明日から仕事始め。
うるさい事業所に行くのが少し憂鬱だが、今年も頑張ろうと思う。
さて、私の知っているある女性は「大阪弁は品が悪い」とよく言う。
そういう彼女の言葉も品がない。
例えば「あのラーメン屋のラーメンはくっそまずい!」などとよく言う。
すると私はそのラーメンの上にウンコが乗っているシーンをイメージしてしまう。
その女性は「くっそ」を頻繁に使う。
「くっそまずい」が最も多く、そのほかには「くっそ胸糞悪い」とか「くっそ滅入る」とか「くっそ頭にくる」等々…。
それこそ品が悪いではないか。
大阪弁も品が悪いとは思うが、大阪人のことを言えたものではないのにと思う。
実はこの女性、私の通所する障害者就労継続支援B型事業所の仲間の困ったおしゃべりおばさんだ。
このブログの、『《2023年10月17日》ー我が障害者就労継続支援B型事業所の実態』』『《2023年11月8日》ー個室でひとりレザークラフト』『《2023年11月9日》ー座談会の進め方とわかりやすく正しい日本語の重要性』『《2023年12月18日》ー交通事故は誰でも起こす』『《2023年12月22日》ーレザークラフト最新作(おしゃべりおばさんの猛烈パワハラ)』『《2023年12月26日》ー事業所でクリスクス会』『《2023年12月28日》ーおしゃべりおばさんのその後』に登場するおしゃべり大好きのおばさんだ。
ところで、関西弁は古代日本語に近いと私は思っている。
弥生時代から古墳時代にかけて朝鮮半島や中国から日本列島に渡来した人の数は70万人にものぼったという研究報告がある。
飛鳥時代の平城京の人口の8割は朝鮮半島からの渡来人かその子孫だったという調査結果もある。
日本に渡来した米は揚子江下流地域で栽培されていたものなので、中国人が直接、日本列島にやってきたかというと、どうもそうではない。
弥生人は主に朝鮮半島から渡来してきたので、揚子江下流地域に住んでいた閔(びん)族や苗(ミャオ)族などが中国で起きていた戦乱を回避するため北上して朝鮮半島に入り、そこから日本列島に渡来したとみたほうがいいように思う。
なぜなら、揚子江下流地域に住んでいた閔族や苗族などが使っていた言語は漢民族とは違うタイ語系であり、日本語によく似ているからだ。
そのため中国語が日本語に与えた影響はほぼ漢字だけのようだが、閔族や苗族などの言語の影響を受けた朝鮮半島の古代朝鮮語は日本語に重大な影響を与えたと思う。
中国語と日本語の文法はまるで違うのに対して、現代朝鮮語の文法と日本語のそれはそっくりである。
単語などにも古代朝鮮語の名残がいろいろあるようだ。
例えば古代朝鮮語には「アギ」という言葉があったらしい。
意味は子ども。
現代日本語には「ガキ」という言葉がある。
これも意味は子ども。
「この悪ガキめ」とか使う。
「アギ」が訛って「ガキ」になったのではないかと考えている研究者がいる。
京都には太秦(ウズマサ)という地名がある。
これも古代朝鮮語が語源だと思う。
なぜなら京都地方は朝鮮半島から渡来した秦(ハタ)氏が開拓した土地だからだ。
そのほかにも古代朝鮮語から受け継いだと思われる日本語はたくさんあるらしい。
特に百済の言葉は古代日本語とそれほど違っていなかったと推測できる。
また朝鮮半島南部にあった伽耶と古代日本は強いつながりを持っていたので、伽耶の言葉も古代日本語によく似ていたと思う。
古代、日本人が朝鮮半島の国々に使者を派遣するとき、高句麗や新羅に行く使者には通辞(通訳)を付けたが、百済への使者には通辞を付けなかった。
それは百済語が古代日本語に似ていたからだと思う。
〈古代の朝鮮半島〉
伽耶が新羅に滅ぼされたときは伽耶の王族を中心とした人々は百済や日本列島(当時は「倭」と呼ばれていた)に向かった。
その直後、まったく突如として今の大阪の地に仁徳天皇陵(大山古墳)や応神天皇陵などの巨大古墳が登場した。
それらは前方後円墳で、前方後円墳は以前から日本に存在していたが、大山古墳などのような巨大なものはなかった。
前方後円墳は日本独特のものだと最近まで思われていたが、昔の百済の地だった韓国南西部で最近、前方後円墳が発見された。
私は、伽耶から逃れてきた王族たちが日本の大阪まで流れてきて巨大な前方後円墳を作ったのだと思う。
〈大山古墳〉
その後、新羅が唐と結んで百済を攻めた。
この戦のときには古代日本の中大兄皇子(なかのおおえのみこ。または、なかのおおえのおうじ。後の天智天皇)が日本国の命運をかけて百済救援のために多数の軍を百済に派遣した(白村江〈「はくそんこう」または「はくすきのえ」〉の戦)。
このときの大王(おおきみ。当時は天皇という呼称はなかった)は女帝の斉明だったが、実権を握っていたのは中大兄皇子だった。
百済が新羅と唐の連合軍に惨敗したその戦のとき、多くの百済人や前の伽耶人が日本列島に逃げてきた。
それほど百済や伽耶と古代日本との関係は深い(中大兄皇子〈後の天智天皇〉はもとは百済の王族だったのではないかと私は思っている。そうでなければ、いくら関係が深かったとはいえ日本の命運までかけるほどの大軍をもよおして百済を救援に行くことなどしなかっただろう)。
だから百済語や伽耶語が古代日本語の元になったのかもしれない。
例えば韓国人は文章や単語の先頭の「ら」行を発音できない。
だから「リ」という名前を「イ」と発音する。
古代日本人も文章や単語の先頭の「ら」行は発音できなかった。
それで「ロシア」のことを江戸時代までの日本人は「おろしゃ」と言ったものだ。
最近まで日本人は「ら」行で始まる名前を付けることはまずなかった。
現代日本人は「ら」行をなんなく発音するが、昔は韓国人と同じく「ら」行から始まる言葉を発音できなかったのだ。
それも百済語や伽耶語の影響かもしれない。
アイヌ民族は「ら」行の言葉を多く持っているが、それはおそらくオホーツク人の言葉の影響かと思われる。
今のアイヌ民族は縄文人の後裔だが、古代にロシア沿海州からオホーツク人が日本列島の北部にやってきて縄文人と混血して今のアイヌ民族になった。
だから、アイヌ語には多分にオホーツク人の言葉の影響があるのだ。
また日本語には「私が」と「私は」というように「が」と「は」の助詞があり、似ているようでまったく意味の異なる助詞がある。
日本人はそれを無意識に使い分けるが、現代韓国語にも同じような使い方の助詞があるという。
前述したように両語とも文法は同じである。
それも百済語や伽耶語の影響のように思われる。
ちみなみにモンゴル語も文法が日本語と同じである。
高句麗や新羅や百済や伽耶の古代朝鮮各国は大陸の騎馬民族が建てた国らしい。
朝鮮語と日本語の文法が同じなのは、もとをただせば閔族などの言語とモンゴル語の影響かもしれない。
古代、渡来人は北九州や山陰、北陸から日本列島に入ってきた。
最終的に彼らが落ち着いたのは今の関西圏だ。
だから関西弁は古代朝鮮語、特に百済語と伽耶語の影響を強く受けたと思う。
8世紀にできた古事記や万葉集は関西弁で解釈したほうがいいと思っている。
平安時代でもまだ日本語は関西弁に近かったのではないかと思う。
平安時代に書かれた『源氏物語』を読むと関西弁ではないが、それは書き言葉だからではないかと思う(文章で話し言葉が使われるようになったのは明治時代から)。
話し言葉は関西弁に近かったのではないだろうか。
日本語が関西弁から変わって現代日本語に近くなったのは、関東の武士が台頭して日本を支配するようになってからではないか。
明治になって幕末に活躍した志士たちの多くは芸者と結婚した。
今のいわゆる東京弁は、芸者言葉がもとになっている。
「ごさいます」とかいう丁寧言葉は芸者言葉から発生して多少の省略などされて広まったものだ。
それから日本語は古代日本語とはまるで違ってしまった。
私はそう考える。
【ダイエット記録】「1.0キロ減った。あと-2.7キロだ」のまま。