『生物はウイルスが進化させた』読書感想②
仏パスツール研究所のパトリック・フォルテ―ル博士が提唱する
「ヴァイロセル仮説」とは、生物を新しく定義することです。
■「ヴァイロセル」と「ライボセル」
【ヴァイロセル】とは、「ウイルス粒子に感染した細胞」
- ヴァイロセルの「夢」はウイルス粒子をまき散らし、
100個以上の新たなヴァイロセルを作ること。
【ライボセル】とは、「ウイルス粒子に感染していない細胞」
- ライボセルの「夢」は分裂して二つのライボセルを作ること。
一見して「おかしな仮説」であることが誰にでも分かると思います。
パトリック博士の目には「多細胞生物」が見えていないらしい…
例えば人間のような「多細胞生物」が「ウイルスに感染」したと仮定すると
人間の全身の細胞のすべてに、一度にウイルスが感染するわけではなく
「一部の細胞」にのみ感染するだけです。
その時、人間は「ヴァイロセル」と「ライボセル」の「複合体生物」とでも
定義されるのでしょうか?
明らかに「不合理」な説明で、誰も納得しないと思います、
『生物はウイルスが進化させた』の著者である武村政春氏を除いて…
ウイルス学者はウイルスばかり見ていて、ウイルス以外は「目に入らぬ」らしい
「生命はウイルスを中心に回っている」とでも思っているのでしょうか?
パトリック博士は「単細胞」だと思います。\(-_-;) オイオイ
『生物はウイルスが進化させた』のP209
細胞性生物が「自立」しているのは、細胞膜の存在があって、
それによって外界と内部とが明確に分かれており、いつでも
「自己」と「非自己」を分け隔てできているからである。
■細胞性生物は完全には「自立」してはいない。
- 「シロアリ」は「木を食う」ことで知られていますが、
木の繊維(セルロース)を消化できません。
腸内微生物によって栄養を獲得しているのです。 -
「牛」が「草しか食べていない」のに、大きくなれるのは、
胃の中の微生物が草の繊維を分解して、
アミノ酸などに合成しているからです。 -
人間の場合も、腸内細菌叢を完全に破壊してしまうと生きていません。
すべての生き物は「他の生き物」の助けが無ければ生きていけません。
「完全栄養生物」と言われる「植物」でさえ、
「水と光と栄養素」だけでは、少しの間だけしか生きていけないのです。
■「自己」と「非自己」は厳密には分けられない。
人間は「自己」と「非自己」を「分けることが出来る」と「思い込んでいます」。
しかし、それは「脳」が作り出した「錯覚」にすぎません。
いったい、どこまでが「自己」と言えるのでしょうか?
- 「爪」は「自己」でしょうか?
では、「切った後の爪」も「自己」でしょうか? -
「髪の毛」は「自己」でしょうか?
では、「切った後の髪の毛」も「自己」でしょうか? -
「コップの水」は「自己の体の一部」ではありませんが、
その水を飲んで「体に吸収された後」も「自己では無い」のでしょうか? -
「体の中の水分」が腎臓でろ過された後の「尿」は、まだ「自己」でしょうか?
「体の外に排出」されたトタンに「自己では無くなる」のでしょうか?
細胞膜の内側が自己で、細胞膜の外側は自己ではないとすると、
「血管の中」は「自己ではない」事になってしまいます。
血管の中の「赤血球」や「白血球」は「自己ではない」のでしょうか?
もちろん「便宜的」には「自己」と「非自己」を分けることが出来ますが…
■生物は簡単には数えられない
ヒトデは足を切断すると新しく「足が生えてきます」。
足からは「体が生えて」きて二匹になってしまいます。
どちらが「自己」なのでしょうか?
「プラナリア」は切断すると「複数」に増えてしまいます。
「自己」はどれでしょうか?
植物も枝を切って「挿し木」にするといくらでも増えます。
アメーバは「分裂」によって増えますが、飢餓状態になると
「集合」して「多細胞体」として振舞うものも有ります。
「複数の自己」と言う「概念」は受け入れられませんか?
「体の外」にあっても「自己の一部」であり続けると、
考えることはできないのでしょうか?
■「生物」と「ウイルス」は「別の生き物」か?
「ウイルス」が感染した「生物」を
「別の生物」であると、分けて定義することが、
「無意味」であることは、分かっていただけただけたでしょうか?
ウイルスは生物(細胞)から外に出た、生物(細胞)の一部分です。
確かに「ウイルス」に感染された「生物(細胞)」が
「普段とは違う」振舞いを見せることはありますが、
それは「特別なこと」では無く、あらかじめ決まっていたコトなのです。
しかし、たまには「自分(細胞)」が壊れるくらい「高速・大量」に、
ウイルスが持ってきた「情報」のコピーを作ってしまう細胞もあるのです。
それが「病原性ウイルスの正体」なのではないかと考えています。