赤塚さんや、バラさんがお話しくださった聖書
カナの結婚式、
かめに入れた水がワインになった奇跡のお話しを
お聞かせ頂いた時、
「婦人よ」 と、イエス様から言われたその瞬間のマリア様のお心は、
どの様なものであったか。
特別な存在で特別に信仰心も篤く、
イエス様の母となる女性に選ばれたマリア様であったとしても、
特別な神様の子をお預かりしていると、
イエス様を宿された時から、
覚悟して、覚悟して、受け入れて育てていたとしても、
それでも、母親として、その言葉を聴いたその瞬間、
マリア様のお心はどのようなものであったのだろうか
その後、十字架に掛けられ、
これ以上ないほどの辱めを受けながら死にゆく我が子を
見守り、見続けたマリア様のお心は・・ と、
旅の間、 イエス様の尊いお話しをお聴きしながら、
子をもつひとりの母親として胸が痛み続けました。
そして、 問いかけつづけました。
マリア様 どうしてその様な 大きな尊い
強い お心を持ち続けることが出来たのですか?と。
そうしていたら、
ふっと、中山緑奥様に頂いた言葉が湧いてきました。
愛し信じたニニキネに不貞を疑われ、
本当に冷たく酷い扱いを受けた時、
潔白と愛を証明するため
身籠った体で、お腹の中の赤ちゃんと共に
自分のいる小屋に火を放った コノハナサクヤヒメ。
その後、ようやくニニキネが、
コノハナサクヤヒメの真実の愛に気付いて
館の近くまできて、愛を伝える和歌を贈った時、
コノハナサクヤヒメは
なんの迷いもなく、ニニキネの元に走ったと、
3年前、ホツマツタエの中で
知った時、 私にはわかりませんでした。
これ程の仕打ちを受けながら、
なぜたった一回の手紙で許すことが出来るのか。
何事もなかったように、許し、愛すことが出来たのか。
緑奥様にそのことをお尋ねしたときに、頂いた言葉は
(そうね、その通りね。
ひとりの女性としたら、これ程の仕打ちをした人を、
許せない と思いますよね。 私も、そう思うわ。
でも、こんなことでないかと思うのよ。
コノハナサクヤヒメさんは、
ひとりの女性として自分の想いだけで
許されたのではなく、 生きられたのではなくて、
このニニキネさんが、日本の国、
この世界のためになくてはならない尊い存在であることを
わかっていたから、
ニニキネさんが
自分のお役を果たし皆が幸せになるためならば
自分の想いは置いておいて、
全力で支えよう、出来る限りのことをさせて頂こうと
思われたのではないかしら、と。
だから、許せたのではないかしら。
瀬織津姫さまも、 オトタチバナヒメさまも、
日本の尊い女性は皆、そうですものね。)
この言葉を頂いた時、
頭をがーんと殴られたような気がしました。
同時に、有り難くて、尊くて、あたたかな 霊水が
降りそそいできたようにも思いました。
(自分の小さな思いは置いておいて、
日本の国、世界の人々のために・・。)
同じ女性として、マリア様の母親・女性としての想いに、
私は涙しながら、
この崇高な魂で、
愛する息子を見守り続けていらっしゃったのであろう
マリア様の足の甲に
接吻させて頂くような、そんな想いを持ちながら旅を続けました。