8日お二人目の講師は バイマーヤンジンさん。

伊勢 修養団で開催された 志帥塾記念大会の時も
ご講演を聴かせて頂いて、大感激・大感動した チベット出身の
素敵な 美しい 大阪在住の女性です。

チベット の中でも、奥地の ガワ(中国名アバ)でお育ちになった...
バイマーヤンジンさん。
中国に取り込まれてから、ガワは、抗議の焼身自殺を
なさる方が 一番多い  悲しみを伴う 地名になった と
目を伏せて 語られました。
ヤンジンさんのご家族は、遊牧民でしたが、
文字の読めないご両親に、書類を突き付け
サインを強制し、 わけのわからないまま
命よりも大切な広大な大地、全ての財産を中国に取られ
故郷を捨てて ガワにいらっしゃった。
日本に生まれ、育った者には、想像すらできない
美しい 雄大な自然の中 といえ、
平均が海抜4000メートルを超すチベットの電気もない、
人が暮らすには過酷な環境の中。
生活の糧だったものをすべて奪われてしまった一家の
 
 貧しい 貧しい 貧しい生活。
11人兄弟の9番目だった ヤンジンさんは
ご両親、そして 上のお兄様 お姉さま ご兄弟の皆様が
一生懸命働いて、働いて、自分は食べないでも働いて
ヤンジンさんを学校に進めてくださったお蔭で 高校にも
進むことが出来ました。

その恩に報いる為に、極寒の冬も、体中に臭いが染み付く夏も
夜中まで、学校の寮のトイレのうっすらとともっている
灯りの下で  必死で勉強を続けられて
中国の音楽大学にお入りになることが出来ました。

しかし そこから始まる、壮絶な人種差別。 いじめ。
前回は、もっといろいろお聴きしたように思いましたが、
今回は、 さらっと。 

きっと、 それよりも お伝えになりたかったのが
求婚してくださった、日本人のご主人様と
そして、本当に 身ひとつで 言葉も話せないまま
やってきたお嫁さんを あたたかく迎えてくださった
ご主人様のご両親さまと 日本の国への感謝の言葉。
日本人・日本の国への メッセージ。

私が今回のお話で 一番心に響いたのが
日本にお嫁にいらっしゃったヤンジンさんが
あまりにも チベットの暮らしと違う豊かな日々
 お姑さんに 
「日本に生まれて 幸せですね。 幸せですよ。
 良かったですね。  私のチベットにいる母はかわいそう・・ 」
と、 毎日 連発なさっていた ある日。

突然、 テーブルを バン! と 叩いて 立ち上がった
お姑さんが

 私は、大陸で生まれた。 終戦の直前、お父さんは
 現地召集され どこに連れていかれたかわからないまま。
 終戦を迎えて、 命からがら 必死で 日本の国に
  
 帰って来たんだ。  日本に帰ってきても
 焼野原で、行くあてもなく、暮らすことも出来ず
 母の実家を頼って  徳島にいき、 必死で生きて来たんだ。
 あなたが 幸せだという 恵まれているという
 日本人の幸せは、 そんな日本人が
 命を 命を懸けて 作ってきたものだ。
 日本の国を 羨ましがっていても ダメ。
 そう思うなら チベット人が 自分たちでつくりなさい!

と、叫ばれたという 言葉。

「人間というのは
  
人に 希望 を与えるような生き方を せなあかん

そう ヤンジンさんに 仰ったそうです。
そのお姑さんの 命の叫びのお蔭で
ヤンジンさんは、 自分の使命・役割を見つけることが
出来た  と 仰っていました。

字が読めなかったから、無学だったから、騙されたお母さん
騙されても 抗議すらできなかった・チベットの国の多くの人々。

教育だ! と ヤンジンさんは 奮い立たれ
チベットに 小学校を建設する活動を始められました。
始めは、 ファーストフード店でバイトしたお金を送るところから・・。
頂いたチラシによると
2010年までに9つの小学校と1つの中学校を建設。
大学生への奨学金支援も。

もうひとつ。  お姑さんのとっても素敵な言葉を。

チベットの奥地で生まれ、中国の大学に進んでも
苦しい 辛いことばかりだった ヤンジンさん
日本にくることができたことを 奇跡、不思議 と 仰っていたら

「一生懸命にがんばっていたから、 
神様が  ちゃんとお迎えを差し向けてくださったのよ。
私の息子を 使って。 」

そして、締めくくりに

バイマーヤンジンさんは先人たちが  持ち続けていた
日本の国・ 日本人の 尊さ・素晴らしさを
自信と誇りを取り戻すように  熱く伝えてくださいました。