原作の「今昔物語集 -利人将軍、京より敦賀に五位を連れていくこと」「宇治拾遺物語 -利仁、芋粥の事」には靄などの気象は出てこない。
「芋粥」の主人公「五位」は名前さえも語られない、いじめられキャラで風采のはなはだ上がらない人物として描かれる。
仲間の侍達に、彼の篠枝の酒を飲んで、代わりにおしっこを入れられてしまうような人物なのだ。それらのいじめに対して五位は「いけぬのう、お身たちは」といってわずかに笑うばかり。
そんな、五位を馬鹿にするでもなく、もてなしたのが藤原の利仁だ。
利仁は摂政藤原の基経につかえた人物で、豪傑な武人として名を残し、原作ではこちらが主人公となっている。
彼は或る酒席で、「芋粥に飽きたことがない」という五位を、故郷の敦賀に誘いその夢をかなえされてくれるという。
その敦賀の里の描写に「雀色時の靄」が出てくる。

雀色時は夕方頃、そして靄は霧と同じような現象で視程が1キロメートル以上、10キロメートル未満のものだ。
いじめられ慣れしている人間は、人を信じられるようには出来ていない。京都からはるばる敦賀の里まで半ばだまされる様に連れてこられた五位にとって、視界がすぐれないのは当然、五里霧中とは言わないまでも「雀色時の靄」のなかにいるような気分だったのではないだろうか?
利仁という人物は豪傑で語られるだけあって人をうがった見方はしない。彼にとって重要なのは酒が飲めておおいに笑えればよいという事だ。世間に群がって政治的に立ち回り、弱者をいじめることに精を出し仕事とする人間ではない。

終盤、芋粥で満たされた大釜から立ち上る湯気と明け方の靄が一つになって五位の眼前に広がる。芋粥に飽きることが出来てしまう、という夢を目の前にして、わがかなしき五位は萎えてしまう。
わずかばかり芋粥を啜った五位は「いやもう十分でござる、十分でござった」と匙をなげる。利仁は執着せずに、敦賀への道中に現れ使者として使った狐をみつけ話頭を転じ、五位を助ける。
敦賀の里は朝を迎えて、晴れて風が冷たかった。五位が大きく「くさめ」をして物語は終わる。
夢は夢のままにしておきたいという五位の心情は、湯気と靄として描かれる。一方、利仁のスカッとした人物像が、敦賀の里の晴れて涼やかな情景として表現されていて、読者を慰謝させてくれる。

原作のように豪傑な武人が、風采の上がらない、でも仕事に実直でまじめな人間をもてなしたという話だけでも、平安期の日本人の心持ちを表していて気分はよいのだが、芥川さんはそれに気象のエッセンスを加えて、より鮮やかに心情を表現してくれている。
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 参照
・「羅生門・鼻」芥川龍之介著 新潮社
・「日本の古典を読む12 今昔物語集」小学館

・「新編日本古典文学全集50 宇治拾遺物語」小学館