアやガラスはなくムシロを垂らしていただけで、隙間風だらけの家だった。
よくも死なずに生きたものだと驚く。
ストーブがようやく普及しはじめたのは明治も中期になってからだ。
ただ、奥地の開拓地では相変わらず藁や薄い板とムシロの家で生活していた。
ストーブが全家庭に普及したのは大正になってからではないか。
それでも家は日本家屋式で隙間風が多く、そんなに暖かくはならなかっただろう。
北海道の家が気密性の高い建物になったのはほんの数十年前からである。
昔のアイヌ民族と松前藩の人たちと数十年前までの和人たちには、驚きと敬意と呆れを感じる。
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