こちら↑の記事を書いてから

色々考えていた中で、

思い出したんですけど、

私はキリスト教の教会がくっついた幼稚園に通っていたので

毎週だったか、園長先生から聖書のお話を聴くイベントがありました。

その中で

①イエス・キリストさんが言葉をかけられただけで病人が回復したお話


②どこかの王様に侍る魔術師/マジシャンが杖を蛇に変えて見せたけど、主人公の方が上手(うわて)だったから、その幻を破ってみせたお話


あったような気がします。

すみません、ざっと検索したのですが②は見つからなかったので

旧約聖書の方かもしれません。私の検索スキルはかなり低いみたいですが。。。


①のお話に思いを馳せた時、

イエス・キリストさんには

病に苦しんでいる病人の

元気な“本来の”姿がすでに見えていたのかなー。

本人がそれを忘れているだけだから、「思い出しなよー」と

声をかけてあげたのかなー。という感じの印象を覚えたんですが。


・・・ししょーも

そういうトコロがあって、

ししょーの講座はものすごい情報量を

どばばばばばーーーーっ

毎回伝えられていたんですが、(笑)
大学の講義3ヶ月分くらいの体感でした。(汗)(笑)

適応障害+寝不足で脳の機能が落ちていた私は

録音を許可してもらっていたのに、(笑)

それでもお話に着いていくのに必死で(笑)

「ちょっと、待ってください。メモが間に合わないです」

というふうに待ってもらったことがあったんですが、

その時、ししょーが

「情報処理できる能力があるから、そっちに合わせちゃった✨(笑)」

みたいに言うていて、(笑)

「情報処理が追いつかずに目を白黒させている目の前の病人(笑)」には

全然気づいていなかったみたいな印象を受けました。


思い出すと、

ししょーの焦点、というか目の使い方も不思議な印象を受けたんですが

当時の私にはそれを観察する余裕はなかったです。(笑)


②のお話の幻術の蛇も

日本の平安時代の陰陽師、安倍晴明がミカン🍊をねずみ🐁に変えたエピソードも

似た印象を受けます。


幻想/イリュージョンを超えて

本質や本来の姿を見通していた。


で、(笑)

話は変わるんですが、(笑)

最近、個人的に届くメッセージに

「見切りをつけること」「重荷を預けること」

みたいな傾向があって・・・、

・・・長らく、アルクトゥルスのはしくれとして、

アビスの救助活動をしてきたけれど

もう、良いかな。

私も焦点の使い方を変えるかな。と

感じています。


足をぺたりと地面につけて


お読みいただき

ありがとうございます(^^)

😌⭐✨