レイモンド・チャンドラーの「THE LONG GOODBYE」は二人の日本人が翻訳している。清水俊二訳の「長いお別れ」と村上春樹訳の「ロング・グッドバイ」。自分は清水訳で育ってきたのでどうしてもそちら贔屓になってしまうが、強引に例えるなら清水訳は「俳句」で、村上訳は「短歌」といった感じだろうか。清水訳はバッサリ切り捨て男性を魅せて、村上訳は全てを語り女性も魅せる。

 

村上氏が「折に触れてはこの本を繰り返し手にとってきた」ように、自分も何か鬱屈した気持ちになるとこの本(清水訳)を開いてフィリップ・マーロウの世界に入り込んでいた。人間批評、社会批評が随所にちりばめられている文章や、フィリップ・マーロウの捻くれたセリフ、精神に惹きつけられた。そしてなんといっても“長いお別れ”というタイトルに込められた情緒に、いつもカタルシスを感じていたのだ。

 

男の友情と、男と女の恋愛の話だ。誰しも、こいつとはなんだか気が合うんだよなあ、という奴がいる。恋愛の方はわからない。身も世もない愛を経験することがあるかどうかなんて誰も保障されてはいない。漫画家の巨匠、手塚治虫さんが何かのインタビューで「これまでの人生で後悔はありますか?」と聞かれた時に「死ぬほどの恋愛を経験してみたかった。」と答えていたのを覚えている。

 

マーロウとテリー、テリーとアイリーン。

それぞれの「長いお別れ」が切なくてたまらない。

 

マーロウが留置場から釈放された時、新聞記者のロニー・モーガンが待っている。ロニーがマーロウを家まで送った後、別れ際に言う。

R「さよならをいって別れた友だちが一人いたはずだぜ。彼のために豚箱に入っていたとしたら、それこそほんとうの友だちだったはずだ」

M「だれが彼のためだといった」

R「記事にかけなかったからって、知らなかったわけじゃないんだ。さよなら、また会おうぜ」(清水訳)

 

アイリーンは“過去”の男の事を口にする。

A「ときどき、もちろんしょっちゅうということではありませんが〜〜〜そのへんの薄暗い片隅で、その人が私を待っているような思いをふと抱くことがあります。〜〜〜私たちはとても深いところで愛し合っていました。あらゆる尺度を超えた、身も世もない、ミステリアスな愛でした。人生にただ一度しか訪れる事のない愛です。」(村上訳)

 

テリーは、アイリーンに対して、一言の本音もはかない。ただ、自分の運命を甘んじて受け入れ、言葉ではなく行動で彼女への愛を語るのだ。

 

さて、このブログは気象に関することを書かないといけないと自分で(勝手に!)決めているので、この小説に出てくる気象関係の事を書く。

マーロウが活躍する場所は1940年前後の南カリフォルニア、この小説では主にロス・アンジェルスのハリウッド近辺が舞台となっている。手元の理科年表で調べてみると、ロスの年平均気温は20.3℃、年平均湿度は70.8%、そして年降水量の平均は322mm!ほとんど雨は降らないといっていい。20年前頃にロスを旅した時、確かに一度も雨は降らなかった。

そして、光化学スモッグ。1940年前後のロスは光化学スモッグが凄かったようだ。この小説にも、そのスモッグの様子が描かれている所がある。

「一週間が過ぎたが、ウェイド家からはまったく連絡はなかった。気候は暑く、むしむししていた。スモッグの刺激臭がじわじわと這うように西に流れ、遥かベヴァリー・ヒルズにまで達した。マルホランド・ドライブのいちばん高い所から、スモッグがまるで地表霧のように、市をぴったりと扁平に覆っているのを目にできた。」(村上訳)

「私は玄関から外に出た。世間から隔離されているこの土地らしい申し分のない朝だった。街からずっと離れているので、スモッグはないし、低い山でさえぎられているので、海の湿気も届かなかった。〜〜〜アイドル・ヴァレーは理想的な住宅街だった。非の打ちどころがなかった。〜〜〜しかし、マーロウという名の男がそこに求めていたものはすべて空しくなった。しかも、急に空しくなった。」(清水訳)

 

気象変化の乏しい街で、人の想いは激しく動く。スモッグに覆われたダウンタウンでも、スモッグのない高級住宅街でも、人はどうしても人を求める。マーロウはテリーの“遺言”に従って、二人でよく行っていたバーに向かいギムレットを飲む。若い頃、自分もマネしてギムレットばかりを注文した時期があった。もう決して戻りはしない女の事を想って。

 

男でも女でも、生きているのにもう昔のように会う事が出来ないというのが、なにより苦しいことなのだ。

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参照

・「長いお別れ」 レイモンド・チャンドラー著 清水俊二訳 早川書房

・「ロング・グッドバイ」レイモンド・チャンドラー著 村上春樹訳 早川書房