今日は恒例の公開がなかった。

残念

 

今週、ツイッターはピアノ関連でいくつかあった。

イベント報告(リツイ)とコンサート告知

いつもながら、控えめツイ

地方での活動にフォーカスしてる?イベントはともかくコンサートはそんな気がする。先のストピ意見動画から、設置者や開催者の思いを知っている節に触れていたので、興行というより依頼主の趣旨や思いに共感したものを引き受けているのではと推測する。それと自身の動画への要望が満たされるかどうかかな

 

 

 

 

数日たって、収まりつつあるが

彼の動画、発言はいろんなネット記事に取り上げられ盛り上がりを見せた。

これが彼の影響力だよなぁ。どの界隈でもそうだけど、インフルエンサーには一定のアンチがつきものでそれが目立ってみえるのは避けられない。世の常

 

今回、Yahoo!ニュースに取り上げられた記事についているコメントを読んだ。

数日前に読んだので今はもっと増えているだろうけど、一応全部に目を通し傾向はつかめた。

なるほどね。ストピ自身より、ストリートピアノYoutuberに対するアンチがここぞとばかりに湧いて出てくるのね。

ハラミちゃんの記事で起こる現象と同様

 

ストピ自体が歴史浅く、特に日本では4年前くらいから急激に増え、まだ文化として根づいていない、趣旨狙いも知らずに脊髄反射で「異物」を排除しようとする。新しいものを受け入れる土壌が乏しいというのもあるのだろう。

コンベンショナルというのかコンサバというのか、クローズマインドゆえの拒絶、排除したいがために悪い面にフィーチャーする。

コメント欄から受けた印象はこんな感じ

 

 

 

 

大きくは2つにわけて話そうかと

「ストリートピアノ文化」と「営利目的」

 

 

「ストリートピアノ文化」の中でも2つ

  1. 彼の言及範囲とメディアでの議論発散
  2. 「日本」のストピ文化の現状
 
1つ目、「彼の言及範囲とメディアでの議論発散」について

 

彼が言及したのは「ストピ文化」そのもの

そこでの当事者は、運営者、演奏者、そこに居合わせた人

舞台はピアノが設置された場所を中心とした一定範囲の空間

その中で起こる人間模様、作用

 

運営側としては居合わせた人に否定的な人がいることはもちろん織り込み済み、

それ以上にやる価値があると思っているからやっている

 

ストピを受け入れる入れないにかかわらず「不快感」を感じた人が、それを許容出来る人であれば問題ないが、スルーせずに苦情という行動を取る人がいる

ルールを定めている以上、それが守られていないというのは苦情する側も「正当性」を主張できる

 

「不快感」を我慢する必要性がないからクレームするのだろう

クレームした人が「撤去」まで望んでいたかは不明。人それぞれの感覚、沸点の違いを定量的に見極めるのは難しい

運営側としても適切な、コスト含めて現実性ある解が見出せない、苦情対応での業務支障が想定を上回る事態になると、「やる価値」より「やるデメリット」の方が大きくなり、撤退へと追い込まれる

 

人が感じる「必要性」「価値」はコントロールできないし、そこは期待すべきではない。ストピ継続にはストピに対しポジティブではない人達を刺激しない、共存することが不可欠

彼の言及はそういった前提をもとに、「その舞台の中」に限った話をしている。

 

 

一方、メディアでの展開は微妙にそこがちゃんと伝えられていない。撤去となったストピのオープニングに出演した、であったり、「私利私欲を反省している」を強調したり、間違った情報や主張のコアではないところを中心に据えたりで、ミスリードさせている。受け取り側も、そこを見極め読み解く気があるかないかで反応、意見は違ってくる

 

今回、議論、論点を発散させてしまった一旦は、メディアの調査不足と文章力不足にあると思っている。ま、読み手は都合よく読むし、負の感情を持つ人は何が書かれていようが持論を吐き出したいだけなので関係ないか、とも思うが

 

 
 
2つ目、「「日本」のストピ文化の現状」について
 

ストピ運営者の意図としてもいろいろある。駅や空港、公共施設内に設置される公益性が高い「文化的側面」が強いものから、商業施設に設置される集客を目的とするもの、その中間で観光地にあって旅行客など別の主目的があってそこに集まった人を地域をあげて喜ばせるため、などなど。

 

話にあがる「外国のストピ」はどちらかというと1番目の公益性が高いものを指していて、後者2つのものは、あるのかもしれないがあまり知られていない。

日本ではいずれの目的のものも「ストリートピアノコンテンツ」としてYoutuberなどネット配信者によりその存在を広く知られるようになった

 

日本で一般的に「ストリートピアノ文化」というと、Youtubeで慣れ親しんだ人ではない限り、先行した外国のイメージが強い。

さりげなさ、じゃんじゃん鳴らすのではなく情緒的、たまに聞こえてくる、静かな音で周りに溶け込んでいる、そういうものだというイメージをしている。

 

一方日本のストピは、弾きたい人がひっきりなし、たまに聞こえるのではなく、常に音が出ている、音量や曲調も周りに溶け込んでいない。

しかしながら、それはおそらくストピ次第。人気のあるストピはその傾向が強くなるし、人気のないストピはひっそりしているのだと思う。

 

日本独特?なスタイル、並んで撮影してじゃんじゃん弾いて、が発生する背景。

撮影して配信し称賛を得るYoutuberの存在が大きい、という意見はあながち間違ってはいない。なぜならその影響でピアノを始めた、Youtube配信を始めたという人もそれなりの数いるはず

 

今となっては、並ぶ人には有名Youtuberよりむしろ一般人で趣味で「ピアノを弾きたい」「聞いてもらいたい」「それを記録に残したい、共有したい」という人たちの方が圧倒的に多い状態になっているのだろう

 

それが外国スタイルと比べ「情緒がない」を思うのは、外国のストピ文化の型を好み良しとする人にとってはその通りであろう

そしてその「情緒がない」スタイルの元を作ったのがYoutuberであり、そこを悪の元凶と敵視する人がいるのは、仕方がない部分もある

 

そうであったとしても「ピアノを弾きたい」人が増えているという流れは誰にも止められないし、それは決して「悪」ではない。社会的に排除される必要はなく、並ばない、たまに弾かれる「外国の」スタイルがいいと願ってもそうはならない。

 

それを踏まえた上で、今のストピ文化、ストピ現象をどう捉えるかは各人次第。

ストピが増えていると言っても、コンビニ並みにあるわけではない。

またまた設置場所を生活拠点とする人にとっては「日常」かもしれないが多くの人にとってはそうではない

 

「非日常」の人はその文化が気に入らないとしても、「当事者」ではなくその場にいない「部外者」であり、体験せずに想像空想で言っているその発信、感想には意味はない(Youtubeで視聴を避ければいいだけ)

 

「日常」の人にとっては、マナーやルールという妥協点を見出すべきなのだろうと思う。そして明確なマナーやルール以外で感じる「不快感」に関しては、子供から大人まで、初心者からプロまで、クラッシックからPOPSやジャズ、ロックまで、そこに「自由」がある限り、幅をもって許容すべきと思う。通りすがりの長くとも数分の時間に対し、どんな音であれ許されないほどの理由は見つからない。

 

 

 

 

もう一つの話

 

「営利目的」について


Youtuberに対する批判として、

  • 自己承認欲のためにやっているコンテンツが脚光を浴びること自体を気に入らない
  • 「営利目的での使用は禁止」されているにも関わらずそれを配信しYoutubeで収益化している

大きくはこの2つに分類されるように思う

 

前者に対しては、ただの妬みひがみ悪口でしかないので反応に値しない

 

後者について

これを言っている人は、そもそも前者の理由があってYoutuberを糾弾したいが故の理由付けに「ルール違反」を上げ繕っている

 

公共性が高いものについては、通常こういった文言を使用ルールとして入れるのは一般的。よくあるのは「公民館」利用について。

 

ここで言う「営利目的」とはその場で金銭のやり取りをしない、つまりその場での演奏に対して観客からお金をもらう、チケット販売をしない、ということ

それをルールに盛り込む理由は非営利目的の公益性を謳う運営者側の意図に反するから。無用なトラブルを避けるため

運営者側が規定する「営利目的の禁止」の範疇はその程度であり、それ以上のものはない

 

もしYoutubeへの配信が運営者側にとってなんだかの不都合、不利益をもたらすのであれば、それはそのように明確に「禁止事項」として提示するであろう

現に駅や空港にあるストピ運営者がそういった動きを見せたという話は聞いたことはない。もちろん全部を知っているわけではないので、100%とは言い切れないが少なくとも「メジャー」ではないことは確か

 

 

例えば、公民館利用では、市民相手の無料の講演会があったり、そこでの講演の様子を配信であったり、要望に応え有償提供することはあるだろう。

著名人であれば、文章にしてメディアに有償提供したり、ブログにより収益化なども普通にある話

それとなんだ違いはない

 

公民館であったりストピであったりその運営者側が、活動者や演奏者が撮影、録音した動画や音声について、その先の使い方までを「規制する」理由、正当性は、よっぽどの合理性が存在しない限り「ない」。

合理性というのは、例えばネット上で公開されたものが運営者側にとって、評判を落とす内容であったり、非難されるものであったり、そういった「実害」を伴うもの

悪意ある、度を越えた使い方をされた場合など、誰が見ても運営者が不利益を被っているとわかるもの

 

普通は、Youtubeでの拡散は広告宣伝効果により運営を後押しする方向に働くため、マナーやルールを守っている範囲においてそこに難色を示す理由は何もない。

 

よって声高に「営利禁止違反」を訴えることは、相手(運営者)が意図していない「営利目的」を都合よく解釈し批判するために利用しているだけであり、何一つ理に適っていない。そう。ただ、煽りたいだけ

 

「煽り」と言えば社会問題になっている「煽り運転」。

ちょっとした”気に入らない行為”、他が理解できない、気づかないくらいのちっぽけなもの、それが勘に触り相手への過剰な攻撃に発展する。

それと同じ性質

他から見るとその非常識さ、異常さが顕著にわかるのに、当人は気が付かない

そういう特性を持つ人が世の中一定数いるってこと

「煽り」を行う者をケアすべきかどうかなぞ議論するまでもない

 

 

 

 

その他、余談もろもろ

 

ABEMA、たまたまリアルで見てしまった。

彼の「真が強い」姿、相手への理解思いやりなど、いろんな面が垣間見れるものでした。

 

TLでたまたま流れてきた、某Youtuberの動画の告知

彼の顔を載せて矢印で「わかっていない」というようなキャプチャを入れたサムネ

なんちゃら研究所という名の。

これも見てみたが、要するに「聞く側の問題、もっと寛容に」ということ

ABEMAでのコメンテータの意見に近いもの

 

音について

「子供の声は騒音ではない」という法律を作ろうとしているくらいだから、人にとっての「快適性」と「社会性」の両立はなかなかに難しいこと。となると、国や自治体のビジョン、公益性に関する共通理解、というなんだかの根拠や拠り所による民主主義的な社会合意(ルール決め)が必要になるのかもね。

 

他のストピ系Youtuberが無反応な件

発信するメリットがない、

社会的な影響力を持たないもしくはそこまでの信念がない、単にアンチの目を向けさせてしまうというリスクしかない

ということなんだろう。今時点ではそれが主要因と見ている