「石巻市泊浜山王

3・11 あの日がなかったら 

きっと、私は この町の名前を知らずにいたのじゃないかしら・・。

泊浜山王の太陽、 松川区長さまから

先日、 お手紙を頂きました。

これまでの、 あい☆えがおBox による 支援への...

本当に、 丁寧な 感謝の言葉をつづられたお手紙。

5月 ゆみぱんさんに お願いして

町民全員に パンをお届けしました。

その後、 裕子ちゃんたちの こころのこもったプレゼントも・・。

昨年、10月(2013年)

仲間と共に、 泊浜 松川区長さんをお訪ねさせて頂いた時も

ずっと、 お礼の言葉を、何度も何度も

恩返しします。恩返しします。 と 繰り返されていた・・。

同時に、

頂いているばかりでは

人間がだめになるから・・・

働かないと・・‼とも。。

海がだめなら、 陸がある‼️ 陸で自分が働いて、手本を見せる・・‼️

と、仰っていた 松川区長さん。

言葉通り、今年の4月にお電話した時には

区長さんの奥さま、、(おかあさん)から

松川さんが、 瓦礫撤去や、道路整備のトラックのタイヤについた泥を洗う仕事で

 毎日働きに出ている・・と お聴きしていました。

昨年、74歳だったから、今年は75歳。

今日も、汗水流して、 労働の毎日です。

お手紙には 続けて、

いつまでも甘えておられませんので、

今月をもって『あい☆えがおBOX』の支援はご辞退を・・。 と。 

少し寂しい。 

でも、流石 、松川区長さん とも存じます。

あい☆えがおBOXは、 今月をもって、泊浜山王にはお送りしませんが、

ずっと 心は繋がっています。 祈っています。

これからは、 あい☆えがおは、福島の ふみちゃんの ところと

必要とされるところ、

そして、

クリスマスカードの作成に 関わっていきたいと存じました。

約3年、 一緒に心を届けてくださった皆様 ありがとうございました。

今後とも、 どうぞよろしくお願いいたします。」(2014年9月15日)

✨✨✨✨✨✨

2022年12月25日

『被災地の子どもたちにクリスマスカードを届けよう!プロジェクト』の展示会で、

23日から福島市に入り、25日の朝 6時にあちらを出て来た私。

神戸への移動中に上記のブログに書いていた記事が、

なぜかスマホ画面に再アップされました。

懐かしく読み直し

13時30分から 神戸ホツマツタヱ勉強会に伺って、

今日のプログラムの39アヤ ( 景行天皇の皇子ヤマトタケさんが

東北を鎮めにいらっしゃった時の話が書かれているアヤ)を 

清藤先生から学んでいる中で、清藤先生からお伝えいただきました。

 

牡鹿(オシカ)半島の名前の由来、

牡鹿半島の 牡鹿 は、元は、オシカ、 勅使(さおしか)のオシカ

の音ではないかと ずっとヲシテ文字を声に出して読んでいて 思い至ったと。

 

景行天皇の御代の ヤマトタケによる 東征のお話。

ハラミ山(富士山)の東あたりから 

ヒタカミ( 福島県から青森県までの東北の地)はすべてホツマ国と呼んでいた。

ヒタカミを収めていたのは、 東方面はタカミムスビ14代のミチノク。

青森県西南・岩木山を根拠地として、

ツカルノキミ ヲホナムチの子孫 ツカルシマヅ ミチヒコ。

タカミムスビの初代は、クニトコタチさまの8人の皇子のおひとり

タノクニサツチ・ハゴクニさま。

外宮にお祀りされている豊受大神は、第5代タカミムスビ・トヨケカミのタマキネさま。

トヨケカミが 花咲く御代と歌われるほどのすばらしいホツマクニをおつくりになった

 その都のあったケタツボ、

アマテルカミがお祖父様のトヨケカミから

 トの教えをもって帝王学を学ぶため留学(16歳~30歳)なさっていた地、

そして、アマテルカミの皇子 オ

シホミミの都・タガノコフがあった地( 紀元前700年頃)は、 

後に多賀城となった 東北の重要な拠点。

壺の碑も こちらにあります。

また、

アマテルカミが滞在なさっていた時、カラスが金を口にくわえてやってきて

あたり一面が黄金色に輝くほど積んでいったと書かれているアマツの宮は、

 遠田郡涌谷町の黄金山神社。

牡鹿半島の先、鮎川から船で20分ほど沖合にある金華山黄金山神社は、

黄金山神社の奥宮ではないかしらと私は感じています。

 

宮城県 牡鹿半島は 涌谷の黄金山神社から金華山黄金山神社までつづく重要な地。

タカミムスビ家と 天皇 朝廷とのあいだに何度も 何度も

勅使・サオシカ が遣わされた重要な地。

ヤマトタケが勅使を遣わせた地。

清藤先生の 神戸ほつまつたゑ勉強会がこの日 39アヤ。

牡鹿半島に 注目してお話があり、 やはり

なにやら 不思議な天の計らいを感じました。

泊浜山王は、 牡鹿半島の中ほど東側にある小さな漁村。

区長さんの家には、 立派な大きな神棚があり、

集落の中にもお社があちらにもこちらにも。

 

ちなみに 39アヤの38に、ヒタカミのミチノクと 

シマツ ミチヒコとクニツコゐタリ(国造5人)とあります。

これは、シマツ ミチヒコとヱミシ(ヱゾ・蝦夷ー言語や風俗を異にした人々で、

ヱミシは末民であったけれども、その国を保つ力量があれば上の臣として

取り立てなさいと賜っていた(ほつまつたゑ17-97)

ミチヒコはヱミシ5人を混えて 

青森・秋田・山形の権域の国造りに取り組んできたが、 

ヱミシの勢力に押されて、ミチノク側にまで勢力を伸ばし、

また、勿来を越えて、天なる道に服はずということになってきてしまっていたので、

オシロワケ(景行天皇)は、ホツマ討ち(蝦夷討ち)を決定されたのでした。