ここ数年、帰省の度に福井県各地を回っている。帰省先は石川県加賀市なのでその隣ということになるのだが、ほぼすべてが初訪問の地。知らない所だらけだ。
福井県、つまり越前の地には東西の奥行きがある。南北に細長い加賀に比べると、東の白山麓から西の日本海沿いまではかなり距離が長い。その間を大河九頭竜とそれに注ぐ足羽川が潤し、かつ運河として海と山を結んでいる。山海の物資を豊富に生産でき、かつ容易に大量に輸送できる豊かな土地であることが理解できる。
話は若干逸れるが、これが朝倉氏の力の源泉だったのだ。京にこんなに近い地にかかる豊かな地があれば、そこを押さえた権力者が政権を左右しても何ら不思議ではない。また、新田義貞がこの地で再起を図ったのも当然だと思う。
その地で生まれ育った女性作家がその地を舞台にして書いた小説を毎日新聞の書評で知り、渋谷の書店を回って求めたのは今年の初め。越前の地に興味を惹かれはじめた私には必然の行動だった。かつ、これまで研究してきた太平洋戦争の時代を描いている。時間的にも空間的にも、私自身に適合した小説に違いないと直感したのだった。
だが、読み始めは苦労した。肩肘に力が入った(と思われる)渾身の文章に読むスピードが上がらず、なかなか読み進められなかった。作者氏は相当この作品に力を入れている。そのエネルギーに圧倒された。
そのことはnote(集英社公式)でご自身でも語られている。それでも後半は一気に読み終えた。私自身に、この作品のエネルギーを受け止める体勢が整ったのだ。
時は昭和戦前。少女である主人公が様々な経験を経ていく。私が福井県在住の友人にこの小説のことを「朝ドラ」と説明した所以である。戦争の影が次第に濃く及んでくる。読んでいるうちに、これは戦争の終わりイコールこの小説の終わりにするつもりだな、とわかってくる。なぜなら、あの戦争はすべてを破壊したから。
舞台は福井。隣国加賀の住人にとって福井というのは福井県全域を表わす名ではなく、福井市、しかも中心部の町のみを指す名である。加賀の隣は越前であり、私より上の世代の人たちは今でも越前という名称を、福井県北部全体を指す言葉として使っている。
福井にある百貨店の名も、加賀の人間なら当然知っている。小説中では架空の名に変えられているが、福井に百貨店は一つしかないのでモデルは明々白々。百貨店という業態を説明するのに三越や高島屋が実名で出てくるのに、舞台となった百貨店だけが仮名というのはいかなる事情によるのだろうか。まあ、そのことは本筋ではない。
そんな地方の百貨店に戦前、少女歌劇団があったという事実に驚かされたことも、この小説を知ってすぐに買い求めた動機であった。主人公は、現在なら福井市の郊外でしかないのに当時は田舎だった地から福井市街に出、その歌劇団で2つの台本を書いた実績を持つ「女流作家」である。
話は、足羽川に注ぐ支流の川沿いの農村からはじまる。ここの貧しい農家に生まれた女の子は幼少の頃から本を読むのが好きで、もっと多くの本を読みたいと願うのだが、女は勉強する必要がないとの思想に凝り固まっている当時の親や周囲に阻止され、この地から逃げることを願っている。
それは実現し、福井市内の人絹工場で働くようになる。繊維産業が盛んな当地のことも取り入れたうまい構成(加賀でも繊維産業は盛んであった。昭和40年代までは)。そこで労働者を体験する彼女から野麦峠を連想するのは、あながち的外れでもあるまい。そして、その工場で知り合った女性から平塚らいてうや労働問題に目覚めさせられる。
ここから彼女が百貨店勤務になるところに若干の飛躍はあるが、致し方なかろう。華やかな百貨店で彼女は、田舎と町の格差を痛感する。今では同じ福井市内での移動に過ぎぬのに。
その百貨店が少女歌劇団を結成し、そこで看板女優となった少年と出会う。今流行の少年愛とか、そういう方向には走らない。ただ、彼が成長して男になるにつれ、この少年の正体が明らかになる。映像のない、文字だけの小説の利点だ。彼の顔の描写をしなければいい。彼の目が青いことなど、最後の最後まで書かなければ隠し通せるのだから。読者に対しては。
やられた、と思った。
彼を愛し始めていた主人公だが、戦争が彼を奪う。福井の町も灰燼に帰す。昭和20年の夏。まだ若くかつ幼かった私の両親が赤く燃える南の空を見て恐怖に陥った福井空襲で。
お話は、この1945年の破滅へ向かって突き進む。作者はnoteで、戦争まで書くしかこの小説を終える方法はなかった旨を発言されているが、その通りだと思う。
さて、主人公は昭和戦前という時代に、以下に掲げる4つの「格差」に直面する。
(1) 女性であること
主人公は貧しい農村での生活時、家族での食事で弟との「おかず格差」に疑問を持つ。男の子が女の子より一品おかずが多く供されていたのだ。
これは当時の農村一般のこととして、また男尊女卑の悪しき習慣として描かれている。作者氏も先のnoteで、友人の母より聞いた「実話」としている。
そこで私も、主人公より20歳ほど若い私の母に聞いてみた。昭和10年生まれの母が生きた戦前は10年しかないけれど。
母は、長男だから優遇されたと解した(本作の主人公の弟も長男)。母の母が、長男たる母の弟を優遇している様を実際に私も幼少の頃見ているし、母自身の長男である私にも「周囲の人にちやほやされた覚えがあるやろう。私はそうせなんだけど」と指摘した。
だが、「百姓の家やから食べ物に苦労した覚えはない」とも言った。自分たちで食料を生産できる農家は、この時代には有利だったのである。加賀がそうなら、越前も大差はあるまい。
男性である私からは指摘しづらいのだが、この作品における男女差別の描写はやや誇張されていると思う。だが、女性に対する差別が、かつてあったどころか現代でも残存していることにはまったく異論はない。
とにかく、主人公は女性であることによる格差を感じ、そこから逃れようとする。
(2) 労働者であること
福井市中心部の人絹工場で働き始めた主人公は労働者として、経営者から手荒い、理不尽な扱いを受ける。「野麦峠」は時代的にやや前だが、「蟹工船」と同時代である。
ここで知り合った友人は後に労働運動に身を投じる。
彼女はこの工場からも逃れ、百貨店に移る。二度目の逃亡である。
(3) 地方であること
百貨店を中心とした華やかな都市生活が描かれる。少女歌劇団がそもそもそうだが、阪急に代表される大阪の新しい都市空間が福井にも及んできたのは史実であろう。
私は、金沢近郊の粟ヶ崎(現内灘町)にも当時、少女歌劇団があったということにも驚いた。
大正デモクラシーを経て、第一次世界大戦後の不況も乗り切った日本経済、福井経済にはさぞ活気があったことであろう。そうした中で、主人公の故郷である農村と都市の格差が急速に拡大していることに、主人公は気づく。
(4) 難民であること
と、ここまでの3つなら私でも用意できそうな、想定の範囲内の「格差」である。
ところが作者氏は、越前という故郷をうまく活用して奥の手を出してきた。
それが、難民である。
敦賀港が、同じ越前にあった。この港に、ロシア革命から逃れてきた旧ロシア貴族や、この小説でもちらっと触れられているが、在リトアニア日本国大使杉原千畝の発給したビザを手にしたユダヤ人が大量に上陸したことは私も知っていた。時代的にロシア貴族が合わなかったのか、主人公が愛する「難民」は、ポーランドから逃れてきた難民とウラジオストックで働いていた日本人の混血児という、やや複雑な設定だ。史実として、かかるポーランド難民が敦賀に上陸し福井で暮らしたことがあるのかどうか、私には知る由もない(出版社に問い合わせたい気もするが)。
だが、故郷の、敦賀という「隠し技」をうまく活用した作者の手腕には敬意を表するものである。お見事。やられた。
ちなみに、敦賀は旧越前国ではあるが、現在では若狭と一緒に「福井県嶺南地方」とされる。実際、福井市と敦賀市の間にはかなりの山脈があって福井から見れば敦賀は山の向こう、ほとんど関西である。この感覚、敦賀からは関西という感覚は、加賀の人も共有している。
この小説は以上4つの「格差」を明らかにし、読者の眼前に提示してくれる。そして、昭和20年の焼け野原の福井で終わる。この1945年の破滅によっても、この4つの「格差」は解消されなかった。4つの「課題」は解決されなかった。
では、2020年の今はどうか。4分の3世紀、75年経った現在では。
私より18歳若い作者は、何も解決していない上の世代を非難している。そう私は受け取った。上の世代の中には当然、私も含まれていよう。
だが、1961年生まれの加賀の凡人が、自身より18歳若い隣国越前生まれの才媛と、同じ問題意識を持っていることに若干安心もした。
私たちは引き続き、以上4つの「格差」と「課題」の解決のために戦わねばならない。それが、この小説が私に教えてくれたことである。