恒例の土曜日ではなく、振替前倒し、ってことかいな?

平日にもかかわらずバッチリリアタイさせていただきました。

こういう”案件”はWin-Win、音楽業界を盛り上げていければいいよね。

おかげで見るつもりなかったのに「決勝戦」、予約しちったわ。見るかどうかは後で決めよう。

 

今日はちょっと別なことを書きたいがために動画感想はいつもに増して雑でスイマセン。

 

 

 

蜜蜂と遠雷

 

 

ほんとにたまたま読んだ。

小説は読まないんだけど、、、いやウソ、読むときは大人読み?同じジャンル、作者の作品を片っ端から一気読みするんだけど、そのブームが去るとパタっと読まなくなる。最後にそのブーム来たのいつだったかなー、覚えてないや。ホラーだった気がするなー。違うかな医学系だったかな。

ともあれ、ふと最近、小説を読んでいないことに気づき、たまには読んでみるかと、アマゾンを見たらこれが目に入った。

レビュースコアも高かったし、「音楽」関連だったので読んでみることにした。

 

旅行中だったため細切れで読み進め、なんとか2日ちょいで読み終わりました。

ネタばれやバイアスかかるのが嫌だったのでレビューは読み終わった後に見た。

あとがきもちゃんと読んだ。

 

浜松国際ピアノコンクールを題材にしたもので、1次予選、2次、3次、決勝の様子を審査員や参加者の目線でコンクールの様子を描いた作品。

3年に1度開かれるもので、作者は2006年、9年、12年、15年の計4回10年越し、それぞれ2週間フルで聞いて書いたものとのこと。

書き始めたのは2009年、書き終わったのが2016年。7年間かけて

 

小説、久々に読んだけど、読みやすかった。

サクサク読めるのであっという間に読み終えた。こういうライトなのいいなと。

全体的には面白かったと思う。小説、フィクションとしては。

もちろんリアリティ、緻密さがもう少しあればもっといい作品になっただろうと思うけど、レビューの低評価を見てもそんな感じかな、おそらく音楽素人の作家が10年間かけて自分の目で見て聞いて感じて想像して描いたものとしては労力かけているだけのものはあったと思う。苦労して描いたんだろうと想像する。その結果、直木賞、本屋大賞?をもらった作品なので、一般受け的にはいいんだろう。

 

 

 

引っ掛かったフレーズを感想と伴に書き記す

 

浜松国際は存在くらいは知っていたけどまったくウォッチしていないコンクール

ここ最近、コンクールと言えば2021年のショパンコンクールかな。ちらちら見ていたのは。で、優劣が全くわからん、と思っていた。

今回の小説には審査員の話も出てくるので、もしかしたらその観点で聞くコツみたいなのがつかめるかもと期待したのだが、うーん、そういった専門的な話はなかった。

 

 

クラッシック市場

クラッシック音楽のファンは世界的に高齢化が進み、若いファンの獲得はこの業界の切実な課題である。

今から16年前はそんな感じだったか、と。今は若い役者がそろってその頃よりは盛り上がっていると思う。が、”若いファン”と限定されると微妙。もともと潜在的に市場としてあった”高齢者”を引き戻したというのが正しいのかもしれない。

業界の切実具合は今後も続くか、、

 

 

コンサートピアニスト

結局、誰もが「あの瞬間」を求めている。一旦「あの瞬間」を味わってしまったら、その歓びから逃れることはできない。それほどに「あの瞬間」には完璧な、至高体験と呼ぶしかないような快楽があるのだ。

 

クラッシックの世界で、自作のフレーズを付け加えることは冒涜に等しいと考えるものは多いのだ。まさに業、生きている業だ。おなかを満たすわけでもない、あとに残るわけでもない。そんなものに人生をかけるとは、業としか言いようがないではないか。
だが自分は選んでしまった。そして、その道は厳しくも他では得られない喜びに満ちている。

演奏後の”ブラボー”の瞬間のこと。

最近見たゆゆうたさんの切り抜き動画、ピアノかギターかどっちをやる方がよいか、みたいな話題。

その中で、”ピアノを一人で弾いていてもなにも面白いことはない。ただ指が痛いだけ。聴衆がいると称賛の声がもらえる、それはすごくうれしい”ということを言っていた。

称賛、まぁそうなんだろうね。みんなそれが欲しい。だが、もらえる人は限られている。そのごくごく狭き門に向かって、麻薬のように引き付けられる。中毒になる。一般人にはそういう経験が皆無なので”わかる”とは言えないが、想像は難くない。

 

 

審査員の声

これだけ技術が拮抗していると、あとは何か「引っ掛かる」というところでしか比べることはできない。自分が素直に「もっと聴いてみたい」と思うかどうかを基準にしている。

この辺だよな。素人の自分でも思いつくこと。素人は技術的な判断もできないのでそこは専門性はあるだろうけど、技術の良し悪しがわかったとして、その上でのジャッジがこういう感性的な事なのか?ホントかもしれないし違うかもしれない。このあたりがちょっともやもやするわ。

 

 

まさにコレ

良かれ悪しかれ、感情的にならずにはいられない。彼の音は、聴く者の意識下にある、普段は押し殺している感情の、どこか生々しい部分に触れてくるのだ。

琴線に触れる。感化される。感情を揺り動かされる何か。

これはどの音楽ファンも体験していることだろう。ゆえにハマる。

この表現はそれをうまく表している。

 

 

コンサートホールで聴くこと

しかし、数日もたつと、なんだか息苦しい、と感じるようになった。確かに素晴らしいし集中して聴けるのだけど、だんだん音楽がかわいそうになってきたように感じた。この暗い温室、厚い壁に守られてきた監獄で、ぬくぬくと庇護されている音楽を開放してやりたいような心地になってきたのだ。この音符の群れを、広いところに連れ出してやりたい。

音楽を閉じ込めているのはホールや教会じゃない。人々の意識だ。きれいな景色の屋外に連れ出した程度では、「本当に」音を連れ出したことにはならない。解放したことにはならない。

誰もが美しい音楽を求める。コンサートホールはそれを目的とした場所。

一流の楽器、ホール、観客。一時を過ごすには最高の場所。

それが”息苦しい””監獄”、うーんなんとなくわかる。作者はほんとに丸一日同じところに座り続け、2週間にわたってコンクールのすべてを聞いた。これはそこで感じた率直な感想なんだと思う。

”音楽を開放する”、何か深い言葉に聞こえる。今はそれ以上は言えないが、おそらく、自分が「彼」に惹かれるヒントはありそうな気がする。

 

 

クラッシックピアニストあるある

クラッシックの若手ピアニストはあまり即興に慣れていないので、どうしてもカデンツァに照れや不安のようなものが付きまとう。不思議なのは、譜面にあるものならばどんな難しいフレーズでも落ち着いて弾きこなせるのに、難しいカデンツァだとなぜかぎくしゃくして聞こえることだ。大衆の耳に洗われておらず、いわば評価が確定していない「若い」曲なため、説得力がなく技巧だけが浮いて見えてしまうのである。

完全な憶測。これ、あるある、なんじゃないかな。”若い”ピアニストに限ってのことかはわからないけど、譜面を前提とする、譜面がすべてであるピアニストにとっては、カデンツァ(即興演奏部分)が難しいというのはなんとなく想像できる。慣れとか好みかなと漠然と思っていたけど、”評価が確定していない”もので”説得力”に不安、というのは、なるほど、そうなのかもなと思った。

さすが4回もコンクールをフルで聞いてきただけのことはある。含蓄が深い。

 

 

音楽家の要件

こんにちの音楽家には絶対に必要なものだ。自己プロデュース能力と言い換えてもいい。どういう音楽家になりたいか、どういう音楽家として見せたいか。

そういう客観的な視点を備えている音楽家だけが他と区別され、生き残ることができる。リサイタルなりなんなり、ライブステージというのは、それぞれ一枚のアルバムを編むようなもので、他人の曲であり、様々な時代の曲であっても自分の内面に引き寄せ、曲を介し、プログラムを介して己の世界観を示さなければならない。

これも生でじっくり向き合ってきたからこそ見えてきたことなんだろう。

ショパンコンクールのYoutubeを流し聞きする程度じゃ区別がつかないのは当たり前なんだろうな。それとも流し聞きしていても気づくくらいの強烈な個性が見えてくるものなのだろうか。

いや、聴く側の見識も必要なんだろう。なんにしても”違い”が分かること、それが”何か”を言語化できること、それができて初めて見えてくるなんだろうな。

 

 

プロとアマ

プロとアマの音の違いは、そこに含まれている情報量の差だ。一音一音にぎっしりと哲学や音楽観のようなものが詰め込まれている。なおかつみずみずしい。それらは固まっているのではなく、常に音の水面下ではマグマのように熱く流動的なが想念が鼓動している。音楽それ自体が有機体のように「生きて」いる。

”情報量”の差

この表現、好きだわ。音数ではなく情報量。哲学や音楽観。「生きている」

何で”差”を出すか。何で”個性”を出していくか。

技巧では差はつかない、となると表現力、と言いたいところだが、その表現力が何かというのももう一歩踏み込んで表現している。この言葉、響きました。

今後音楽とかかわっていく観点としてはいいヒントだと思う。これをセンシングできるようになるために考え、感じることにもっと精度をあげていきたいかな。

 

 

 

こう振り返ってみると、なかなか興味深い言葉がちりばめられている。

(専門的ではないとコケおろしてごめんなさい(__)。そりゃそうだ、音楽家ではなく作家だもの)

 

 

 

演奏の仕方や聞いた側の印象などの描写も多く、メイン出演者については1次から決勝までの曲名も書かれているので、該当の曲を聞きながら読むと面白みが増すように思う。

おかげでここ数日、関連動画をサーフィンしながらクラッシックを聞き漁ってましたわ。

 

小説自体、フィクションの色が強かったけど、コンクールに出るのは、そして決勝まで残るのは一握りの「天才」であるという、それは紛れもない事実であろうから、小説に出てくるメンツの「天才」ぶりは全くのウソではない、ギリギリなラインを攻めている感はあった。

凡人にはにわかに信じられないからウソっぽいと思ってしまうが、本物の「天才」を凡人が測れるはずはないと思うので。

 

小説を読んだ後、アマゾンプライムで2019年に上映された映画もレンタルして見た。

これはちょっと物足りなかったかな。もともとの小説がボリューミーなので、主題をどこに置くか、どこをどう切り取って2時間に収めるかなど大変なんだろうとは思うが、全体としてちょっとぼやけてたな。キャストや絵はきれいだっただけに、残念。

 

 

 

 

以上、つらつらと小説「蜜蜂と遠雷」での気づきを書きなぐってみました。

クラッシックでありコンクールが題材なので興味の有無はあるだろうけど、「音楽」を聴く感性的描画はどのジャンルでも通じるところはあるので、そういった面白さは得られるかなと思った次第