中学校の「部活地域移行」問題に関心を持つようになったが、まだ調査不足なので、自身の思い出を書いていったん終わりに。

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 中学校の音楽室は吹奏楽部の練習場。

 土曜日の午後。吹奏楽部員であるわたしは、そこにいた。一人で。

(そう、かつては土曜日にも学校があって、午前中で終わっていた。「半ドン」って言ってね。と、最近の人には説明しないとわかってくれない)

 なぜ一人で楽器の練習を、ユーフォニウムの練習をしていたのか、記憶はない。先生に指摘されたところを修正しようとしていたのだろうか。

 そこに、1年後輩の彼女が入ってきた。クラリネットのMさん。

「あれ? なんかあった?」

 練習を止めて問うわたし。

「・・・忘れ物したんです」

 曖昧な返事の彼女。

 音楽室は無音になり、しばしの時間が過ぎる。

 探し物を見つけたのか、彼女は帰ろうとする。

 そこに、ピアノ。音楽室だから当然。

「弾いていいですか? ピアノの練習したいんで」

 彼女が幼いころからピアノを習っていて、「他の楽器もやってみたい」から吹奏楽部に入ってきたことは知っていた。吹奏楽部の練習でも、ピアノで自分のパートの音を確かめるようなことをやっていて、彼女がピアノを弾けることは部員全員が知っていた。

「ええよ。何の曲や?」

 何の権限があって学校の備品を使う許可を出したんだ、って感じだが、純粋に彼女が何を弾くのか楽しみだったのだ。嫌らしく言えば、どれくらい弾けるのか聴き定めてやろう、みたいな。

 窓からは、青空と、緑の平野が見える。小高い山の上の中学校。山の木々も緑。

 木造2階建ての2階の音楽室。柱も窓枠も木。床も木の色。茶色。

 そこに設えられたグランドピアノ。黒光りする筐体。外の光を反射して煌めく。

 彼女はそのピアノの前に軽く、気軽に座った。そして弾き始めた。

 聴くのはわたし一人。音楽室には、二人だけ。

♪ ショパン 幻想即興曲

 

 驚くわたし。

 3分くらい弾いて、途中で止める彼女。

「あー、ここまで。全部弾くには、まだまだ練習せねかんわ!」

 クラシック音楽を聴き始めて3年くらいしか経っていないわたしだったが、幻想即興曲は知っていた。有名な出だし。細かい音が次々とつながって上昇していく。その頂点で翻る鋭い高音のメロディー。

「凄いやん。こんなに弾けるとは・・・」

「・・・ほな、失礼します」

 彼女は音楽室から去っていった。

 一人残ったわたしはどうしたのだろう。練習を終えて、音楽室の鍵を職員室に届けて帰宅したのだろうか。

 家でわたしは母に言った。

「山代にもショパン弾ける子がおるんやぞ。1年下のMさん。すごいわ、あの子!」

 下品で、汚くて、猥雑な温泉町。周辺には休耕田。減反政策で「米を作るな」と言われた一定の割合の農家さんは、田んぼを耕してそのまま放置しておくだけでおカネがもらえた。

 そんな田舎にショパンを弾ける女の子がいる!

「Mさんな。そうか」

 と、冷たい母。クラシック音楽にまったく縁のない母には、わたしの高揚に応ずる態度がわからなかったのだ。

 だが、Mという名前を記憶し、息子の興奮を受け止めた。

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 高校に進学して1年後。彼女が同じ高校に入学してきた。だが、吹奏楽部には入ってくれなかった。なので、接触はほとんどなかった。

 それでも、通学ルートはほぼ同じ。国鉄の電車。

 今でも、高校に近いところに住んでいて徒歩や自転車で通っていた同窓生には言われる。

「【汽車】通学の人らのこと、うらやましかったわ。学校から駅までの道と電車の中で喋れて、仲良うなれるでしょ。ええがいね、そんな関係」

 国鉄のことは【汽車】と呼ばれていたのですよ! 私鉄が【電車】。

 その私鉄(北陸鉄道小松線)も廃止されてだいぶ経つ。

<JR西日本・IRいしかわ鉄道小松駅東口から東を見る:真っ直ぐの道が線路の跡>

<同:北陸鉄道小松駅の跡>

<JR西日本小松駅ホーム上から:重機メーカー・コマツさんの施設>

<以上2025年5月4日撮影>

 なので、同じ部に属してはいなくても、彼女とは時たま会った。通学路で。

 しかし、彼女はほとんど一人ではなかった。駅までの道を男子と一緒に歩いていた。なので、親しく話しかけることはできなかった。その男子が度々代わるのを遠目に見ていた。

 かく言う私も度々女子と一緒に歩いていて、しかもその相手が何度か代わったことがあるので、あまり人のことは言えないのだけれど。

 同じ高校に通っていることは当然、母も把握。

「あんた、あのM、どうしとる?」と母。

「さあ、ほとんど喋らんさけな。せやけど、モテるんやて、あの子」

 高校を卒業し大学に進学した私。1年後。

「Mは▽▽大学に行ったんやと」

 大学を出て就職後。帰省した私に母。

「Mは▽▽県の教員になったんやと」

 数年後。

「Mは▽▽県の同僚の先生と結婚したんやと。もう(山代温泉には)帰って来んやろうなあ」

 さらに数年後。

「Mに二番目の子供が産まれたんやと」

 これが、今のところMさんに関する母の最後の「調査報告」である。

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 高校生の時、山代温泉に加賀市文化会館が完成し、その杮落し公演に日本フィルハーモニー交響楽団が来てくれた。記念公演のためかチケット代は安く、高校生の小遣いでも購入できた。私はそこで、渡辺暁雄の指揮によるシベリウスの交響曲第2番などを聴いた。

 高校の吹奏楽部ではクラシックを聴く仲間ができた。彼らと一緒に何度か金沢へ行って生のオーケストラを聴いた。その吹奏楽部はエレキベース奏者とドラマーを擁し、アース・ウィンド・アンド・ファイヤーやスティービー・ワンダーやビートルズやカーペンターズをやった。

 山代中学校吹奏楽部で演奏したシューベルトの「未完成交響曲第1楽章」は私のクラシック音楽の入り口。

 市内の中学校吹奏楽部の交流会で、隣町である城下町・大聖寺の錦城中学校吹奏楽部が演奏したショスタコーヴィチの「祝典序曲」にぶったまげた。このとき、このソ連(!)の大作曲家は存命だった。

 同じく隣町・山中中学校吹奏楽部と「宇宙戦艦ヤマト」(作曲:宮川泰、歌:ささきいさお)を合同演奏した。

 入部してすぐに「危険なふたり」(作曲:加瀬邦彦、歌:沢田研二)をやり、やがて「横須賀ストーリー」(作曲:宇崎竜童、歌:山口百恵)が得意曲となる。

 得意曲の一つには「鹿児島おはら節」もあった。

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 世界的なコンクールで入賞するような優れたピアニストを育てることと、中学校の吹奏楽部を維持することの意味が違うとは、私には思われない。どちらかが欠けると、どちらもダメになるような気がしている。