比叡山を登る二人の男。一人は宗近君、もう一人は甲野さん。この二人を中心に物語は巡る。

“春はものの句になりやすき京の町”を抜けて山を上る二人。

『山に入りて春は更けたるを、山を極めたらば春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峰のすそを縫うて、暗き陰に走る一条の路に、爪上がりなる向こうから大原女が来る。牛が来る。京の春は牛の尿の尽きざるほどに、長くかつ静かである。』

明治末期の春の話だ。

 

『柳垂れて条々の烟を欄に吹き込むほどの雨の日である。~~立てきった障子のガラスを通して白い雨の糸が細長く光る。』

京の宿の外には雨が降っている。

『古い京をいやが上に寂びよと降る糠雨が、赤い腹を空に見せてついと行くつばくらの背にこたえるほどしげくなったとき、下京も上京もしめやかにぬれて、三十六峰の翠の底に、音は友禅の紅を溶いて、菜の花に注ぐ流れのみである。~~ただ昔ながらの春雨が降る。寺町では寺に降り、三条では橋に降り、祇園では桜に降り、金閣寺では松に降る。宿の二階では甲野さんと宗近君に降っている。』

 

藤尾は、『紅を弥生に包む昼酣なるに、春を抽んずる紫の濃き一点を、天地の眠れるなかに、あざやかにしたたらしたるがごとき女』で、甲野さんの腹違いの見目麗しき妹であった。

小野さんは、藤尾の家庭教師で、大學卒業時に銀時計を頂いた将来有望な文学者。彼は、彼の恩人(孤堂先生)の娘、小夜子と婚約関係にあったが、甲野家の財産を目当てにして、藤尾と結婚したがっていた。

糸子は、宗近君の妹で『丸顔に愁い少なし、さっと映る襟地の中から薄鶯の蘭の花が、かすかなる香を肌に吐いて、着けたる人の胸の上にこぼれかかる』ような女であった。

 

藤尾は糸子を小馬鹿にしている。糸子は甲野さんが好きだったが、藤尾はそのことも馬鹿にする材料にする女だった。小野さんは藤尾に好かれたいがために、二人の会話にはなるべく入らないようにしている。

藤尾の京都の美の解釈を二人は聞くうちに、東京にも雨が降る

『糸子は黙ってきいている。小野さんも黙ってきいている。花曇りの空がだんだんずり落ちて来る。重い雲が、かさなり合って、弥生をどんよりとおさえ付ける。昼は次第に暗くなる。~~木立に透かしてよく見ると、おりおり二筋、三筋雨の糸が途切れ途切れに映る。斜めにすうと見えたかと思うと、はや消える。空の中から降るとは受け取れぬ、地の上に落つるとはなおさら思えぬ。糸の命はわずかに尺あまりである。~~そこまで近寄ってきた暗い雲は、そろそろ細い糸に変化する。すいと木立を横切った、あとからすぐすいと追いかけてくる。見ているうちにすいすいと幾本もいっしょに通って行く。雨はようやくしげくなる。~~糸子は立ち上がる。話は春雨とともにくずれた。』

 

小夜子は、五年の間、小野さんの事を思い続けていた。

『真葛が原に女郎花が咲いた。すらすらと薄を抜けて、悔いある高き身を、秋風を品良く避けて通す心細さを、秋は時雨れて冬になる。茶に、黒に、ちりちりに降る霜に、冬は果てしなく続く中に、細い命を朝夕に頼み少なくつなぐ。冬は五年の長きをいとわず。さびしき花は寒い夜を抜け出でて、紅緑に貧しさを知らぬ春の天下に紛れ込んだ。地に空に春風のわたるほどは物みな燃え立って富貴に色づくを、ひそかなる黄を、一本の細き末に頂いて、住むまじき世に肩身狭く憚りの呼吸を吹くようである』

 

藤尾の母は“謎の女”。甲野さんの継母であった。外交官であった甲野さんの父は、四ヶ月前に外地で病死してしまい、甲野さんが後を継いだ。だが、甲野さんは財産をみな藤尾に与えようとするが、継母である“謎の女”は、それでは体裁が悪いといって、策略を巡らす。小野さんを藤尾の婿に迎えて、それで後を継がせようとする。

 

文学者として成功を志す小野さんは、藤尾の財産を狙い、貧乏な小夜子との結婚を厭う。

『仙人は流霞を餐し、朝沆を吸う。詩人の食物は想像である。美しき想像にふけるためには余裕がなくてはならぬ。美しき想像を実現するためには財産がなくてはならぬ~~

詩人ほど金にならん商売はない。同時に詩人ほど金のいる商売もない。~~小野さんがわが本領を解する藤尾に頼りたくなるのは自然の数である。』

 

藤尾は、そんな小野さんの好意をもてあそぶ。

『愛の対象はおもちゃである。神聖なるおもちゃである。普通のおもちゃはもてあそばるるだけが能である。愛のおもちゃは互いにもてあそぶをもって原則とする。藤尾は男をもてあそぶ。一毫も男からもてあそばるる事を許さぬ。藤尾は愛の女王である。』

 

藤尾の母の考えは、

『小野さんは申し分のない婿である。ただ、財産のないのが欠点である。しかし婿の財産で世話になるのは、いかにも気に入った男でも幅がきかぬ。無一文の某を入れて、おとなしく嫁姑を大事にさせるのが、藤尾の都合にもなる、自分のためでもある。ひとつ困る事はその財産である。夫が外国で死んだ四ヶ月後の今日は当然欽吾(甲野さん)の所有に帰してしまった。魂胆はここから始まる。』

腹違いの息子に渡ってしまった財産を、隣近所への体裁を整えながら、自分の娘に帰すように画策する謎の女。

『蓮の葉が出たあとには蓮の花が咲く。蓮の花が咲いたあとには蚊帳を畳んで蔵へ入れる。それから蟋蟀が鳴く。時雨れる。木枯が吹く。・・・謎の女が謎の解決に苦しんでいるうちに世の中は変わってしまう。それでも謎の女は一つ所にすわって謎を解くつもりでいる。謎の女は世の中で自分ほど賢いものはないと思っている。迂闊だなどとは夢にも考えない』

 

小野さんは、小夜子や孤堂先生と会っている所を、藤尾に目撃されてしまった。

『藤尾には小夜子と自分の関係をいい切ってしまった。あるとはいい切らない。世話になった昔の人に、心細く付き添う小さき影を、あわぬ五年を霞と隔てて、再び逢うたばかりのぼんやりした間がらといい切ってしまった。~~ようやくの思いでついたうそは、うそでも立てなければならぬ。~~今日からはぜひともうそを実と通用させなければならぬ。』

 

孤堂先生と対峙する小野さん。小夜子の事を頼むと宣言される。

『外は朧である。半ば世を照らし、半ば世を鎖す光が空にかかる。空は高きがごとく低きがごとく据わらぬ腰を、更けぬ世に浮かしている。かかるものはなおさらふわふわする。丸い縁に黄を帯びた輪をぼんやりふくらまして輪郭も確かでない。黄な帯は外囲に近く色を失って、黒ずんだ藍のなかににじみ出す。流れれば月も消えそうに見える。月は空に、人は地に紛れやすい晩である。』

 

甲野さんは知っている。宗近君の良さを。人格の素晴らしさを。たとえ外交官の試験を落第していても、妹の夫としてふさわしいのは小野さんではなく宗近君であることを。また、父からは、いまや形見となっている金時計を宗近君に与えて、同時に藤尾のことも託すように言われていたことがあった。

甲野さんは、継母と藤尾にそのことを話すが、藤尾はにべもなくそれを断る。

甲野さんは、小野さんと藤尾の結婚を了承し、家も財産も、金時計も藤尾に与えてしまう。

 

宗近君は外交官の試験に及第し、散髪をする。それをもって全ての問題を片付けにかかるため、甲野さんの所へ行く。

甲野さんと宗近君。

『「宗近さん~~藤尾はだめだよ~~藤尾は飛び上がりものだ~~藤尾に嫌われたよ。黙っている方がいい。」

「うん黙っている」

「藤尾には君のような人格はわからない。あさはかなはね返りものだ。小野にやってしまえ」

「このとおり頭ができた」

「頭ができれば、藤尾なんぞはいらないだろう」

「これからだ」

「これからだ。僕もこれからだ」

「きみもこれからか。これからどうなんだ」

「本来の無一文から出直すんだからこれからさ」

「本来の無一文から出直すとは」

「僕はこの家も、財産も、みんな藤尾にやってしまった」

「やってしまった?いつ」

「もう少しさっき」

「やってしまうってそうたやすく・・・」

「何いるものか。あればあるほど累だ」~~

「・・それじゃあ叔母さんも困るだろう」

「僕の母は偽物だよ。君らがみんな欺かれているんだ。母じゃない謎だ。~~

母の家を出てくれるなというのは、出てくれという意味なんだ。財産をとれというのは寄こせという意味なんだ。世話をしてもらいたいというのは、世話になるのがいやだという意味なんだ。―だから僕は表向き母の意思にさからって、内実は母の希望どおりにしてやるのさ。―見たまえ、僕が家を出たあとは、母が僕がわるくって出たようにいうから、世間もそう信じるから---僕はそれだけの犠牲をあえてして、母や妹のために計ってやるんだ」

「貴様、気が狂ったか」

「気違いは頭から承知の上だ。―――今まででも陰じゃ、ばかの気違いのと呼びつづけに呼ばれていたんだ」

この時宗近君の大きな丸い目から涙がぽたぽたと机のうえのレオパルジに落ちた。

「なぜ黙っていたんだ。向こうを出してしまえばいいのに・・・」

「むこうを出したって、向こうの性格は堕落するばかりだ」

「向こうを出さないまでも、こっちが出るには当るまい」

「こっちがでなければ、こっちの性格が堕落するばかりだ」

~~~~

「僕のうちへこないか」

「君のうちに行ったって仕方がない」

「いやかい」

「いやじゃないが、仕方がない」

「甲野さん。頼むから来てくれ。~~糸公(糸子)のために来てやってくれ」

「糸公のために?」

「糸公は君の知己だよ。叔母さんや藤尾さんが君を誤解しても、僕が君を見損なっても、日本じゅうがことごとく君に迫害を加えても、糸公だけはたしかだよ。糸公は学問も才気もないが君の価値を解している。君の胸の内を知り抜いている。糸公は僕の妹だが、えらい女だ。尊い女だ。糸公は金が一文もなくなっても堕落する気づかいのない女だ。―――甲野さん、糸公をもらってやってくれ。~~」』

 

小野さんは、自分の代わりに友人を孤堂先生の所にやり、小夜子との結婚を破談にするようにしたが見事に失敗。孤堂先生は“自分で断りに来い!”と激怒する。

事情を知った宗近君は、小野さんの所にも行く。

『「小野さん、敵が来たと思っちゃいけない」

「いえ決して・・・」

「僕は当てっこすりなどをいって、人の弱点を乗ずるような人間じゃない。この通り頭ができた。そんな暇は薬にしたくってもない。あっても僕のうちの家風にそむく・・・~~

小野さん、まじめだよ。いいかね。人間は年に一度ぐらいまじめにならなくっちゃならない場合がある。~~

君は学問も僕よりできる。頭もいい。僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た~~こういう危うい時に、生まれつきをたたき直して置かないと、生涯不安でいてしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しが付かない。~~

世の中にはまじめが、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。皮だけで生きている人間は、土だけで生きている人間とそう違わない。~~

この機をはずすと、もうだめだ。生涯まじめの味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。人間はまじめになる機会が重なれば重なるほどでき上がってくる。人間らしい気持ちがしてくる。―――法螺じゃない。自分で経験して見ないうちはわからない。僕はこの通り学問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろしている。それでも平気だ。~~

僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々まじめになるからさ。~~

まじめとはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が達者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたってまじめじゃない。頭の中を遺憾なく世の中へたたきつけて始めてまじめになった気持ちになる。安心する。実をいうと僕の妹も昨日まじめになった。甲野も昨日まじめになった。僕は昨日も、今日もまじめだ。君もこの際一度まじめになれ。人一人まじめになると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。―――どうだね、小野さん、僕のいう事はわからないかね」』

 

雨が降り出すなか、宗近君は甲野さんの家に一同を集める。

『「叔母さん、雨の降るのに大入りですよ~~みんな掛けないか。立ってるとくたびれるぜ。もうじき藤尾さんも帰るだろう」

「なんぞ藤尾に、ご用でもおあんなさるんですか」

これは母の言葉であった。

「ええ、あるんです」

これは宗近の答えであった。

あとは―雨が降る。だれも何ともいわない。~~車は千筋の雨を、黒い幌に弾いて一散に飛んで来る』

 

皆の前に現われる藤尾。待ち合わせ場所に来なかった小野さんを罵倒するが、宗近君が一切の事情を説明する。怒りに震える藤尾は父からの金時計を宗近君に渡すが、彼はそれを大理石に向かって投げ飛ばす。

『「藤尾さん、僕は時計がほしいために、こんな酔興な邪魔をしたんじゃない。小野さん、僕は人の思いをかけた女がほしいから、こんないたずらをしたんじゃない。こうこわしてしまえば僕の精神は君らにわかるだろう。これも第一義の活動の一部分だ。なあ甲野さん」

「そうだ」

呆然と立った藤尾の顔は急に筋肉が動かなくなった。手が硬くなった。足が硬くなった。中心を失った石像のように椅子を蹴返して、床の上に倒れた』

 

藤尾は毒を飲んで自殺をする。北枕の死者の後ろには二枚折りの銀屏風が逆さにたてられている。描かれている花は、虞美人草であった。

『凝る雲の底を抜いて、小一日空を傾けた雨は、大地の随にしみ込むまで降ってやんだ。春はここに尽きる。梅に、桜に、桃に、李に、かつ散り、かつ散って、残る紅もまた夢のように散ってしまった。春に誇るものはことごとく亡ぶ。我の女は虚栄の毒を仰いで斃れた。花に相手を失った風は、いたずらに亡き人の部屋に薫り初める』

 

雨が、春の雨が降り尽くされ、薫風が初夏の香りを運んでくる。

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参照 

「虞美人草」 作者 夏目漱石 発行者 岩波書店