下鴨本通り北大路にほど近い料亭「福助」。その料理で一番印象に残っているのが、これ。

 鱧(はも)の柳川鍋。

「この魚、何や?」

 という誰かの声をきっかけに、この法事の主宰者である従兄と、次の映画の話題となった。

『秋刀魚の味』

 

 

 だが、話題に出来たのは私と従兄だけで、従兄も私に言われてやっと思い出したようであった。

「ああ、東野英治郎が先生やけど、生徒の方が出世してて、生徒に御馳走してもらう場面やな」

 従兄は見事にその場面を思い出した。

「魚偏(さかねへん)に豊(ゆたか)。漢字は知っていても、食べるのは初めてだったんだな」

 生徒のセリフである。

 

 「福助」は、京都の町屋をいくつかつなげたような造り。庭が特に広いわけではないが、そこは住宅地の中。静かに、ゆっくりと話ができる空間だった。

 先のがこの料亭の廊下。次は大聖寺(石川県加賀市)の、この度の仏様の妹の家。

 似てるよねえ。京都を模倣したのが、加賀・大聖寺というわけだ。

 

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 仏様の長男で、此度の法事の主宰者である従兄は、今暮らしている新潟から、生家の京都・下鴨に戻ることを決意したと、料亭で宣言した。

 70歳を過ぎて暮らしを変えるのは大変だとは思うし、それは奥さんの方が大変だと思う。その大変さを自分に納得させ、後戻りが効かぬように、別に私たち親戚に支援してくれと言うつもりはないのだろうが、母の法事と称して大勢を集め、その前で宣言した。そういうことではないかと思った。

 学生時代からやりたいことをやって、独力でいくつかのことを成し遂げてきた従兄らしいやり方だ。

 それは、全共闘世代だからとか、学生運動が盛んな時代だったから、という側面も否定はしない。

 

 その従兄の生き方について、その母であるこの度の仏様が語ったとされることを、仏様の妹が、義理の妹である我が母に伝えたという。

 複雑なので整理します・・・

 女・女・男の3きょうだいがある。一番上の姉がこの度の仏様で、加賀から京都に嫁いだ。次の妹は、生家から数キロの同じ加賀に嫁いだ。家を継いだ一番下の弟が私の父なので、我が母には義姉、いわゆる小姑が、二人いる。

 その小姑らとの関係は、当たり前だが、近くに住んでいる妹の方がより親しい。顔を合わせれば延々と世間話をしていた。方言丸出しで。地元の話題で。

 今回、その妹の方は入院していて来られなかった。そも、96歳やし。

 

 母は、私と弟と3人のときに喋り出した。

 母は二人の義姉を会話の中で、姉を「京都」、妹を「大聖寺」と言う。

「大聖寺が言うとった。『京都が言うたわ。「長男には、京都におって、ちゃんとした所に行って(会社とか役所に勤めて)、家を守ってくれてたら良かったのに、とずっと思うとったんや」』」

 かっこが複雑で(間接話法でもある)申し訳ないが、Aが言ったことを聞いたBがCに伝え、CがDに喋っている。三重会話とでも言えば良いのだろうか。DはAの意図を理解できるであろうか。

 できる。

 私と弟(D)は、母(C)の言っていることが、すぐさま理解できた。AとBのこともよく知っているので。

 二人とも母の言を直ちに否定した。大聖寺(B)がウソを言っていると断定した。

 余り喋るのが得意でなく、普段は声を荒げることもない弟が常ならぬ大声を上げたので、私は発言を弟に譲った。

 弟。

「京都がそんなこと言うわけないやろ。それは、大聖寺が自分の願望を(京都とはそれほど親しくないと知っている)義理の妹に、さも京都の発言のように話して、自分の意見が正しいことを主張し、家族や親戚に対する影響力を示そうとした。それだけや」

 私は全面的に弟を支持し、母も納得した。

 自分の主張を、さも他の人の意見のように、とくに影響力のある人の意見のように言って、自分を正当化する、自分の意見の正当性を主張する。こうしたやり方は、実は各所で行われている。

 会社でも。

 何度このやり方にだまされたことか、痛い目に遭うたことか。

 

 それだけ、この度の仏様である父の姉の影響力は、我々一族においては、大きかった。

 この京都の伯母あってこその、その長男の従兄であろう。

 京都の大学在学中に、研究のためと称して新潟へ去る従兄。それを許した伯母。許すどころか、その研究によって

不正を暴き、犠牲になった人々を救う

 ことを期待して送り出した。

 世の中を変えようと思っていた伯母。18であっさりと故郷を捨てて京都に出て行った伯母。あの時代、女が田舎を出て都会に出る方法は、嫁に行くしかなかった。

 息子ばかりか甥(つまり私)にも自分の考えを語って「焚き付けて」いた伯母。そんな伯母が、息子が自分の手許にいて、堅い仕事をして、家を守っていて欲しいなどと、思っていたはずはない。

 実は寂しかったとしても。

 

 私が従兄に語る。

「兄さん(従兄)、兄さんが大学に行ってへんこと(ほとんど通っていないという意味。学生運動最中なので授業がほとんどなかったらしいが)、伯母さん(従兄の母)から聞いてますよ、子供の頃に」

「ま、その通りや」

「ホンマに卒業したんですか?」

「新潟から論文送ってな、友達に頼んでな、最後には教授を脅してな、単位もろうたんや」

「ははは、ゲバ棒持って火炎瓶つくってた人らが、やりそうなことやわ」

「火炎瓶はつくってへんわ。ゲバ棒は持ってたけどな」

「大学3年か4年の時、リュック一つ背負って『ほな行ってくるわ』とだけ言うて京都のウチ出て新潟へ行ったて、伯母さん言うてましたよ」

「まあ、そんなとこや」

(私と従兄の、先日の実際の会話プラスこれまでの会話から構成しています)

 

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 料亭で出された手拭を持って帰る。

 料亭から手拭を持ち帰ったのは、小津安二郎の生地・三重県松阪の隣、津の料亭以来だ。

 

 下鴨の料亭。また来れるかなあ・・・

 ほな、また・・・