土日昼は外食。

13時はちょうどご飯時なのよ。

当然イヤフォンは持ち歩いている。

 

昨日はいつものパスタ屋。メニューは3種類のみ。絶品。

知る人ぞ知るお店。少人数で来る人が多く、話もほとんどしない静かで落ち着いた空間が気に入っている。

13時はちょうど注文直後。絶妙なタイミングでプレミア公開が始まる。

南国リゾート風の半個室でその瞬間を迎える。まさに至福。

初めて聞く曲でちょっと難しかったけど、今回もよかったよ。

台風の日とは思えぬ明るい屋内広場。先日この目で見たあの広場、あのピアノで弾いたんだなと感慨深く。

 

 

賽は投げられた

 

 

CASから1週間ちょいか。

いろいろくすぶり続けたね。

 

気づいている人はいるのかいないのか。

彼の心は決まってる。

交渉、議論する気はないのですよ。完全シャットアウト

彼の”常識”が封じたいリスナーに通じないことは明白になったわけで。

一緒くたにしてして欲しくない。なんとかその0.1%問題を解決したい一心でおばちゃんたちがあれこれ様々なトーンで言及しようと一切届かない。

 

0.1%の人のことと割り切るのではなく、幅を広げ1,2割の人の言動にも踏み切った。それが”コメントするな”なんだと。

撮影現場で前列に陣取って応援するおばちゃんたちだけではなく、すごい遠巻きに固まってカメラを静かに構えるおばちゃんたち、例えて言うならそんな感じ、それも嫌だということ。

とにかく目に入らないでくれということなんだろう。

 

どうあがこうと一緒くたなのよ。

0.1%を切り離すのに残りの99.9%の中からも愛想つかして離れていくかもしれない。それも望むところなのかもしれない。表面化する大きなパイをなんとかしたい。細かい区別は不可能ってこと。

次に向けてリセットに踏み切った。

今まで築き上げたものを壊して再び作る、もっと大きな城を。

 

人生はチャレンジャーや!ってか。

 

もうすぐ200万人

記念配信はどうだろう。

リスナーを絞り込めない、完全掌握されてない状況でどう判断するか。

今の雰囲気ではスルーの可能性大だな。

彼の望みをかなえるアイデアがない限り

 


 

さて、今日は13時からピアノチャンネルでプレミア公開。

楽しみに待とう。

その後は暇なので映画でも見てこようかと。

残念ながらONE PIECEではないけれど。

ONE PIECEは読んでないからわからないと思うんだよね。鬼滅と呪術廻戦は読んだんだけどね、それぞれ2日くらいで一気読み(流し読み)w やればできる!

 

 

 

 

 

 

夜分に追記

 

 

今日のプレミア公開は行きつけのインドカレー屋さんで聞いた。

ショウガとトマトが絶妙な演出のマトンカレーがお気に入りだが、今日は卵入りキーマカレー。間違いないビックナンと伴に。満足な昼食。

そして恒例、出先でのリアタイ。後ろ姿から入る雰囲気いいね。字幕も落ち着いた感じもよい。

演奏はいつもの彼。間違いない。現在も鬼リピ中でございます。

 

映画

映画はいいね。その2時間は没頭できる。人のクリエーション力ってスゴイなと感心する。そうなんだよなー。映画でも音楽でも人がクリエートし人を感動させ魅了する。どれだけの好きと熱意と努力がそこにあるのだろう。クリエータはほんとに偉大です。

 

 

 

 

数の暴力

ある集団が、特定の思想において大多数の支持を得ていることをもって、その集団が絶対的な正義であると錯覚することで(衆人に訴える論証)、自分たちの思想に賛同しない、または賛同できない他の少数派の集団を排除・批判・抑圧することを指す。

Wikipediaより

 

リスナーの割合が3:7であるならば彼がターゲットとする対象は少数派であるはずが、発信するコアなリスナーとした場合99:1くらいの割合なのだろう。

発信の「多数派」が「少数派」を排除したり非難することはない。にもかかわらずなぜその状態が看過されないのか?

そういった雰囲気、つまり他を排除したり抑圧する雰囲気が出てしまうことが避けられないということ。

 

この理屈で言うと、多数派の特定集団はそれ以外から見た時に「悪」である。

一人ひとりの言動がどうこうという話ではない。存在自体が「悪」影響。それを認識して欲しい、認識すればおのれとどう振舞うべきかがわかるはずというのが彼の主張。

 

今、他の同業の配信者の状況を見てみるといい。

さすがにキツイことがわかると思う。この感覚を彼は常に持っている。

当初は長文、絵文字、美辞麗句など書き方の注意をしてきたがそこは課題の断片、本質はそこではないことに気が付いたのだろう。思考に思考を重ねて。

そして行き着いた先が「数の暴力」。

 

「数の暴力」を成す集団が消え去る、彼がやめて欲しいと考える言動をする人がほぼ壊滅しない限り、群を成すおばちゃん「集団」は一蓮托生、彼が受け入れることはない。

 

念押し。ターゲットは「個人」ではなく「数の暴力を形成する集団」。

しかしながら「集団を受け入れない」は「集団に属する個人(言動関係なく)受け入れない」を意味する。それが理不尽というのはごもっともだけどそれを声高に叫んでも心を閉ざした彼には通じない。彼が悪いのではない。個人がさばける規模の話ではない。限界を超えているということ。

 

 

今は完全決裂。解ける課題かどうかも不明。

静観さもなくば離脱。集団に属する人たちが彼と適切な形でつながりを持ちたいのであれば、静観以外取る道は残されていない。