なぜデモは「お花畑」に見えるのか?-その違和感の正体を考える
駅前でシュプレヒコールを上げる集団。国会前でプラカードを掲げる人々。 そうしたデモの光景を見て、あなたはこう感じたことはないだろうか。
「あんなことをして、何の意味があるんだろう?」 「もっと現実的な方法があるだろうに…」 「なんだか理想論ばかりで、まるで『お花畑』みたいだ」
そのように感じてしまうのは、あなたが冷たい人間だからでも、社会に関心がないからでもないのかもしれません。むしろ、日々の生活を真面目に送り、社会の複雑さを肌で感じているからこそ、デモの掲げる純粋すぎるスローガンに、一種の「違和感」や「非現実感」を覚えてしまう。
今回は、なぜデモや社会運動が一部の人々から「お花畑」に見えてしまうのか、その深層心理と構造について考えてみたいと思います。
なぜ、彼らは「現実が見えていない」ように映るのか?
私たちがデモに対して抱く冷めた視線。その背景には、いくつかの要因が考えられます。
1. 主張が「単純化」されすぎている
デモのスローガンは、複雑な社会問題を、人々の耳に届きやすいように極限まで単純化する必要に迫られます。「〇〇反対!」「△△を許すな!」といったキャッチーな言葉は、その問題が持つ多面的な側面や、解決の難しさを削ぎ落としてしまいます。
日々の仕事や家庭で、利害の対立を調整し、簡単には白黒つけられない現実に直面している私たちから見れば、その単純すぎる言葉は、あまりにも思慮が浅く、感情的に響いてしまうのです。
2. メディアが「変な人」を切り取る
ニュースで報じられるデモの映像を思い浮かべてみてください。多くの場合、大声を上げるリーダーや、奇抜なパフォーマンスをする参加者など、最も「絵になりやすい」過激な部分が切り取られがちです。
静かに意思表示をする大多数の参加者ではなく、一部の目立つ人々がデモの全体像であるかのように映し出される。その結果、「デモ=非日常的で、少し変わった人々の集まり」という印象が、知らず知らずのうちに私たちに刷り込まれていきます。
3. 「サイレント・マジョリティ」の現実
多くの人々は、日々の仕事や家事、育児に追われ、デモに参加する時間も精神的な余裕もありません。生活を守るために、社会のルールやシステムの中で必死に働いています。
その現実から見ると、平日の昼間からデモに参加している人々は、「他にやるべきことがあるだろう」「自分たちの生活を乱さないでほしい」という、ある種の特権的な存在に映ってしまうことがあります。この距離感が、「彼らは我々の現実が見えていない」という断絶感を生む一因となります。
しかし、歴史の「当たり前」は「お花畑」が作った?
ここまで、デモが「お花畑」に見える理由を考察してきました。しかし、少し視点を変えて、歴史を振り返ってみると、興味深い事実が見えてきます。
今、私たちが当たり前のように享受している権利の多くは、かつては「非現実的な理想論だ」と笑われ、社会から「お花畑」だと罵られた人々が、粘り強い運動の末に勝ち取ってきたものなのです。
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女性の参政権: かつて女性が選挙権を求めることは「女が政治に口を出すなど、分不相応だ」と嘲笑されました。
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労働者の権利: 「1日8時間労働」や「週休二日制」も、経営者からは「そんなことをしたら会社が潰れる」と猛反発を受けた、夢物語でした。
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人種差別撤廃: 肌の色で人の価値を決めない社会。これも、命がけで声を上げ続けた人々がいなければ、実現はるか遠い理想だったでしょう。
彼らの主張は、当時の社会常識からすれば、まさしく「お花畑」そのもの。しかし、その非現実的な理想を追い求め続けた結果、社会の常識そのものを変え、私たちの「当たり前」を作り上げたのです。
結論:「警報装置」としての価値
もちろん、現代のすべてのデモが、未来の「当たり前」を作るとは限りません。中には、共感しがたい主張や、明らかに間違った情報に基づいたものもあるでしょう。
しかし、「デモ=お花畑」と単純に切り捨て、思考を停止してしまうのは、あまりにもったいないことかもしれません。
デモや社会運動とは、いわば**「社会の歪みを知らせる警報装置」や「炭鉱のカナリア」**のようなものと捉えることはできないでしょうか。たとえその主張ややり方に100%賛同できなくても、「なぜ、彼らは仕事や生活の時間を削ってまで、声を上げざるを得なかったのか?」その背景にある社会問題に少しだけ目を向けてみる。
それこそが、複雑な社会と向き合う、成熟した大人の態度なのかもしれません。 次にデモの光景を目にしたとき、すぐに眉をひそめるのではなく、彼らのプラカードの向こう側にある「物語」を、少しだけ想像してみてはいかがでしょうか。