深夜、「朝まで討論会」みたいな番組がときどきテレビで放映されている。
田原総一郎が司会で、政治家や各界の重鎮や評論家などが参加して激論する。
私が通所している障害者就労継続支援B型事業所のおばさん利用者(障害者就労継続支援事業所に通う障害者は利用者と呼ばれる)のひとりはそれをよく見ている(だからあまり寝ていなくて、その番組のある日は「眠い、眠い」と言ってフラフラのままチンタラ作業をする)。
そして勤務中に私にこう言うのだった(レザークラフト作業を集中してやるためいま私は相談室という個室にこもっているが、それまでは私とそのおばさんは向かい合ってテーブルに座っていた)。
「田原はダメだ。参加者が良い意見をしゃべっているのを途中で制止して他の人にしゃべらせる。そして自分の思うように座談会を進める。その意見が古くて時代の潮流に乗ってない!」と。
彼女は誰にでもできる簡単な作業をしながら私に話しかけてくるのだが、私はレザークラフトで細かい作業に全力集中していた。
だから話しかけられるのは本当に大迷惑なのだが、仕方なく対応してあげていた。
「座談会の出席者はたくさんいるし時間も限られているから、田原さんは司会者としてなるべく全員に意見を言わせたくてそうしているんじゃない。それに司会はある程度の結論まで持っていかないといけないから、それで意見がまとまるように努力してるんじゃない」
と私が言ったら、「違う!」と強く首を振った。
「田原が悪い! わたし、あいつ大嫌い!」と引かない。
そんなに田原総一郎が嫌いなら自分で司会やるか、討論会を見なければいいのにと思うのに、それでも討論会を見るし田原総一郎をこきおろす。
聞いていてうんざりしてくるのだった。
頻繁に話しかけられる私はレザークラフトの作業に集中できなくなって細部の作業に失敗したりする。
まったく迷惑なおばさんなのだ。
討論会や座談会の司会は、編集の仕事をしていた期間が長かったので私はずいぶん経験した。
座談会を企画する時点で、参加するメンバーの顔ぶれやテーマからどういう意見が出るかある程度予想できる。
ときには着地点をある程度決めて、目指す着地点に着陸できるように司会進行していく。
頭の中でだいたいの結論をイメージして司会を進めるわけだ。
出席者たちに勝手にしゃべらせてもいい場合もあるが、大抵はよくしゃべる人ばかりが意見を言い、他の人はあまり話さないという結果になる。
だから、なるべく全員に意見を言わせ、ひとりに偏らないように工夫する。
そのためには長い意見をしゃべりつづける参加者を途中で制止して他の参加者の意見を求めるといった努力をする。
よくしゃべる人ばかりが意見を言いつづけても、編集の段階でその意見を細切れにして、その間に他の参加者が意見を言ったように文章をまとめる。
多くの場合、会話全体の流れをまず把握し、いくつかの章を作ってそれぞれ意見をまとめる。
そのためにはみんなの意見を細切れにして他の章に入れたり足りない言葉を補ったりて、読者にわかりやすいような流れになるように工夫する。
そのように司会と編集は難しい仕事である。
田原総一郎を攻撃してやまないその女性利用者は、司会や編集などやったことがない。
参加者の誰かが自分の気に入った意見をしゃべりつづけるのを途中で制止する田原を許せないだけなのだ。
彼女が座談会の司会などしたら、自分の気に入った参加者にばかり意見をしゃべらせて、その人の意見書みたいな内容になるに違いない。
あるいは何の結論も出ない何が言いたいのかわからない座談会になると思う。
雑誌などに載せる座談会などなら編集の段階で書き加えたり削ったりして内容をうまくまとめることができるが、「朝まで討論会」は生のテレビ番組なのでそんなことはできない。
たとえ雑誌などに載せるものだったとしても、田原総一郎をこきおろすその彼女には編集もできないし記事も書けない。
彼女からときどきLINEメッセージが来るが、それが例えばこうなのだ。
「昨日わお疲れさまでした」
「年内までわとりあえず」
というように、「は」と打つべきところを「わ」にしているのだ。
また「的を射る」を「的を得る」と書くし言う。
「出る杭は打たれる」を「出る釘は打たれる」と言う。
「木で鼻をくくる」をまったく違う意味でしょっちゅう使う(どういう意味だと思って言っているのか私にはいまだにわからない)。
ほかにも明らかに使い方を間違っている慣用句やことわざをたくさん使う。
それと、北海道には「あずましい」という言葉があって意味は「居心地いい」なのだが、彼女は本州から北海道に来てそこで初めて「あずましい」という方言を聞いてその意味を「うるさく走り回る」とか「騒がしい」だと思い込んでしまって譲らない。
彼女は「自分で直接聞いたことしか信用しない」といつも言うのだが、聞いたことを真実だと思うともう「そうなんだ」と思い込んでしまうようだ。
北海道に来て周りの人が「あずましい」を連発していたらしく、そういうときに限って周りが騒がしかったりしたのでそう思い込んだのだろう。
さらに北海道にはホッチャレという言葉があるが、これは産卵行動を終えて死んだサケの死骸のことである。
なのに彼女は「千歳川でもホッチャレが遡(のぼ)ってきてるね」などと言う。
死骸が遡上するわけはなく、彼女はホッチャレの意味がわかっていないのだ。
おかしくてしょうがない。
彼女はとくかく思い込みが激しい。
こうと思い込んだら他人の意見を受け入れない。
「あの人は巳年生まれだから執念深い」などということをしつこく言ったりもする。
そんなことが本当なら、 同じクラスだった人ほぼ全員が執念深いということになる。
「だから何年生まれでどうとかいうのは迷信だよ。そもそも干支なんて昔の中国で生まれた考え方でしょ。日本とは関係ないよ」
と言っても、「いや違う! わたしの経験からして絶対に干支と性格は深く関係してる!」
と譲らない。
もう60歳にもなるのに、全然丸くなっていない。
そして他人の攻撃ばかりする。
そのくせ自分は意思が極端に弱く、金がないくせに大量にタバコを吸うし一度にふたり分の食事をするし高い買い物をするし勤務時間中に私語をやめない。
それから日本語としてまるで意味不明のLINEメッセージも私に寄越す。
しゃべり言葉をそのまま文章にするから、きちんとした文章になっていないのだ。
編集の仕事をやっていたとき、私は多くの人から寄稿を受けた。
大学教授、研究者、社長などなど。
ところがそれらの寄稿の文章がほとんど日本語になっていないのだ。
その内容や要旨を想像して理解して文章を直すにはずいぶん骨が折れた。
『Zensoku Web』でメール対応をしていたときは1日に何十通ものメールをいただき、その何割かを「読者の声」として紹介した。
しかし、それらのメールのほとんどもちゃんとした日本語になっていなくて、中には全部書き直さないと意味がほとんどわからないというメールもあった。
日本人は日本語が下手すぎる。
テレビの『みやね屋』の宮根誠司などはアナウンサーのくせにちゃんとした日本語を話さない。
ウクライナにロシアが侵攻して間もないころ、日本でしばらく生活していていたというウクライナ人のボグダンさんと中継をつないでボグダンさんのコメントを紹介していた。
彼の日本語は文法も言い回しも慣用句も単語もみな正確で、それでいてわかりやすく、普通の日本人より日本語がうまいんじゃないかと思うくらいだった。
それに比べて宮根は日本語にならないしゃべりを延々と続け、「いわゆる」と言うべきじゃないところで「いわゆる」を連発し、聞いている私としては日本人として恥ずかしくなったものだ。
日本人は日本語をちゃんと勉強したほうがいい。
特にしゃべり言葉をそのまま文章にすることは控えるべきだ。
しゃべりではなんとか相手に伝わっても、それをそのまま文章にすると伝わらないことが多いからだ。
学校で教える「国語」だけでは正しい日本語の文章は書けるようにはならない。
本田勝一の『日本語の作文技術』や原沢伊都夫の『日本人のための日本語文法入門』などを読んで、正しい日本語を身につけてほしいものだ。
文章というものは、自分の意見や世の中の情報や他人の意見などを多くの人に正しくわかりやすく伝えるためのものだ。
わかりにくい文章や間違った文章では、相手に正しく伝わらない。
「相手にわかりやすく正しく伝えるんだ」という強い意志を持って文章は書かなければならない。
ところで、田原総一郎が大嫌いなこのおばさんは、『《2023年10月17日》ー我が障害者就労継続支援B型事業所の実態』と『《2023年11月8日》ー個室でひとりレザークラフト』に登場させた女性利用者である。
私を相手に毎日毎日、人の悪口や愚痴を撒き散らす女性である。
私がまともに相手にしなくなったら、私以外の男性利用者にLINEして愚痴を聞いてもらったら相手が同情してくれ、それで彼女のストレスはいったん消えた。
それで、今後はその男性利用者に人の悪口や愚痴を言うようになるのではないかと期待していた。
ところがその翌日から、また私に人の悪口や愚痴を言っているのだ。
毎日毎日、私は人の悪口や愚痴やらをまた聞いてあげている。
今は作業場ではなく相談室という狭い個室にひとりこもってレザークラフトの仕事をしているが、休憩時間や昼休みには作業場に戻る。
そうするとそのおばさんがすぐ話しかけてくるのだ。
土日になるとLINE電話をかけてきてまで人の悪口や愚痴を撒き散らす。
私の携帯は料金未納で契約解除されていて電話は使えないが、Wi-FiがあればLINEはまだ使えるのだ。
ああ、疲れる。
LINE交換なんかするのではなかった。
【ダイエット記録】0.2キロ増えた。あと-0.7キロだ。