今の大河ドラマの時代、天明の頃から始まったと言われる

北陸から北関東・東北への移民

「加賀の走り移民」の著者である池端大二先生と一緒に行った大阪万博(エキスポ70)から55年経って同じ大阪の地で万博が開かれていたことと、今年の大河ドラマ「べらぼう」を動機として、池端先生の遺された書を紹介しようとして始めたこのシリーズ。

 

 文化五年(1808)の良水の自刃によっても、加賀藩領から笠間藩への移民は完全に終結したわけではない。

 文政十二年(1829)の笠間西念寺の文書によると、この年までの加賀藩領からの移民は「二百余家」という。先に紹介した文化元年(1804)の文書では「六十余家」だから、25年間で約140家の「移民」があったことになる。

 もっとも、これらすべてが笠間藩であったとは限らない。西念寺が「仲介」したのがこの数字と考えるべきで、周辺の藩も含まれていたであろう。

 茨城県内の浄土真宗の寺を調査した記録(「加賀の走り移民」93ページ)によると、水戸藩内にも加賀藩領からの「移民」があったと推測される。御三家とはいえ飢饉や災害の被害は、当たり前だが、免れなかったのだ。

 ここまで書き忘れていたが、「移民」を数える単位が「家」や「戸」になっていることにお気づきだろうか。つまり、移住は家族単位で、最低でも夫婦単位だったのだ。幼い子供を連れて、当時の頃だから徒歩で、加賀や越中や能登から下野や常陸まで行くのは大変だったろう。ということで、その大変さを描いた小説なども、池端先生は紹介されている(この後に出てきます)。

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 北関東より大規模で長期間にわたる移民が東北で始まる。私が「加賀の走り移民」第二派と呼ぶ、相馬中村藩(現在の福島県浜通り地方北部)への移民である。

 この移民は数が多かったこともあってか、移住先で加賀藩領からの移住者が独自のコミュニティを形成し、現地である程度目立つこととなった。それは、それまで現地で暮らしていた人々から差別を受けたということである。

 差別されたから別コミュニティを形成せざるを得なかったのか、信仰の違いにより最初から別コミュニティを作ったので差別されるようになってしまったのかは、鶏と卵、としか言いようがない。

 移住者は「加賀泣き」と呼ばれるほど毎夜毎夜、泣いて暮らすほどの苦しい生活を強いられたという。貧しさのためか、差別されたためか。その記憶は子孫に受け継がれ、柳美里の小説「JR上野駅公園口」に描かれるように、昭和まで引き継がれた。

 この移住は文化七年(1810)から明治二年(1869)までの60年間にわたり、その総人数はおよそ7千人と推定される。根拠は、文化十年の「加越能走人書付留帳」という加賀藩の文書に118名が記録されていることで、これが60年続けば7千人になるからだ。この期間で相馬中村藩の人口は2万1千人増えたというから、その3分の1を移民が占めていたことになる(「加賀の走り移民」32ページより)。

 最初、相馬中村藩でこの移住政策を推進したのは久米泰翁という相馬中村藩士である。彼は文化十年(1813)に家老職を辞し、自ら農村に移り住んで移住者の世話に当たったという。

 だが、家老を辞職したのは、現実として移民が禁止されていたため、藩との関りを隠すのが目的だったに違いない。実際には藩の「公共事業」だっただろう。

 笠間など北関東と違って、この地には浄土真宗の寺がなかった。そこで久米は越中砺波の僧を招いて、当初は庵を、やがては寺をつくることを許して、加賀藩領からのつなぎとした。

 この移住はこの後順調に推移したようだ。記録もかなり残っており、移住者が何人、どこから来て、どこへ住んだかが今でもわかる。移住者は越中の砺波郡、今の富山県西部からが多い。つまり加賀藩領である。だから、「越中泣き」でなく「加賀泣き」なのだ。

 記録と共に記憶も残っていた。明治二年まで続いたように時代が近いこともあって、「加賀の走り移民」が書かれた頃(昭和50年代)の福島県のこの地に住まわれていた方々には、自分の先祖が加賀や越中から来たことを祖父母などから聞いていた人が相当残っていた。池端先生がそうした方に話を聞く場面も「加賀の走り移民」には登場する。

 やがて、この移住事業は農業改革事業へとつながって行く。相馬中村藩の農業生産高は大いに上がったという。

それに大きく貢献した人物が文政六年(1823)、かつて竹垣直温が赴任していた真岡の地にやって来る。その人の名は

二宮尊徳

 幕府から、竹垣らが管轄していた天領の農業改革を任されたのだ。

 その10年後の天保四年。またしても飢饉が襲う。天保の飢饉。

 それを乗り切ることができなかったのか。天保十年、一人の相馬中村藩士が二宮尊徳に入門する。

富田高慶

 彼は、尊徳が常陸や下野で行った開拓政策と同じようなことを相馬の地で行う。二宮の下で数年学んだ後の弘化二年(1845)に始まったこの政策は「相馬仕法」と呼ばれる。

 尊徳は相馬の地を訪れたことはないが、嘉永元年(1848)、相馬中村藩は尊徳の進言に従い、ある湿地帯の改良に乗り出す。そこへの移住は明治二年(1869)まで続き、その湿地帯への移住者の中には加賀藩出身者が25世帯あったという。

 この移住は幕府に公認されたものなのであろうか。もっとも、この時代の幕府は、それどころではなかったのであることは私が言うまでもないのだが。

 今も当地には、「相馬仕法」の成功や富田の功績を称える碑などが残っている。

 ここまで時代が下ると資料もたくさん残っている。これ以上私が付け加えることなどない。

 福島県相馬市と南相馬市のホームページからいくつか紹介して終わりにします。

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 「相馬仕法」により増えた人口も、「加賀の走り移民」では上記の通り2万1千人と千人単位なのだが、相馬市のホームページには「21,715人」と一人単位まで書いてある。

御仕法 中村藩の御仕法の成果/相馬市公式ホームページ

相馬の人が言うのだから「相馬仕法」ではなく「仕法」だけで通じるようだ。携わった人たちへの尊敬の気持ちが「御」に表れている。

 しかし、である。この相馬市のホームページでは、加賀藩からの移民についてまったく触れられていない。

ようやく、文化財として当地の浄土真宗の寺院について紹介する箇所で出てくるのみ。

https://www.city.soma.fukushima.jp/shinososhiki/shogaigakushuka/bunka/digital_museum/bunka_guide/shi_bunkazai/536.html

 この正西寺を池端先生が訪ねた件も「加賀の走り移民」には書かれている。

<「加賀の走り移民」146ページ>

https://www.city.soma.fukushima.jp/shinososhiki/toshokan/zousyo/9866.html

 また、このサイトには「本の中の『相馬』」と称して、文学作品等で相馬が取り上げられている作品を紹介している。

https://www.city.soma.fukushima.jp/shinososhiki/toshokan/zousyo/9866.html

 その中に次の小説がある。

「虹のたつ峰をこえて」新開ゆり子著

 池端先生がこの著者に会いに行った件も「加賀の走り移民」にはある。「数年前」とあるから、その頃から先生は既にこの書の準備をしておられたのだろう。

<「加賀の走り移民」23ページ>

 お隣の南相馬市のホームページで、ようやく加賀藩領からの移民について触れた文書を見つけた。

museum_tsushin_30.pdf

07.pdf

 「浄土真宗移民」という語も使われている。加賀という地名に馴染みがなく、どこなのか当地の人にはわかりづらいからであろうか。

 とにかく、この相馬中村藩への移民は資料も多く、実際に当地の発展に寄与したらしいので、興味のある方はどんどん調査・研究していってください、としか言いようがない。

 私も池端先生の足跡に触れられたことだし、これ以上、書くことはない。

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 と書いておいて最後から二つ目。

 柳美里の「JR上野駅公園口」の主人公が、この相馬の出身で、「加賀の走り移民」の子孫であることの意義について、私が思っていることを書いておく(一度書いたかな?)。

 「東北の農民」と書いただけで、日本人の読者はある偏見を持って読んでしまう。それは、貧しさや暗さや寒さにつながる。「東北の農民」が「東北」に引っ張られるのだ。しかし、それを加賀へ、北陸へつなげることで、「東北の農民」を「農民」の方へ、日本の「農民」全体の方へ引っ張ろうとしている、広げようとしている。

 貧しく暗く寒いのは「東北」ではなく「農民」なのだ。

 私はそう読んだ。

https://search.rakuten.co.jp/search/mall/%E6%9B%B8%E7%B1%8D+jr%E4%B8%8A%E9%87%8E%E9%A7%85%E5%85%AC%E5%9C%92%E5%8F%A3/

 

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 最後。

 私は、この地で仕事をしたことがある。相馬の南、双葉町で。あの大震災とそれに伴う原発事故で、今も住む人がほとんどいない地である。

 だからよく知っている、なんて言えない。だが、この地は「東北」というイメージから来る「暗さ」「寒さ」から少し離れていることは知っている。

 東は海。黒潮がすぐそこまで来ているので、海は冷たさを運ぶものではない。冬に北西から吹く季節風は山脈に遮られて、ここまで来ない。

明るく、温かい。

 北西の季節風をもろに受ける北陸の方が遥かに

暗く、寒い。

 その地で交流のあった方から頂いたこの書が、私が「方言辞典」をつくろうと思うきっかけの一つとなった。

 お返しせねばならぬと思いながら何年も過ぎてしまった。

 双葉町は、今どこに?

 

 本当の最後に、次にくだらない話を書いて、このシリーズを終えることにします。