『山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。』
「草枕」の有名な冒頭である。まったく、令和の日本でもその通りだな、と思う。
続けて、
『住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。』
本当に。実際、このインターネットな時代でさえ、あちらこちらに人でなしの国があるのだから。
さらに、続けて、
『越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。』
芸術家の存在理由。
主人公は東京の画家。時代は日露戦争真っ只中の頃。東京の煩わしさ、東京の人間(『しつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴で埋まっている』)から逃れて、那古井の郷へ旅にでる。
非人情をしにでかけた旅。ということでこの画家は、
『この旅中に起こる出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう。』
と、遊び心を働かせる。
『ここまで決心をした時、空があやしくなって来た。煮え切らない雲が、頭の上へ靠垂れかかっていたと思ったが、いつのまにか、崩れ出して、四方は只雲の海かとあやしまれる中から、しとしとと春の雨が降り出した。~~
糠のように見えた粒は次第に太く長くなって、今は一筋毎に風に撒かれる様までが目に入る。羽織はとくに濡れ尽くして肌着に沁み込んだ水が、身体のぬくもりで生暖かく感ぜられる。気持ちがわるいから、帽を傾けて、すたすた歩く。~~
初めは帽を傾けて歩いた。後には唯足の甲のみを見詰めて歩いた。終りには肩をすぼめて、恐る恐る歩いた。雨は満目の樹梢を揺かして四方より孤客に逼る。非人情がちと強過ぎた様だ。』
山間の茶屋で一休み。
『「御婆さん、此処を一寸借りたよ」
「はい、これは、一向存じませんで」
「大分降ったね」
「生憎な御天気で、さぞ御困りで御座んしょ。おおおお大分御濡れなさった。今火を焚いて乾かして上げましょ」
「そこをもう少し燃し付けてくれれば、あたりながら乾かすよ。どうも少し休んだら寒くなった」
「へい、只今焚いて上げます。まあ御茶を一つ」』
画家はこの婆さんを能の「高砂」に出てくる婆さんか、蘆雪のかいた山姥にみたてて話す。
『「いい具合に雨も晴れました。そら天狗巌が見え出しました」
余はまず天狗巌を眺めて、次に婆さんを眺めて、三度目には半々に両方を見比べた。~~蘆雪の図を見たとき、理想の婆さんは物凄いものだと感じた。紅葉のなかか、寒い月の下に置くべきものと考えた。~~余は天狗巌よりは、腰をのして、手を翳して、遠く向こうを指さしている、袖無し姿の婆さんを、春の山路の景物として恰好なものだと考えた。』
那古井の宿には出戻りの娘、那美がいた。この娘は、村では気狂い呼ばわりされているようだった。画家は娘を観察する。
『~~軽蔑の裏に、なんとなく人に縋りたい景色が見える。人を馬鹿にした様子の底に慎み深い分別がほのめいている。才に任せ、気を負えば百人の男子を物の数とも思わぬ勢の下から温和しい情けが吾知らず湧いて出る。どうしても表情に一致がない。悟りと迷いが一軒の家に喧嘩をしながらも同居している体だ。この女の顔に統一の感じがないのは、心に統一のない証拠で、心に統一がないのは、この女の世界に統一がなかったのだろう。不幸に圧しつけながら、その不幸に打ち勝とうとしている顔だ。不仕合わせな女に違いない』
村の床屋には江戸っ子がいる。
『「旦那あ、余り見受けねえ様だが、何ですかい、近頃来なすったのかい」
「二三日前に来たばかりさ」
「へえ、どこに居るんです」
「志保田に逗ってるよ」
「うん、あそこのお客さんですか。大方そんなこったろうと思ってた。~~」
「綺麗な御嬢さんがいるじゃないか」
「あぶねえな」
「何が?」
「何がって。旦那のめえだが、あれで出返りですぜ」
「そうかい」
「そうかいどころの騒じゃねえんだね。全体なら出てこなくってもいいところをさ。――銀行が潰れて贅沢が出来ねえって、出ちまったんだから、義理が悪いやね。~~
旦那あの娘は面はいい様だが、本当はき印ですぜ」
「なぜ」
「なぜって、旦那。村のものは、みんな気狂だっていってるんでさあ」』
親方は、画家の頭をその辣腕でもみくちゃにしながら、娘のうわさ話を続ける。画家は暖簾のすき間から外を眺める。小川の傍で爺さんが貝を剝いている。
『生温い磯から、塩気のある春風がふわりふわりと来て、親方の暖簾を眠たそうに煽る。~
砂川は二間に足らぬ小橋の下を流れて、浜の方へ春の水をそそぐ。春の水が春の海と出合うあたりには、参差として幾尋の干網が、網の目を抜けて村へ吹く軟風に、腥き微温を与えつつあるかと怪しまれる。その間から、鈍刀を溶かして、気長にのたくらせた様に見えるのが海の色だ。
この景色とこの親方とは到底調和しない。~~今わが親方は限りなき春の景色を背景として、一種の滑稽を演じている。』
一人、宿で思慮に耽る画家。ふと何かが目の端に移り込む。
『花曇りの空が、刻一刻に天から、ずり落ちて、今や降ると待たれたる夕暮れの欄干に、しとやかに行き、しとやかに帰る振袖の影は、余が座敷から六間の中庭を隔てて、重き空気のなかに簫寥と見えつ、隠れつする。
女は固より口も聞かぬ。傍目も触らぬ。~~
この長い振袖を着て、長い廊下を何度往き何度戻る気か、余には解らぬ。~~
暮れんとする春の色の、嬋媛として、しばらくは冥邈の戸口をまぼろしに彩る中に、眼も醒むる程の帯地は金襴か。あざやかなる織物は往きつ、戻りつ蒼然たる夕べのなかにつつまれて、幽閴のあなた、遼遠のかしこへ一分毎に消えて去る。燦めき渡る春の星の、暁近くに、紫深き空の底に陥る趣である。』
雨の中、温泉に浸かる。
『すぽりと浸かると、乳のあたりまで這入る。湯はどこから湧いて出るか知らぬが、常でも槽の縁を奇麗に越している。春の石は乾くひまなく濡れて、あたたかに、踏む足の、心は穏やかに嬉しい。降る雨は、夜の目を掠めて、ひそやかに春を潤す程のしめやかさであるが、軒のしずくは、漸く繁く、ぽたり、ぽたりと耳に聞こえる。立て籠められた湯気は、床から天井を隈なく埋めて、隙間さえあれば、節穴の細きを厭わず洩れ出でんとする景色である。
秋の霧は冷ややかに、たなびく靄は長閑に、夕餉炊く、人の烟は青く立って、大いなる空に、わがはかなき姿を託す。春の夜の温泉の曇りばかりは、浴するものの肌を柔らかにつつんで、古き世の男かと、われを疑わしむる。~~酒に酔うという言葉はあるが、烟りに酔うという語句を耳にした事がない。あるとすれば、霧には無論使えぬ、霞には少し強過ぎる。只この靄に、春宵の二字を冠したるとき、始めて妥当なるを覚える。』
春宵の靄が画家を包んでいる。
湯船に中で、ミレーのオフェリアのように漂う画家。そこへ那美が姿を現す。
『注意をしたものか、せぬものかと、浮きながら考える間に、女の影は遺憾なく、余が前に、早くもあらわれた。漲ぎり渡る湯烟りの、やわらかな光線を一分子毎に含んで、薄紅の暖かに見える奥に、漂わす黒髪を雲とながして、あらん限りの背丈をすらりと伸した女の姿を見た時は、礼儀の、作法の、風紀のと云う感じは悉く、わが脳裏を去って、只ひたすらに、うつくしい画題を見出し得たとのみ思った。』
画家は、宿の主人のお茶に誘われる。そこには近くの寺の和尚さんと、主人の息子がいた。お茶会の終りに主人は、息子が志願兵として満州に行くことを告げる。
『老人は当人に代って、満州の野に日ならず出征すべきこの青年の運命を余に告げた。この夢の様な詩の様な春の里に、啼くは鳥、落つるは花、湧くは温泉のみと思い詰めていたのは間違いである。現実世界は山を越え、海を越えて、平家の後裔のみ住み古したる孤村にまで逼る。』
画家は、お寺の裏にある池へ行く。そこで、池に漂うオフェリアのような那美の絵を描くこと想像する。
『然し何だか物足らない。物足らないとまでは気が付くが、どこが物足らないかが、吾ながら不明である。~~色々に考えた末、仕舞に漸くこれだと気が付いた。多くある情緒のうちで、憐れという字のあるのを忘れていた。憐れは神の知らぬ情で、しかも神に尤も近き人間の情である。』
ふと、視線を対岸の岩の壁を、上へ上へと眼をやる画家。
『~余の双眼が今危巌の頂に達したるとき、余は睨まれた蟇の如く、はたりと画筆を取り落とした。
緑の枝を通す夕日を背に、暮れんとする晩春の蒼黒く巌頭を彩る中に、楚然として織り出されたる女の顔は、――花下に余を驚かし、まぼろしに余を驚かし、振袖に余を驚かし、風呂場に余を驚かしたる女の顔である。
余が視線は、青白き女の顔の真中にぐさと釘付けにされたぎり動かない。女もしなやかなる体躯を伸せるだけ伸して、高い巌の上に一指も動かさずに立っている。この一刹那!
余は覚えず飛び上がった。女はひらりと身をひねる。帯の間に椿の花の如く赤いものが、ちらついたと思ったら、既に向うへ飛び下りた。夕日は樹梢を掠めて、幽かに松の幹を染むる。熊笹は愈々青い。
又驚かされた。』
寺の和尚を訪ねる。
『「あまり月がいいから、ぶらぶら来ました」
「いい月じゃな」と障子をあける。飛び石が二つ、松一本の外には何もない。平庭の向うは、すぐ懸崖と見えて、眼の下に朧夜の海が忽ち開ける。急に気が大きくなった様な心持である。漁火がここ、かしこに、ちらついて、遥かの末は空に入って、星に化ける積もりだろう。』
和尚は、那美が寺に法を問いに来ていることを話す。
『「~最近は大分出来てきて、そら、御覧。あの様な訳のわかった女になったじゃて」
「へええ、どうも只の女じゃないと思いました」
「いや中々機鋒の鋭い女で――わしの所へ修行に来ていた泰安という若僧も、あの女の為に、ふとした事から大事を窮明せんならん因縁に逢着して――今によい智識になるようじゃ」
静かな庭に、松の影が落ちる。遠くの海は、空の光に応うるが如く、応えざるが如く、有耶無耶のうちに微かなる、輝きを放つ。漁火は明滅す。
「あの松の影を御覧」
「奇麗ですな」
「只奇麗かな」
「ええ」
「奇麗な上に、風が吹いても苦にしない」』
画家は、ミカン畑の中を歩きながら那美のことを考える。
『あの女の所作を芝居と見なければ、薄気味わるくて一日も居たたまれん。義理とか人情とか云う、尋常の道具立を背景にして、普通の小説家のような観察点からあの女を研究したら、刺激が強過ぎて、すぐいやになる。~~余のこの度の旅行は俗情を離れて、あくまで画工になり切るのが主意であるから、眼に入るものは悉く画として見なければならん。』
山の上に出て、海を眺める。
『海は足の下に光る。遮る雲の一片さえ持たぬ春の日影は、普く水の上を照らして、何時の間にかほとぼりは波の底まで浸み渡ったと思われる程暖かに見える。色は一刷毛の紺青を平らに流したる所々に、しろかねの細鱗を畳んで濃やかに動いている。春の日は限り無き天が下を照らして、天が下は限り無き水を湛えたる間には、白き帆が小指の爪程に見えるのみである。』
画家は、ごろりと横になると、雑木の向うに野武士のような男が現れる。と、そこへ那美も現れ、なにやら話している。那美はその男に財布のような包みを渡す。野武士のような男は那美の別れた亭主であった。
出征する宿の主人の息子を見送るため、川舟で停車場まで行く途中、那美が画家に向かって話す。
『「先生、わたくしの画をかいてくださいな」~~
「書いてあげましょう」と写生帖を取り出して、
春風にそら解け繻子の銘は何
と書いて見せる。女は笑いながら、
「こんな一筆がきでは、いけません。もっと私の気象のでる様に、丁寧にかいて下さい」
「わたしも書きたいのだが。どうも、あなたの顔はそれだけじゃ画にならない」
「御挨拶です事。それじゃ、どうすれば画になるんです」
「なに今でも画にできますがね。只少し足りない所がある。それが出ない所をかくと、惜しいですよ」
~~
女は黙って向うを向く。川縁はいつか、水をすれすれに低く着いて、見渡す田のもは、一面のげんげんで埋まっている。鮮やかな紅の滴々が、いつの雨かに流されてか、半分溶けた花の梅は霞のなかに果てしなく広がって、見上げる半空には崢嶸たる一峯が半腹から微かに春の雲を吐いている。』
停車場に着き、主人の息子は汽車に乗る。汽車が動き出すと、後方の窓から別の男が顔を出す。
『茶色のはげた中折帽の下から、髭だらけな野武士が名残り惜気に首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合せた。鉄車はごとりごとりと運転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いている。
「それだ!それだ!それが出れば画になりますよ」
と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。』
非人情の旅は、神にもっとも近い人間の情を画にして終る。
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参照
「草枕」 夏目漱石著 新潮文庫 新潮社