8月7日朝。7時のNHKニュースが始まると、いきなり
「石川県加賀で線状降水帯」
かつ、金沢市内の水浸しの住宅地の映像。
慌てて母に電話した。
「ああ、やっと涼しなった思うて窓を開けたらすごい雨で、とても開けとられんさけ閉めたとこや」
喋っているうちに話題は、4日夜に石川県加賀市で起きた火災に。北陸自動車道と海の間にある防風林が火災となり、同自動車道がしばらく通行止めになった件で、これもNHKの夜9時のニュースが番組の終わり際に報じていたので、私は結末が気になっていたところだった。
「あそこでな、『コケ』を栽培しとって、カネとって採らせとるんやけど(観光農園的に事業としてやっているの意)、全部燃えてしもうた」
この農園のことは知らなかった。加賀市伊切町。キノコや山菜が大好きな母らしい情報だ。ここでその農園を紹介したいが、全部燃えてしまったのではしばらく営業不能であろう。
え? 母は「キノコ」なんて言うてへんやないかって?
「コケ」って「キノコ」のことなんですよ。この地域の方言なんですよ。
ということで、雨の話題から離れたことで実家周辺は大丈夫と判断し、私は通常の生活に戻った。
水害。能登の次は金沢かい。少しずつ南に来とるな。ほな次は・・・
***** ***** *****
我が家のテレビが白黒からカラーに更新されたのは、私が8歳か9歳の頃だから1960年代の終り頃。それまでの白黒テレビの映像で私の記憶にあるのは次のような番組だ。
① ウルトラマン (※1)
② プロ野球「阪神対巨人」甲子園球場
③ 道頓堀アワー (※2)
④ 芝居中継「金色夜叉」「婦系図」 (※3)
⑤ NHK朝の連続ドラマ
小学生男子が見るのだから①ウルトラマンはご理解いただけると思うし、②プロ野球も、日曜の夜にお父さんと一緒に観てたんだろうね、とおっしゃっていただける気もする。
だが、他の番組は「ホンマかいな」と思われてもしょうがない。
(③④については下記※注釈もご覧ください)
子供の頃の私のテレビの記憶は、白黒テレビの記憶は、圧倒的に母と一緒のが多い。
私が病気をして外で遊べなかった時期が長かったからかもしれない。母が、同居していながら口も利かなかった姑から私を離しておくために、近くに置いておいたのかもしれない。
本当に、「金色夜叉」や「婦系図」を母と一緒に観た記憶はあるのですよ。なにせ、記憶の映像が白黒なのだから間違いない。
そこからストレートに歌舞伎に関心を持つようになったわけではないけれど。
さて、そんな中に⑤NHK朝の連ドラがあるのは、母がテレビをつけっぱなしにして父や子供たちを職場や学校へ送り出すという、いかにも昭和の家庭のシーンをご想像頂ければ、ほぼ間違いない。
なぜ今こんなことを思い出したかと言えば、現在の連ドラ「あんぱん」(※4)が、最近では珍しく、戦争のことを、しつこく、丁寧に描いているからだ。
(以下、「あんぱん」についてはほとんど土曜日の「ダイジェスト版」しか見ていないことをお断りしておきます)
昔の連ドラには必ず玉音放送があった。
https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/syusen.html
必ずということは、もちろんないだろう。ただ、あの時代に、戦争が終わってまだ十数年から二十年くらいの頃に人の一生を描くとなれば、戦争を避けて通れなかったのは間違いない。
なので、小学校低学年から私は戦争に関心を持つようになった。いろいろな本を読んだ。「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の意味を調べた。戦艦のプラモデルにはまった(これは小学生男子のメカ類への健全な関心と受け取っていただきたいが)。
なので、ミッドウェー海戦で「加賀」という自分が住んでいる市の名前と同じ空母が沈められたことなどの「豆知識」も、かなり早くから持っていた。
もっとも、こんな趣味に付き合ってくれる友人がいるはずもなく、その意味ではクラスで浮いていた。
その関心が高じて大学で歴史を学んだ・・・わけではない。戦争への関心が復活するのはかなり年を経てからだ。政治的な問題に関わるようになってからだ。
実際に従軍した方々の講演会に行ったり、個人的に話を聞きに行ったりした。
「あんぱん」の男性主人公と同じ中国の中南部に行った人の話を聞いたことはないが、この地域の当時の様子は「あんぱん」を見る限り、インドネシアに行った人のお話と似ていると思った。
いつもいつも戦闘があったわけではない。日本軍が占領した地域では、占領された人々は普通の暮らしを営んでおり、占領者である日本軍人との交流もあった。期間が長くなればなるほど、日本軍人もそこでの生活者にならざるを得なかった。
インドネシアのスマトラ島に駐留した方は、そこで終戦を迎えた。当地ではほとんど戦闘はなく、その方は
「私は一度も銃を撃ったことはなかった。銃弾が飛び交う危険な所に行かされて、恐怖を感じて、痛い思いをして死んでいった人たちに申し訳ない」
と繰り返していた。
もっとも、日本軍戦死者の6割以上は飢餓と病気が原因であり、戦闘による死者数を上回っている。
ジャワ島に駐留した方はそこで終戦を迎えたが、この方は8月15日の後に戦闘を経験している。相手は米国でも英国でもなく、インドネシア独立軍である
(この件の詳細は拙ブログ
https://ameblo.jp/ahdsi/entry-12808723686.html?frm=theme
で既報)。
「あんぱん」で印象的なのは、この戦争に人々を駆り立てるために【教師】や【新聞社】が行ったことを徹底的に断罪していることだ。
主人公(女性)が教師を辞めた後に新聞社に勤め、かつ、そこにもう一人の主人公(男性)も入ってくるというのは、断罪すべき対象を描くためにわざわざ脚本家が滑り込ませたエピソードなのではないかと、私は考えている(もし、本当にやなせたかしさん夫妻の史実であれば、申し訳ありません)。
教師だった私の父が、昭和20年春に書いた文章が実家に残っている。父15歳のときだ。
はっきり言うが、読むのがアホらしい文章である。私は途中で読むのを止めた。よくもまあ、こんな文章を書くように「教育」したものだと、変な感心をした。
これはもちろん、父を非難したくないので、非難の矛先を、父を教育したアホどもに向けたという意味である。
父は、自分の文章が書かれた紙を目の前にしても、読み返そうとしなかった。触れもしなかった。新聞やテレビのリモコンを手に取って、そんなものには関心ないと装っていた。
母は、私が読み終えた(フリをした)紙を、笑いながら元の場所にしまった。姑から無言のまま受け継いだ、夫(姑の息子)の成長記録を保管してある抽斗に。
関心のなさを装う父と、笑う母。これが、自分で思考できる年齢に達していた父と、ギブミーチョコレート世代の母の違いである(※5)。
「あんぱん」の主人公の女性の変遷は、私には、そのまま父の姿である。
それが書きたかったので、この拙文をアップしました。
※1:ウルトラマン:
銀色の肌に赤い模様がある姿はカラーになってから観たのであって、私にとってウルトラマンは、全身シルバーである
※2:道頓堀アワー
道頓堀にあった「中座」という劇場からの寄席中継番組(だと記憶している)。かしまし娘の大ファンだった母が食い入るように見ていた。
※3:婦系図:泉鏡花原作「別れろ切れろは芸者のときに言う言葉・・・」
金色夜叉:尾崎紅葉原作「ダイヤモンドに目が眩み・・・」
なんてセリフは、小学生の時から覚えてました。湯島天神にも熱海にも行ったよ、随分後にね。
テレビ中継はいずれも新派の舞台だろう。主演は水谷八重子だったはず。新派は歌舞伎と同じく松竹が運営している劇団で、両者の交流もあるのだが、そんなことを私が知るのは、このかなり後のことである。
※4:ちょっと着ている物がきれいすぎるけどね。
※5:母自身が進駐軍(日本を占領した米軍)に「Give me chocolate!」と言ったことはないが、進駐軍のジープが来ると近くまで行き、その排気ガスの臭いを「ええ臭いや」と思いながら嗅いだとのこと。
やはり母と一緒に見たテレビ。ジープに乗る進駐軍兵士(GI)に日本の幼い子供たちが手を差し伸べながら群がり「Give me chocolate!」と叫ぶ当時のニュース映像。母は私に言った。
「ああ、この子らが私や。おんなじや」
