痛みがいてくれた
これは少し前の気づきだけど、、、痛みがいてくれた。この孤独、からどこに自分を置いたらいいかわからなかった時に、痛み がいてくれることが孤独じゃない証というか、無じゃない証拠というか、存在がの証明そんなところもあるのかも。本当に深く沈んだ時本当に気力がないけど、痛みがあることで、生きてる感覚を味わってたのかも。痛みすら、いてくれてありがとうという。無ではなく、痛みの存在で 生かされてたのかも。って思った。ーーーーーーーメモにあった。ーーーーーーーまって。どんなに一人でどんなに誰もいないと感じたとしても、痛みはいつも渡しといてくれたんだ。だから、、切り離せない。 痛みだけが私の味方になってたんだ。痛みすらも私にとっては味方で一人じゃない証拠だったのかも。一人のような、一人だからの痛みだと思ったけど、痛みだけでもこの体にあってくれたから、存在してくれてたから生きてこられたのかなここにいるよっってことで。それくらいの無価値観が。埋まってた。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーそれからいくつかのメモからだけど昨年知り合った人が、私に肺癌の余命宣告を告げられたことを打ち明けてくれたんだけど、そこで、私は、言われたことをそのまま受け止めるのではなくて、やりたいことをやりまくればいいんだよ。本当に魂のやりたいことをやればいいんだよって、言ってたんだけどさ、、その人が余命数日ということになり、まだ私は大丈夫と伝えて、でもその2日後に亡くなった。なんかね、ちゃんと告げられた通りに亡くなった。いくつかの治療法もしていたみたいだし、詳しくは聞いてないから、なんとも言えないけど、そのことを見た感じと私の痛みの感覚からも寿命ってある種告げてもらってそこに向かっていけるのも、救いだったりするのかなって。感じた。あてもないまま病気と向き合うことほど辛いことはないんだな。みたいな。そして、最近、ミュージカル時代の恩師も急に亡くなった。予兆もなく。どっちがいいんだろうか。不謹慎かもしれんばいけど、この年までの苦しみの積み重ねで、私は死が怖く亡くなってしまっていて、だからこそ、あんまり、感情移入ができなくなってきている。だけど、その恩師の休止は応えた。んだ。打ち明けてくれていた知り合いはなんか、準備して、本当に、寿命告げられたように亡くなっていったからさ。それで、私が痛みと付き合う中で、その痛みって、、死への恐れとの葛藤に繋がってるような気がした。なんか上手く言えないけど、、、その、死への恐怖を外した時痛みというのは、ただ、私が存在しているという感覚で、それに気がつけた時、痛みすら愛おしいというか、それくらい、そこまでしても気づけないくらい無価値観が根付いてるんだなって感じた。寿命宣告されて、それを希望に死んでも。寿命宣告されて、それでも戦って、それでもその通りに死んでも。死など感が無いまま、急な死をとげても。寿命は決まっていたかの如くやってくるわけで、、、だったら、今、生きていられるうちは、自分の肉体以上に大事なものはないんじゃ無いかなって思う。そして、こうでなければならないの、私が、少しだけ、、、軽くなれたのは、、、その知り合いの死で、、、伝えるだけ伝えたけど、知り合いは、そういう死に方を自分で選んだんだなって感じられたから。その人は、必要とされたい。最後まで、人に必要とされているか、を気にして生きていて、、、それを感じられて喜んで、亡くなったそう。厳しい私は、そんなの魂の本当の望みじゃないって思ってたし、医療や他者によってその通りになっただけで、自分の人生は選び直せるって信じてたからいろんなことを伝えたけど。そもそも自分の望みが、どんなに不足感からの望みだったとしてもそれが叶えられる、感じたれるって幸せなことなんだなぁって。そう思った時に今更だけど、なんでもありじゃんって感じた。なんか、それはただ今存在してる状態から何を望むか。ただそれだけで、、、誰かが悪いとか、どんなやり方が間違ってるとか、こういうやり方がいいとか、こういうことが正解とか、こうだったらこうなるとか、、、そういうことじゃない。生きている。ただそれだけ。で、望める。望んでいいこと。それなのに、人は、今までの抑制により、その望んでる人をジャッジして、叩いたり、望んでるけど叶わないことを人のせいにしたり、する。その連鎖が作り出してる苦しさや、ズレた教えが、また誰かを責めるループを作り出してるだけ。生きている。ということは、なんでも望んでいい。ってこと、なんでも望めること。なんだなぁってそう思ったら、その、存在が、無条件の愛 なんだなぁって感じた。愛とは、与えるものではなくて。ある ものなんだなって感じた。ただある。ただこの世界に存在してる感覚があることというか。なんかさ、誰かが言うじゃん。いったことはできなきゃ、いったのに叶えてないからダメとか、信用できないとか言われると、自分がダメな気になるけど、生きてるだけでいいわけで、、、、とにかく、自分がどうしたいのか、望めばいいの。それが人生なんじゃんって。感じたことがあったよ。なんだか、GOOD DAYの気づきにつながるね。自分の孤独ではなくて孤高のところで、胸の高鳴る方へ進んでいけばいいだけ。自分で決めていけばいいだけ。自分の望みだけでいい。なんかね、外の誰かや何かの情報たちから身を守るために、ぐっと固めて、存在してくれてた、体の部位たちが、細かく細く、私の体にはあって繊細だったんたなぁって改めて思ったし、この繊細さ、わかってあげられるのは私しかいないなっても思ったりもした。だって痛みは、ずっと、私を守ってくれてたんだもんね。今度は、私が、その私の方の感覚を優先してあげるよ。ってそう思ったら。痛みのみえかたが変わってきた。孤独を支えてくれてた守ってくれてた、痛み、体、ありがとう。そうだ、寿命を告げられた時その誰かの、医師の、権威に勝って自分自身の感覚を信じられるかってのが、病気から抜け出す。恐れか抜け出す鍵になる。この自分自身の感覚から逃げた時。望みは外れた望みになる。だから、その感覚から逃げることが認知症に繋がるのかなぁなんて仮説も生まれた。余命を告げられなくても病名がつかなくても体調が悪すぎなくても痛いや、辛い、やりたくないこれがやりたい、これがいい私は、これがいい。って言う感覚を尊重できる世界がいいなぁ。