アホリズム -3ページ目

"神のために芝居をやれよ" - by サリンジャー

クリスマスなんで、「神様」という訳ではないのですが・・・「フラニーとゾーイー」  (新潮社; 改版版 (1976/04) by Amazon)

カスタマー・レビューの中にもあるように、私も、サリンジャーの最高傑作だと思います。もっとも・・・そもそもの分母が少ないので、「読書家」として、自慢できたものでは、ないですが(苦笑)。

で、その中にある、名言、"神のために芝居をやれよ" という言葉・・・

もちろん、この"神様"が、「全てを救ってくれる神様かどうか?」は、判りません。と言うよりはむしろ、

「単純な論理で考えれば、物質的な宝をほしがる人間と-知的な宝でも同じことだけど-それと精神的な宝をほしがる人間との間に、ぼくの目に見える相違 は全然ないね」

なのですから。

えげつない言葉ですね(苦笑)。私は、以前のエントリーで、ニーチェの

「自分自身を軽蔑する者も、やはり常にその際なお、軽蔑者として自分を尊敬する」


を話しましたが、全くもって、それと通底する言葉です。

そりゃ、そうです。何故なら、

「何がエゴで何がエゴでないか これは、キリストを待たなければ決められないことなんだぜ。この宇宙は神の宇宙であって、きみの宇宙じゃないんだ。何がエゴで何がエゴでないかについては、神が最終決定権を持ってるんだ」

だからです。

じゃあ、なんで、"神のために芝居をやる"必要があるのでしょうか?


ここからは私の「想い」でしかありませんが、私の言葉で言うと、以下の通りです。


「神のために芝居をやる」ことすら、「物質的な宝をほしがる人間と、精神的な宝をほしがる人間との間に、(精神構造的な意味での)相違 は全然ない」と言う観点において、「同じである」ことは、判りすぎるくらい、十分、判っています<むしろ、「人間」こそが、世界においての欠陥品である>。

しかし・・・我々、人間は、「それしか、やり方がない」・・・だから、その意味で、「救いを求める資格は、ない」が、それでもなお、「その想いを、気づかせてくれた神様に感謝する」と同時に、(そうしたことも考える)人間として生まれたこと、そして、そうした人間を作り出した、神さまと、(その最高の欠陥品でしかない可能性が高い)自分に対し、ほんのわずかの可能性を信じ・・・

"神のために芝居をする"

ということだと、私は、考えます。


私の尊敬するマイケル・ポラニーは、大著「個人的知識」の中で、こう言っています。

「(自分の知的自己投出は)自らの"天職"を果たすことになるという希望によって満足する人々は、よく反省してみれば、それは希望に過ぎないという認識によって、希望を挫かれることはないことを、見出すだろう」

「(キリスト教的な救済のテクニークは)自ら受容する責務の遂行の中に、自らを滅却すること--省みれば、それが遂行不能に思われようとも--で、ある」

と。

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たぶん、後で読み返すと、言葉足らずの、訳のわからない文章の可能性が・・・(^ ^;)

クリスマスのセンチメンタルなプレゼント?にしては、全く、似つかわしくない、ハナシでした(苦笑)。


「民度格付機関」の創設は、どうよ?(笑)

クリスマスイブということで、小市民である私は、多少"豪華な"夕食を取りつつ、ポケーと、TVを見ていたのですが・・・

「THEトクメイ記者!」 (TV東京 2007年12月24日(月) 夕方6時30分~夜8時48分)を見て、「義憤」に駆られてしまいました。

それは、台湾-香港、そして中国を舞台とする、NEC製品を騙る詐欺事件についてでした。

この事件が発覚(報道)されたのは、確か2年前くらいだったかと思います。
そのときも私は、禿げしく激昂したのですが、それから、すっかり忘れておりました。

<オレ、NECの経営者とか、社員じゃ、ないし・・・と、思っていました
し(^ ^;)

これは、要は、製品偽装のみならず、契約からライセンス料の徴収まで、全て「NEC」の名義で行っていたという、極めて、確信犯的詐欺事件でした(「でした」と、取り敢えずは過去形で話していますが、「過去」になったのかどうかは、知りません)。

また・・・個人的には、哲学の「認識論」にも、関わる問題でもありました(笑)。何故なら、「何を持って、"NEC"と言うか?」という、「他者からの認識」という観点に関わる問題を提起した、と言う意味において。

<本当に、少し、考えさせられたのです。「法人」という"人格"とは、何か?と。また、これが新手の「会社乗っ取り」になったら・・・とガクブルしたのも、事実です>

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それは、ともかく・・・こうした事件や、その他諸々の、諸外国絡みの事件を見るにつけ、私は思います。

「民度」は、存在する、と。

もちろん、「何をもって、犯罪とするか?」を突き詰めれば、法的解釈や、それこそ文化人類学の領域にまで至るのですが、当然、ここでは、そんなハナシではなく、それこそ「己の欲せざる所、他人に施すことなかれ」における、国際常識的な合意レベルにおいてです。

で・・・企業の格付機関があるのだから、「民度の格付機関」も、作ればいいのでないか?と。もちろん、「リスク管理」の観点において。

指標は、「勤勉性」とか「コミュニケーション能力」のような、一般的指標だけではなく、「礼儀度」とか、「親切度」とか、「犯罪発生率」なども含めて。

もちろん、「犯罪発生率」の「犯罪」カテゴリーは、国家内での取り締まり対象である「犯罪」ではなく、前述の
国際常識的な合意レベルにおける「犯罪」です。そして、その国自体の発生率もさることながら、「他国における、自国民の犯罪発生率」という指標も、重要であることは、「比較」という観点から、当然のハナシです。

そして当然、犯罪レベルでウェイト付けすることは、言うまでもありません。

「リスク」は、単に企業の財務状況レベルだけ存在するのではなく、「カントリー・リスク」というのも、あるのですから。そして、その
「カントリー・リスク」は、政治だけではなく、それを構成する国民にも、関連するハナシですから。

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もちろん、こんな指標を作っても、意味がないことは、重々承知しています。

しかしながら、グローバルスタンダードというのも、"最初に、誰かが作り、それを誰かが、「グローバルに」広めたもの"でしか、ありません。

であれば、我々も、我々の価値観で、「グローバルになりえる」ものを、「
グローバルスタンダード」とすべく、主張するべきだと思うのです。

「武士道」や「禅」が、ほんのちょっとですが、国際的に認知された人生哲学であるように・・・

我々日本人は、経済のみならず、その我々の持つ考え方、マインドというものについても、「文化」という観点で、「グローバルに貢献できるもの」があると、個人的には、考えます。


もっとも・・・国内の最近の社会的事件を考えるにつけ、BB以下ではないか?と、懸念致します・・・(><)

C型肝炎訴訟-「議員立法による救済」は、"叡智"かもしれない・・・

薬害肝炎患者を一律救済へ、首相が議員立法での解決表明  (2007年 12月 23日 19:41 JST Reuters)

で、「議員立法」

この決断と方向性は、私は、"叡智"であると思います。「あるべき姿」を守りつつ、「今後の狙い」という点において。

しかし、後者においては、私も確信できる部分は少ないため、まずは前者の観点で、考えたいと思います。
<それに、それを、「うまく使えるか否か?」は、今後のやり方次第ですし(苦笑)・・・>

私が、これを評価する意味は、
・「救済」が、お上=行政=内閣 の「お慈悲」とは、ならないこと
・「立法府」と「行政府」の立場を、明確にしていること

だからです。

我々は、世の中がよくないと、「政府が悪い(アホ)」とか、「政治家が悪い(アホ)」とか言いますが、その前に、「三権分立」を、本当の意味で、判っていません。

「政府」は、本来、法を執行する立場です。だから、政府というのは、ある問題に対し、これが法に適っていると判断したとき、それを執行するだけの役割しか、「本来は」ありません。

そして、この問題では、「政府」は、自身に賠償責任なしと考えた・・・しかし、「法の適用を判断する役割である」司法は、ある程度において、「国=行政」の責任を認めた。その上で、その司法が、あのような、和解案を出した・・・

本来ならば、これで終わりです・・・もちろん、原告は、不服であれば、まだまだ「司法」に対し、「XXの法律に照らし合わせれば、明らかにおかしいじゃん!」などと、異議申し立てをすることはできますが、「和解勧告」と言うのは、ある意味、司法が、「原告さん、被告さん、このまま争っても、完全に勝ちとか、完全に負け、なんてことはないのだから、ここは、"痛み分け"ということで、やったほうが良いでしょ?」と、文字通り「勧告」しているわけです。

で、その後、「政治決断、政治決断」と、ワーワー言われた・・・しかし、実は、この「政治判断」こそ、非常に問題があるのです。「三権分立」という観点からすれば。

そして「議員立法」・・・これは、「"立法府"である議会」が、この問題に対する解決策を法案として成立させれば、「単なる法の執行機関である行政府である政府」は、淡々と、それに従いますよ、ということです。

・・・この考え方は、「まさに、民主主義の根幹のひとつである、"三権分立"」に、見事に適っています・・・

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では、マスコミが言っていた「政治決断」とは、いったい、何でしょう?それは、

「代官サマにお慈悲を請う」こと以外の、何物でも、ありません。

で・・・「政治決断を求める」と、<知識人と、自他共に自負している>マスコミが言うことは、彼らも含め、日本が未だに、この「お上のご慈悲」というマインドで、政府を見ていることの証左でしか、ないのです。

私は、これを全て、全否定するつもりは、ありません。例えば、それこそ、「凶作」の時には、食うだけで精一杯なので、「年貢の取立てを行う役目である」お代官様に、慈悲を請うことは、やむなしかと思います。

しかし、判っていないといけないのは、それは「お慈悲」、つまり、大目に見てもらう、ことでしかないのです。何故なら、時代劇と違って、「司法」という、「法の適用の妥当性を判断するところ」で、既に、行政の責任に対し、大枠の決着が着いているのですから。

そして何よりも・・・この「政治判断」が、いつでもOKならば、三権分立などの概念は、全く、意味がなくなります。
要は、「行政府の法の執行の匙加減こそが、全て」と、なってしまうからです。

<これは、実は、マスコミ殿の恐れる「権力の集中」に、他なりませんが、彼らは、「何故か」司法判断を批判せず、行政をやたら批判していましたね(苦笑)>

ローマ末期の「パンとサーカス」は、まさしく、このパターンです。そして、もっと恐ろしいことは・・・クレバーな人間ならば、この「政治判断」を、行政府の権力集中に、いつでも繋げることが、容易なのです。

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福田総理が、いかなる観点で、この「議員立法」という手段での解決を考えたのか、定かではありませんが、先の意味では「賢明な判断である」と、思います。何故なら、彼は、彼の「政治判断」により、もしかしたら、「慈悲のある代官様」として、人気を博したのかも、しれませんから。もちろん、それは、後に、より大きなツケを、生み出すものでしか、ないのですが。

その意味で、この方法は、賢明であり、評価すべきだと思います。