「遺跡がどういうものか?」


エミと一緒に考古学公園を見なければ、私にとっては遺跡はただの石のかたまりでした。


私はシラクーサを同居人のエミとクラスメイトのアキラくんと観光をしています。

エミが建築を勉強しているので、古代の建物にも知識があって、考古学公園で私たちに説明をしてくれました。


ギリシャ遺跡は私の想像をはるかに超えた世界で、何もかもが新鮮!

今日は、シラクーサの魅力をご案内します。

考古学公園の観光についてはこちらの記事をお読みください。



【考古学公園をあとにして】

考古学公園の最後は、ローマ時代の円形闘技場跡でした。



ここはあまり保存状態は良くなかったので、コロッセオと同じ物だとは私には想像がつかない。

紀元前1世紀頃のもの、シチリア最大の円形闘技場でした。

ローマではコロッセオと呼ばれていますが、どこの円形闘技場も用途は同じです。

エミは建築を勉強しているので、現代の建物だけでなく、建築の歴史もよく勉強していて、古代の建築にも詳しい。

遺跡にはあまり興味がなかった私は、2人がいなかったら考古学公園には来ていなかったと思う。


考古学公園の後は、歩いて旧市街へ向かいました。

シチリア島の街の観光の問題点は、公共の乗物が不便と言うこと。 

バスがなかったり、あってもいつ来るか?わからずあてにはならないようで歩くか?タクシーか?になるのです。




【文化のミックスが魅力のシラクーサとは】

考古学公園から、旧市街のあるオルティージャ島まで歩いて30分ぐらい。



シラクーサの発祥地、オルティージャ島のことをお話しします。


オルティージャ島も、ギリシャ人が入ってきた時に人々が住み始めたところ。

ギリシャ時代には"最も偉大なギリシャ都市"と言われたほどでした。

オルティージャ(Ortigia)とはギリシャ語で"ウズラ"という意味!

今は橋で新市街とつながっていますが、オルティージャ島の長さ2キロ弱ぐらいです。

アラブ人が入ってきた後は、シチリアの中心はパレルモに移ってしまい、その後は1地方都市になってしまいました。

シラクーサは16、17世紀には大地震で街は破壊され、その後はバロックの街づくりで再建されます。

オルティージャの旧市街は、そのバロックで再建された建物が残っています!

建築を勉強しているエミには、シラクーサが大変興味深い理由が良くわかりました。


ギリシャ、ローマ、中世、バロックの建物といろいろな時代の建物があり魅力があるのがシラクーサの街です。

2005年にはユネスコの世界遺産にも登録されました。

シチリアの港としても、パレルモに繁栄は移ってしまい、今は漁港として機能しています。

シラクーサには新鮮な魚が入ってくるのです。



シラクーサ近郊は工事地帯もあるので、ビーチとしての評判はよくはありませんでした。


現在は人口12万人ほど、ギリシャ時代には人口40万人以上だったようですので、いかに栄えていたかがわかります。

中世以降はシチリアの中心はパレルモに移ってしまったので、逆に後期に遺跡等に手がつけられなかったのではないかなぁと思いました。

オルティージャ島まで歩く間に、建築の分野だけでなく歴史にも詳しかったエミが説明してくれます。

シチリア島の歴史は複雑、西海岸はフェニキア人の植民都市が多い、東海岸はギリシャの植民都市が多い。

その当時のイタリア本土とシチリアの間を走る電車は東はシラクーサまで、西側はパレルモでした。

両方行くのは難しいから、パレルモシラクーサかと言ったら、エミにとってはシラクーサだったそうです。



ミラノに来て、今回は日本人同士の付き合いが多かった。
 
いやな事もあったが、出会った人の好意により、何も知らない所で生きてこれたのは事実❗️

出会いはやはり大切にしたい、それぞれの役割りを持ち、3人で協力し合いながらの旅でした。


ありがとう❣️