第四章 陸軍による源泉掘穿工事と訴訟

嘆く行基和尚に、明覚は次のように語り始めたのである。

木崎山代町長からの督促方要請の陳情書に対して、県警は調停者としての立場から、山代鉱泉宿組合長宛に、[どうして契約を守れないのか]と書面で質問状を発した。やがて鉱泉組合に代わって大溜組から県警宛に回答書が送られてきました。それによると、[大溜組は県警察部長との約束で和解事項を実施しようとしていた矢先に緊急事態が発生した。その為に約束が守れなくなった]と回答したのである。
その緊急事態とは、陸軍が勝手に山代分院敷地内において源泉の掘穿工事と、電動機による揚湯工事をしていたことが判明したとのことである。それ故に鉱泉組合と陸軍省との間に、あらたに深刻な紛争が発生した。よって町当局との約束程度(軽く考えられたか)のことは後回しで、今は【それどころでは無い】と回答したのである。
ことの始まりは、次のことが原因であった。

昭和3年5月頃、金沢憲兵隊長、久留島群造は鉱泉営業組合員と薬師堂で会い、分院で削井工事を実施する事の了解を求めた。これ以降、陸軍と営業組合との交渉となったが、陸軍は分院内の給水設備の要求とともに湯量の不足と送湯施設の不備をあげ、営業組合の協力を求めたから、削井の目的が温泉掘削を意味することは明らかであった。営業組合は掘削が既存源泉に影響することを強調し、工事の実施を止めるよう強く申し入れたが、陸軍は「軍部ノ必要ニ基ヅキ当然ノ権利ヲ行使スルモノ」(昭和5年1月23日第九師団経理部長、大内球三郎より営業組合代表者正木哲郎宛文書)との態度で反対を無視し、昭和5年2月、ついに削井工事に着手した。

明覚は当地の温泉に関する事態が、山代町当局、山代鉱泉宿組合、陸軍省の三つ巴となって複雑かつ長期にわたる争いが、ここから始まったと解説した。(後の裁判記録によると昭和5年2月21日に陸軍が掘削工事に着手したとある)

山代分院では、近年特に増えてきた収容患者の給水用の井戸掘穿の名目で、鉱泉組合の猛反対を押して掘穿した結果、源泉が湧出し、昭和5年3月13日、そこから電力で揚湯を開始した。
やがて山代温泉において自然湧湯していた既存の全源泉が、見る見るうちにその水点を下げて地上から温泉の姿は消え去り、枯渇した旅館の営業が出来ない危険状態が現れ始めた。それは山代温泉の歴史上初めての事態であった。
鉱泉組合は直ちに金沢地方裁判所に対し、【陸軍による掘穿工事停止の仮処分申請】をした。当時は日支事変を経て、大東亜戦争に向かっていた日本であり、特に威勢を誇りふるった陸軍省を相手に訴訟を起したのである。当時の組合側の苦悩と決意は凄いものであった。

この訴訟に関する組合側の代表挌は永井寿氏(あらや)。一方同時期には共浴場問題で町当局との対決も抱えており、この方の組合側の代表格は、松木幸一氏(大のや)と正木哲郎氏(白銀屋)であった。町当局と鉱泉組合が共に被害者となって、一緒に加害者である陸軍省に対して戦うべきところであったが、町当局と組合側の間には共浴場問題で不信感が増しており、いがみ合い訴訟まで行われていた仲であり、到底共同歩調をとれる状況ではなかったのである。この時点において、鉱泉組合は、対陸軍との係争が重点で、共浴場問題を顧みる余裕もなかった。早くに共浴場問題を解決しておけば、陸軍との闘いには、町当局及び町民を味方に付けることが出来たのである。他方、町当局も新事態に直面しても方策がなく、鉱泉組合との紛争にのみ没頭していた。本来ならば、対組合との闘いを一時保留して共に陸軍省との闘いを優先すれば良かったのに、町当局は、この問題については傍観者の立場となり、対陸軍問題は専ら鉱泉組合に指導権をとられ、鉱泉組合が後にこの戦いに勝利した以降は、組合にリードされっぱなしの結果を生み、戦わざる者の悲哀を、その後、長く味わうことになったのである。

行基 「山代が一つに結集すりゃ強い力になるのになぁ。その後の山代の歴史でもお互いに手を携えてまちづくりを行なうことが困難なのは、これが原因かも・・・・・」
明覚 「しかし、時の陸軍を相手に戦うとは。鼠が象を襲うようなもんでしょうなぁ」

行基と明覚は顔を見合わせて大きくため息をついた。

鉱泉組合は分院における電力揚湯に対し、掘穿工事の停止を求める仮処分の申請のみならず、同日付をもって、組合員全員の連名で原告(申請人)となり、国を被告人(被申請人)として金沢地方裁判所に、【鑿井工事廃止及び復旧工事施行】の訴訟(本訴)を起こしたのであった。

仮処分申請文面の事実関係の一部は次の通りであったと、明覚は行基和尚に、裁判記録を提示した。(本訴の事実関係も同様の文面であったとされている) 
(事実関係)
1・申請人等ハ石川県江沼郡山代ニ於テ、温泉営業ヲ営ムモノニシテ、古来同所小字拾八ノ温泉地区内数ケ所ヨリ湧出スル温泉ヲ引用シテ各自ノ営業用ニ供シアルモノナリ。
2・申請人等ハサキニ金沢衛戍病院山代分院ニ於テ給水設備ノ為メ、其敷地ノ一隅(右山代温泉地域ヲ去ル僅カニ、三、四間ノ個所)ニ六百尺ノ深井ヲ掘鑿セントスル計画アルヲ聞知シ、若シ之レガ実施ノ場合申請人等引用ノ温泉湧出量漸次減少シ温度モ亦異常ニ低下シタルニ付、大イニ驚キ、全ク前記鑿井工事ノ実施上既ニ掘鑿セル抗口(目下四百八拾尺掘鑿シアリ)ヨリ揚水シタル為メ多量ノ温泉漏出シタルコトヲ発見シ被告人ニ対シ、揚水ノ中止ヲ交渉シアル折柄午後三時頃ニ至リ、申請人等引用ノ温泉ハ枯渇シ全然湧出セザルコトトナリ、営業休止ノ余儀ナキニ立至ルベキ現状ヲ目撃シタル為メ、幸ヒニ漸次温泉再湧出シ翌朝ニ至リ約八分通リ原状ニ回復シタルモ、未ダ全ク復旧セズ困難ヲ極メアルモノナリ。

(要約)被告山代分院(陸軍)が、敷地内の山代源泉に近い場所で、約百八十メートルの深さの井戸を掘る計画を知り、これが実施されると、現在湧き出ている山代の温泉の湯量、温度が低下する恐れがある。ところが既にこの工事が進み、予定より浅い部分で大量の温泉が湧き出たことを発見した。直ちに揚水中止の交渉に入るも、午後三時頃には旅館側の温泉が枯れ、全く出なくなった。営業中止となる状況だったが、幸いにも再び湧出し、翌朝には八分通り回復したものの、全面復旧は困難である。

3・以上事実ニシテ申請人等ハ被申請人ノ鑿井工事ノ為メ、古来当温泉ヲ利用セル既得ノ権利ヲ侵害セラレ多大ノ損害ヲ被ムルヲ以テ、被申請人ニ対シ該鑿井工事ヲ廃止シ原状ニ之ヲ回復スベキ適当ナル工事ヲ施設スベク請求スルモ之ヲ肯ンゼズ、不日再ビ之ヲ続行セントスル意向ナルヲ以テ余儀ナク本案訴訟提起ニ及ビタルモノナリ。

(要約)これは事実であり、古来当温泉を利用する既得権を侵害すれば大損害を被るので、工事を廃止して原状に回復するような工事を要求したが応じず、再びこれを続行する意思があるようなので止む無く本件提訴することにした。

行基 「いよいよ陸軍相手に本格的な裁判が始まったのか。ところで明覚上人や、組合側に少しでも勝ち目はあるんかのぅ」
明覚 「はい、当時の陸軍は、太陽を西から上げる位の勢力ですからね。例え法律上で負けることがあったとしても、それを上回る権力発動をするかも知れませんからね。」

4・然ルニ本案訴訟御審理中猶ホ該鑿井工事ヲ継続スルニ於テハ、再ビ温泉湧出量ノ減少ヲ来タスコトハ前記事実ニ依リ明カニ証明シ得ラルル事実ノミナラズ、之レガ完成(猶壱百弐拾尺掘鑿スルモノ)ノ暁申請人等引用温泉ハ全ク枯渇シ営業廃止ノ惨状ニ陥ルコトハ自明ノ事実ナリト請フベク、被申請人ハ前記温泉湧出量ノ減少ヲ一時ノ現象ニ過ギズトシ、将来果シテ此ノ如キ悪影響ヲ及ボスヤ否ヤハ、該工事完成ノ上ニアラザレバ判明セズト主張シ、若シ悪影響ヲ及ボス場合之レガ復旧工事ヲ実施スル程度ニ於テ考慮スベシト、極メテ曖昧裡ニ工事ヲ進行セントスルモ、該工事ガ申請人等引用ノ温泉ニ悪影響ヲ及ボスコトハ、今ヤ推定ノ問題ニアラズシテ既ニ実現シタル実際問題ニ属シ、且被申請人ハ当初単ニ給水設備ヲ理由トセシモ漸次温泉ヲ湧出セシメ、申請人等ヨリ分離シアル温泉量ノ不足ヲモ補フ目的ヲモ有スル旨声明スルニ至リシヲ以テ、従ツテ其目的ヨリ出デタル該鑿井工事ノ完成シタル場合ハ、同一方向ニアル温泉脈ハ悉ク之ニ向ッテ集中シ、上層ニ位スル申請人等引用ノ温泉ノ全部枯渇スベキコトハ、火ヲ見ルヨリモ明カニシテ一朝此ノ如キ事象ヲ現出シタル以上、之ガ復旧ハ絶対ニ望ミ得ベカラズ、遂ニ申請人等ノ既得ノ権利ハ消滅シ山代温泉ハ廃絶ニ陥ル次第ナルヲ以テ、申請人等権利ヲ保全スル為メ本案極メテ切迫セル事情ナルヲ以テ速カニ御決定アランコトヲ切望ス。
    昭和5年3月17日
         右申請人訴訟代理人(弁護士)
           乾 亮・横井伊佐美・木下兼久・村沢義二郎
   金沢地方裁判所長判事 井上鉄太郎 殿

(要約)このように本件審理中にも工事を続行しており、再び温泉が減少し、完成すれば全てが枯れて営業出来ないことは明白である。ところが陸軍側は、温泉が減少するのは一時的で、将来に於いて影響を及ぼすかどうかは、完成してみなければ分からないと主張している。実際に枯渇現象を起しており、また、陸軍は当初単なる井戸水(給水)設備を理由に掘削しながら、不足する温泉を掘っていると声明。工事が完成すれば、同一方向にある温泉脈は、ことごとく当該井戸に集中し、高い位置に該当する旅館側の温泉は全部枯れることは、明らかである。復旧出来なければ、山代温泉は廃絶に陥る。従って私どもの権利を保つために、速やかに決定させることを切望する。

行基 「明覚上人や。このまま続けると山代の源泉が無くなるのかな」
明覚 「ハイ。自然に湧き出てる状態の源泉近隣の場所に、百数十メートルを超える井戸を掘ったんでは、当然高い所から低い所に流れるでしょうなぁ」
行基 「トホホ、わたしの発見した源泉が無くなる恐れがあるのか。裁判の結果が気になるのう」
明覚 「はい。長い裁判になりますよ、これは・・・」
第三章 山代共浴場の湯量減少による抗争

山代の総湯(時代によって惣湯・共浴場とも言われた)は、近隣在住の村民やお百姓のいこいの場であった。庶民の入浴記は少ないが、「山代志」の「螢日記」に、惣湯のことにふれ、

(上略) 「たそがれとほからぬころほひ山代のさとにつきぬ。外にたたえたるいで湯に里人おほくあつまりたり。手足などあらひておもひなげにさざめきわたり、あるは馬などのどろにまみれたるを洗ひなどするさま、事里にはやうかはりてにぎはしうおぼえ・・・・」
とあり、如何にもひなびた庶民の湯という感じが、表現されている。

明治時代以前の状況は定かではないが、この文章に有る通り、村民が夕暮れ時に多々集まり手足などを洗い、またある者は田畑を耕した馬の泥を洗う等しながら、井戸端会議をし、賑やかだった様子がうかがえる。

行基 「そもそも、この温泉はわしが見つけたものじゃが、一体誰の所有となっているんじゃ」
明覚 「はい、これが後々問題になるんですが、次のように考えられ、伝わって来ました」

源泉地の字山代有
村落の地域内で自然湧出する温泉がある場合、これは土地の天然産物と考えられ、村落の構成員は、村落集団のもとに温泉を採取利用した。この関係は山野の草木や岩石についての林野入会権と同じで、温泉の入会ということが出来る。山代温泉も元来、温泉の権利は字山代の住民全体にあったから、明治8年頃、地租改正による土地所有権の確定に際して、温泉の源泉地は字山代を構成する住民全員の共有とされた。この源泉を原湯(もとゆ)とよんだ。もっとも、当時、字山代有とされた鉱泉地の外に何箇所かの源泉が、字山代有鉱泉地にきわめて近い宿屋業者の宅地内にあった。しかし、これらは誰の鉱泉地としても届出られず、十八人の宿屋業者は、字山代有鉱泉地の源泉を使用し、この使用料を字山代に支払う関係にあった。また、鉱泉地として届出たため、字山代有鉱泉地は評価額も高く、その地租は高かったが、これは、十八人の宿屋業者が実際上負担した。
また、総湯は村民の入浴利用ばかりではなく、総湯脇の湯溜から村民の汲み湯による利用も行われた。これを持ち帰り、掃除,洗濯に用いた。更に、明治の後期まで字山代の青年たちは、くら屋、あら屋など十八軒の宿のどこにでも内湯に入りに行ったり、汲み湯に利用した。
これらは、いずれも山代温泉の十八字(番地)において湧出する温泉は、すべて字山代の支配が及び、その住民がこれを利用する権利があるとする聚落の慣習法に基づくものであった。

明覚 「和尚。あなたが見つけた温泉が山代村民にとって、大切な恵みとなってきたのですが、陸軍病院を誘致した頃には、村民が利用する共浴場に、大問題が発生したんですよ」

明覚上人は、そう言って、次のような話をした。

陸軍病院に常時温泉を共浴場から三分の一を分湯したことに加え、共浴場の湯の源である穂積忠佐宅(くらや旅館経営者で従来は三浴室有った)では、鉱泉宿営業組合の許可なく、七福湯と称して、浴槽を倍にして優先的にくらや内源泉湯に使用した。もともと山代では、同じ源泉を平等に三分割使用する約束だったのに、くらや旅館が取り決めを無視して一方的に多く使用したのである。これが大問題を引き起こした。元来三分の一を均等使用していた町民利用の共浴場の湯量から陸軍には更にその中から三分の一を提供してきたので、残り三分の二の湯量が益々減少する事態に陥ったのである。

行基 「さて、ルール違反の源泉流用は困ったもんじゃのう。明覚。それでどうしたんじゃ」                                
明覚 「この二つの事柄が重なって、共浴場の湯量は不足がちとなり、特に冬季においては、湯量の不足、温度の低下、泉質の汚濁が甚だしく、町民の不満は爆発寸前となった。そこで、山代町議会において、大正14年10月24日【共浴場湯量増加ノタメ新泉源地設置方請願書】を決議したんです。つまり、湯量がどうしても必要であるから、新たに源泉を掘って湯を増やそうと決めましてネ」
行基 「なるほど。それは良い考えじゃないか。自然湧出だけでは足らんからな。これで一件落着となった訳だ。良かった、良かった。後は県に請願書を提出するだけじゃな」
明覚 「行基和尚、それが違うんですよ。当時の源泉管理者の一人であった角谷清山代町長が、新泉源地設置は現在の泉源に影響を来す恐れがあると反論し、町議会で決定された案件なのに、町長の権限で、その請願書を県に提出しなかったのです。これが問題の引き金となりました」
行基 「ヘェ! 議会と町長の対立かいな。町民代表の議員側と町長が属する鉱泉宿営業組合側との抗争が起きたんだね。それでどうなったんじゃ」

大正15年、町村会の議員にも普通選挙制が採用された。そこで山代町における共浴場の湯を求める町民の要求は、組織的、継続的な町政上の主張となり、町政の場での争いとなった。大正14年4月6日付の大聖寺警察署長より県警察部長宛の報告書は、当時の状況を次のように述べている。

目下争論ノ主要点
目下、町議戦ニ於テ右温泉問題ヲ中心トシ町民代表ナリト称スル農民派(立憲青年党)及ビ鉱泉側ヲ代表スル政友派トアリ、山代ニ於テハ前者ヲ非役場、後者ヲ役場派ト云ヒ、以下総湯ニ関連シテ両派ノ主張スル所ヲ記スルニ左ノ如シ。

(イ)非役場ノ所論(農民派)
元来、當温泉ニ於テ公認サルル所ノ源湯ハ、鉱泉地区十八字ニ在ル所ノ一坪二合ノ地ヨリ湧出シ居ルヲ以テ、町ノ公認温泉ナル以上、例令、私有地タルト共有地タルトヲ問ハズ、十八字ヨリ湧出スルモノハ當町ノ共有物ナリ。
(ロ)鉱泉側ノ所論(役場派)
山代温泉ノ全部ハ決シテ町有ノモノニアラズ。只町ノ所有ニ帰スルハ、松の屋ノ横手十八ノ一二一ノ乙地ニ在ル源湯一坪二合ニシテ、目下くらや對町ト繫争中ナル六分地ヨリ湧出スルモノノ外ハ、全部私有地ヨリ湧出シ居ルモノニシテ各自ノ所有ナリ。

明覚上人はその後の経過を次のように話した。

対抗手段として、山代町臨時委員の沢出保憲・庄田明吉・庄田庄治・宮本幸太郎・今市常次郎・山城小太郎の六氏連名で、新泉源設置の掘穿の請願書が県衛生部に提出された。
これを裏付けるものとして、山代町議会決72号の県知事長延連宛の「請願書」(大正14年10月24日)に添付された「山代温泉沿革の概要」の中で、源泉の沿革を次のように述べている。

其ノ沿革ヲ聞クニ、明治初年頃、字山代ノ戸長タリン山下甚作外二百十七名ノ土地所有者連ノ所有管理ナリシモ、町村制布カレテ依リ全町民ノ共有トナレリ。
仝原湯ハ山代鉱泉宿営業組合ニ貸與セシモノニシテ、往昔ハ詳細ナラザルモ、明治初年頃ハ殆ド無償ノ状態ニテ、為ニ町民ノ與論ノ沸騰ヲ見シタメ、仝十二、十三年頃に至リテ當村ノ区民総代タリシ表谷長吉ノ時、金四十円ノ貸與料トナセリ。右ハ當時壱石三円九十五銭ノ米ヨリ算出セシ十石ノ代金ナリキ。

また、山代の現状については、更に次のように述べている。

大正初年ニ至リテ、金沢衛戍病院山代分院ノ設置アリ、湯ヲ穂積氏(注=くらや旅館経営者)ヨリ共浴場ヘ入ル樋管ノ道中ヨリ分ケテ送湯シオレリ、カク永井・吉野両氏(注=あらや・よしのや旅館経営者)ノ二樋管ノ廃止ト衛戍病院ノ設置ト人口増加及浴客ノ激増ハ益々共浴場ノ温度ヲ低下セシメ、毎年冬季間ニ到レバ、殆ド入浴ニ堪エズ、泉量少ナキタメ、不潔此上モナク、反シテ各旅館ハ清麗豊富尚余リテ、新湯滔々トシテ棄テラレツツアルニ、一人山代温泉ノ代表者デアリ、一般行路者、多数町民、近郷村民唯一ノ浴場タル共浴場独リ不潔低温、入浴者ノ困惑目モ当テラレザル状態ナリ。今ヤ共浴場ハ町民全部ノ憤慨攻撃ノ焦点トナリ、山代町ヲシテ紛擾ノ巷ト化セシメントシツツアリ  

分院設置後の共浴場のお湯の状況は、陸軍に無償で提供出来るだけの湯量と温度が確保されなかったのである。分院の湯は共浴場へ配湯されるべき配管の途中から、管を分けて送湯したことにより、共浴場のお湯の温度は低下し、湯量も少なく、不潔そのものとなった。一方、宿組合側は温度、湯量共に豊富で、あり余る新湯を廃棄処分している状態であった。この状況に町民全員が憤慨して紛争になったと明覚上人は語った。

行基 「一番温泉に入りたい冬場に、湯の量が少なく不潔だったら、町民はどうしていたんかい。内風呂の無い時代に、困っただろうね。こりゃ、紛争が起きるのは当たり前だわ。何々、旅館側は、温度も充分で、新湯は滔々としており、余って棄てていたのか。」

行基和尚は、右側に見える創業八百年のあらや旅館を眺めた。【滔々庵】と看板に書かれている。
滔々と流れていた老舗の源泉状況を屋号にしたものだろう。

明覚 「この資料の外に、このような状況証拠の資料もあるんですよ」

明覚は、県衛生課が所持していたとされる別の資料の一部も行基に見せた。
大正15年4月の【山代温泉総湯問題に関する書類綴・山代温泉共浴場問題に関する経過】と表題にある。

山代町字山代区有共浴場ニ就キテハ、従来、鉱泉営業者対農民派間ニ争論絶エザル所ナルガ、大正十四年春頃ヨリ復々再燃シタルガ、元来、該共浴場ノ泉源ハ字山代十八ノ百十八ノ弐ヨリ引湯スルモノニシテ、往時ハ湯量多カリシモ、先年之ヲ共用スル穂積忠左(注=くらや旅館経営者)ノ浴室ヲ増設セルト、大正元年頃、陸軍衛戍病院山代分院設置ノ為メ、共浴場樋管ノ中途ヨリ分樋シテ送湯セル為メ湯量減少ノ上、近時入浴者激増ノ結果、冬季ニ於テハ、其ノ温度低下ノ為メニ争議セラレツツアリシナリ 

行基 「当時の様子がよ~く分かったぞ、明覚や。それで山代の町民はこの事態にどんな行動を起こしたんじゃ」 
 
その事態と町民の行動を早く知りたいと行基和尚は膝を乗り出してきた。 

明覚 「和尚。あまり前に出ると石垣から落ちますよ」
行基 「おっとっとっと。あぶない、あぶない。まだ死にとうないわい」

山代町議会決72号の県知事長延連宛の「請願書」提出後、非役場派(山代町臨時委員の六氏等)は憲政会を通じ、一方役場派(角谷町長及び鉱泉宿営業組合)は政友会を通じて、それぞれ猛烈に反対・賛成の陳情戦を展開した。
憲政会・政友会と云うのは、当時の県議会の主たる会派の名称で、二大勢力であった。
そこで県衛生部は事態を収集すべきであると考えて、調停行為に出た。その案では、新泉源の掘穿は止むを得ないとして、その場所を旧泉源に影響の少ないと思われる【大溜】(おおだめ)の西北方を指定して条件付掘穿の内示をしたのだが、非役場派はそんな場所では湧出は絶望的であるとして、あくまで「大溜」の泉源である松乃家旅館(現在の源泉公園付近)の玄関先を主張した。しかし県衛生部では、非役場派が指定する場所では旧泉源に影響を及ぼす恐れがあることは明々白々であるとして、許可を与えてくれなかった。その結果、調停は不調に終わった。

行基 「なるほど、県衛生部が調停案を示しても、解決しなかったんじゃな。斡旋した場所が、温泉湧出の見込めない場所だと、当然、町民側は賛成しないだろうなぁ」
明覚 「行基和尚、そうなんですよ。県も組合側には頭が上がらない事情も有りまして・・・・」
行基 「そうなんじゃろなぁ・・・」

しかし、調停が不調に終わったからと言って、このままこの問題を放置することも出来ず、紛争を治めようと、今度は松橋大聖寺警察署長が斡旋に乗り出した。勿論、組合側と町民側も数度にわたる交渉を重ねた結果、町民側に新たな温泉の発掘を認めない替わりに、旅館側の数名が保有する温泉を、別途、木管を設置して、共浴場に引き込み、かつ、使用料は徴収しないとする解決案を策定し、その内容を覚書として提示した。

明覚 「つまり、泉源を新らたに掘穿せず、替わりに組合側が一時的に温泉を保管する湯溜から共浴場の不足する湯を補給することで決着しましてね。和尚」
行基 「ウンウン、組合側の温泉が余っているのだから、これは良い案だわ、明覚上人。覚書があるなら、是非見たいものだ」 
                                                 
町民側と旅館側は町の平和を維持するために、紛争解決策として次の覚書を示した。

江沼郡山代町字山代共浴場温度増加ノ為メ、新湧出地掘穿等種々紛議ヲ生ジ、数回ノ交渉ヲ重ネタル結果、新ニ鉱泉ノ発掘ハ、山代温泉ヲ危地ニ陥レルノ怖レアルヲ以テ、県当局ノ調停ニ依リ将来絶対ニ掘穿ヲ避ケ、山代温泉ノ為メ、一面ニハ町ノ平和ヲ維持スル為メニ次ノ条件ヲ承諾ス。
1・山代町字山代対穂積忠佐氏トノ目下係争中ノ訴訟事件解決後満壱ケ年間、内法直径六分ノ樋管ヲ以テ温泉ヲ共浴場ニ注入スルコト。
2・前項注入温泉ノ引用口ハ、現在共浴場ノ東方ニ在ル共浴場湯溜ノ位置ヨリ高所ナルコト。
3・補給スベキ温泉ハ、後出連名中ノ数人ヨリ木管ヲ以テ出サシムルモノニテ其引用方法ハ、新ニ設置スベキ湯溜ニ集メ共浴場湯溜ニ灌クモノトス。
4・右工事ハ一切後出連名者ノ負担ニ於テ之ヲ実施スルコト。
5・前項ノ樋管ハ、新湯溜ヲ水面下ニ之ヲ設ケ、内部ヲ掃除シ得ル装置ニ為スコト。
6・今回補給ノ温泉ニ付テハ、山代区ヨリ使用料ヲ徴セザルコト。
7・吉田初次郎、加茂富吉、伊豆蔵梅次郎、西郡清二、津田三太郎、正木哲郎、和田重太郎、小塚公平、吉野恒、山下甚太郎、栄枝重三郎、松木幸一、畑谷一郎、吉田藤米、渡辺ヒサ、木谷甚太郎等ハ、山代区ヨリノ交渉ニ応ジ連帯シ責任ヲ以テ何時ナリ共誠意ヲ以テ、前各項ニ基ク契約ヲ締結スルコト。  
    大正十五年四月二日
      吉田初次郎・正木哲郎・吉田藤米・小塚公平・松木幸一 
  石川県警察部長 藤岡長知 殿 

新源泉の掘削を恐れた旅館側は、大幅譲歩を提案したのである。共浴場への温泉樋管工事費や補給する温泉使用料は全て無料にした。町の平和維持の為との理由で、清水の舞台から飛び降りるような条件を提示したと明覚は説明したのである。

行基 「めでたや、めでたや。一件落着じゃ。これで町民も一安心だね、喜んだろうね。綺麗な湯の量も増えるし、満足、満足。旅館側もエ~とこあるじゃないか」
明覚 「行基和尚、そうでもないんですよ。簡単には問題が解決しないもんでしてね」
行基 「何や、やっぱり難しいか。今、建設している市民湯(新総湯)と総湯(古総湯)にも、同様な湯量不足が発生する恐れが有ると言われているが、心配じゃのう。歴史は繰り返されると言うからなぁ。で、何が問題で解決しなかったんじゃ」

行基和尚は、市民湯や総湯が完成した後にトラブルが再発生しないか心配しつつ、近く解体される運命にある現総湯に入りに来た「代っ子」達を眺めていた。

覚書実施により紛争は一応解決したようだが、依然として共浴場の湯は不足がちで、時あたかも町議補欠選挙があり、役場派(交正会・鉱泉宿営業者が主体)と非役場派(青年党・農民派)がそれぞれ候補者を擁立し、町を二分して一大激戦を交した。結果、青年党(農民派)側が勝利し、町会の議席は、青年党側議員7名・交正会側議員5名となり、青年党側が始めて多数を制した。勢に乗った木村町長(青年党側)は、昭和3年1月25日に総工費八万壱千七拾五円で共浴場改築に踏み切った。交正会側は当然ながら猛反対をしたが、町当局は工事に着手した。
共浴場改築の基礎工事中、たまたま共浴場敷地内から温泉が湧出したので、町当局側はこの場所を掘穿し、湧出する温泉を共浴場に補給する計画を立て、中出伝二(町助役)名義で掘穿願を県に提出した。
一方、鉱泉宿組合側は使用湯溜である大溜の温泉量に著しき影響(減少)があるとして上記湧出場所の埋立を主張したので、県は組合の言い分を取上げて、町役場に埋立を命じた。
一方、県は鉱泉宿組合内の大溜組に対して、次のような指示を出し、契約書を作成し調印させ、これを約束させようとした。
その概要は次の通りであった。

(1)共浴場改築基礎工事中に敷地から新しく湯が湧き出た
(2)そのため大溜組の湯量が減り、大溜組は湧出源泉閉鎖のため猛然たる反対陳情をした
(3)そこで県は町に対して、湧出源泉の閉鎖を命じた
(4)しかし和協措置として大溜組の掘穿工事を奨め、増量分の半分を共浴場に注入すること
(5)大溜組の増量工事が成功したうえで、尚も共浴場敷地内からの湯の湧出が止まらないときは、あらためて大溜組に共浴場敷地内又は隣接地に適切な施設を認め、その湯を共浴場に注入させるが、先の増量分の半分を共浴場に注入する湯量は減らしてもよい。
(6)また、大溜組の増量工事が思わしくないとき、大溜組をして共浴場敷地又はその隣接地に適当な施設をさせて大溜組の湯を共浴場改築以前の湯量に復活させ超過分を共浴場に注入すること。

ところが、和協案の骨子である大溜組の新掘穿と増量分を共浴場に注入する工事が一向に進捗しないので、当時の山代町長木崎孝正より県警察部長宛の督促方要請の陳情書が提出された。

行基 「また、モメゴト発生か、この契約内容は、どうして守れんかのう」
明覚 「お湯は自然の恵みと思いますが、権利関係については複雑なんでしょうなぁ」

二人は大きくため息をついた。

行基 「明覚上人や。しかし、どうして組合は約束を守らんかったんじゃ」
明覚 「実はですなぁ。次のような緊急事態が起きたんですよ」
第二章 金沢衛戍病院山代分院(通称:山代陸軍病院)創設

明覚上人は、陸軍病院についての概要を次のように説明した。

明治6年に金沢城跡に金沢衛戍病院が創設され、明治32年には名称を金沢第二陸軍病院に変更。大正元年には、山代村の請願により金沢衛戍病院山代分院(通称名・山代陸軍病院)が設置された。昭和20年、敗戦により陸軍は解体され、実態は、厚生省に移籍されて病院組織は国立金沢病院となり、山代は山中病院の管轄下となり、その後山代の病院は廃止された。今は、独立行政法人国立病院機構金沢医療センターと名称を変えて、県下では金沢のみに現存している。
明覚上人は山代に存在していた陸軍病院について具体的に説明するため、古文書を写した資料を懐から取り出して話を始めた。行基和尚は興味津々であった。

明覚 「実は和尚、明治37~8年の日露戦争後、陸軍は多くの戦病者を抱え、各地に病院を開設する必要性に迫られ、全国に候補地を募ったらしい。応募資格は、病院建設用地と負傷者の温泉療法に必要な湯量を無償で提供する事が条件。国策とは言え、とっても虫の良い話なんです」
行基 「本当だわなぁ。でも、そんな条件で応募する地域が有ったのかな」
明覚 「日露戦争では金沢の第九師団が乃木大将の軍団のもとで戦い、旅順陥落戦で屍が山をなすほどの犠牲者を出し、その大部分が郷土の子弟(肉親) 達であったという時代背景でした。このような状況で、もし山代に陸軍病院(分院)が設置されると、直接的にも間接的にも、利益は多大であると当時の山代村は判断し、明治41年に最初の請願運動を開始したのです。山代村の提示した条件は、分院敷地の土地全部を無償寄付、また病院に対する送湯量は、当時の山代共浴場の湯量の3分の1を無償で提供するという好条件だったんですよ」 
行基 「陸軍側は虫の良い無茶な要求をしたと思ったのに、山代村はその話に乗って大判振る舞いするのか」 
明覚 「はい、確かに。病院職員や負傷者の購買力及び見舞いの家族などで山代を訪れる客の増加など、直接、間接の利益が大きいと当時は考えたのでしょう」

★この当時の共浴場(惣湯)とは、明治21年に新築したもので、現在建設計画の古総湯はこれを再現しようとするものである。 
               
明覚はそう言って、これがその証拠ですと、関係書類を取り出して、行基和尚に見せた。
それは当時の警察関係書類写しの一部だった。

山代分院ニ供給シ居ル温泉ニ関シ陸軍当局トノ間ニ締結シタル契約書等、明治41年山代町ヨリ陸軍大臣宛ニテ分院設置ノ請願書提出シタル其内容ニ、共浴場ニ使用シツツアル温泉ノ参分ノ壱ヲ分譲スル旨ノ記事ヲ為シアル外他ニ締結シタル契約ナシト

行基 「なるほど、なるほど、分院設置請願書の中に、共浴場に使用している温泉の3分の1を、分譲すると書かれているわなぁ」
明覚 「でもね、和尚。この分院設置の請願書を提出した明治41年当時は、山代住民が入浴する共浴場の温度が下がり、大きな問題が起きた年だったんですよ。この問題が解決されなかった為に、明治43年1月19日夜半に山代温泉大騒擾事件という事態が発生し、当時の永井寿村長(あらや旅館) が農民たちに襲撃されたんですよ。このような危機的な問題を抱えながら、共浴場の湯の3分の1を分院に与えたら、更に山代の温泉湯量や温度が保てるはずがなく、後に大きな問題を引き起こすことになったんですよ」

        (山代温泉大騒擾事件とは)
 明治41年の冬に総湯の温度がひどく下がり、入浴が困難となった。山代の区民の多数は農民で、当時自宅に風呂が無いから、農作業後の入浴が出来ず、健康を害する人も出た。明治43年1月永井町長は任期を満了することになっていたが、その前月に再選された。そこで、農民たちは、当時の「くらや」(穂積)の経営する源泉地にある旅館が浴槽を増やしたため、湯の量が減ったと考え、旅館側に申し出をするが、聞き入れられなかった。村民達は、旅館経営者の一人である永井寿(あらや)が村長である限り総湯の温度は快復しないと考えた。280人あまりの農民は、再選されたばかりの村長を再選不許可とする嘆願書を知事に提出したが、明治43年1月18日、県は村長許可の指令を出したため、同日夜、農民の主な者数名が集まり、もはや非常手段に訴えるより方法が無いから、皆で税金滞納をするとともに、共浴場への埋設樋管を掘り、清掃する名目であら屋の前へ大勢が行き、大規模な示威をしようと決定した。そして翌19日深夜、各組長は組子を集めてこの旨を報告し、同夜12時に決行した。200名余りの農民は手に鍬、つるはし、提灯などを持って永井宅前に集まり、ときの声をあげて道路を堀り、堀った土や石を永井宅に投げつけ、また、表戸、柵、玄関の格子を壊し、村長を引きずり出せという騒ぎとなった。これらの行為は騒擾罪とされ、被告人は全部で23人、裁判の結果、4人は無罪となったが、有罪者もすべて執行猶予が附された。逮捕された農民が金沢の未決監から戻ったときには、区民たちはこれを動橋駅まで出迎え、帰宅した家では高張り提灯をかかげ、義人を迎える歓迎振りであった。この事件後永井氏は村長再選の座を守る事は出来ず、間もなく武田武雄が就任(明治43年3月)した。

行基 「ヘ~ェ、物騒なことじゃ。そこに見えるあらや旅館が襲われたのか。わしの発見した温泉は、どうなっとるんじゃ。そんな湯量不足の問題が起こることは予想出来たはずなのに、なんで山代村は分院の設置を急ぐ必要があるんかなぁ」

騒擾事件後の総湯の状況について
依然として総湯の湯量問題は解決しなかったばかりか、かえってこれを無視する方向に進んだ。大正14年4月6日付、大聖寺警察署長より県警察部長宛の報告書は、当時の事情を振り返り、次のように述べている。これが事実ならば、騒擾事件の原因であった総湯の湯量不足について、故意によらないとしても穂積(くらや)の責任を否定できないと考えられる。また、あら屋からの樋管とともに、吉野屋からの樋管も廃止されたから、総湯の湯はくら屋からの引湯にのみ依存することとなった。
其後、町民ハ総湯ノ温度復旧ヲ計リ、警察立会ノ下ニくら屋旅館ヨリ通ル樋管ヲ検シタル処、卵ノ殻、密柑ノ皮等ヲ以テ閉塞サレ、樋管ノ破損シ居タルヲ発見シ、之レヲ掃除修理シ漸クニシテ温度ヲ維持シタルモ未ダ充分ナラズ。其後鉱泉営業者ニ於テ電気湯ヲ廃止シタルガ、仝時ニテ電気湯ヲ通シテ総湯ニ通シ居リタルあらや旅館ヨリノ樋管ハ取リ除カレ、総湯ハくらや旅館ヨリ支給サルルノミトナリ、尓来、総湯ヲ中心トシテ争議絶エズ・・・・

行基和尚はこんな重大な問題があるのに、どうして山代村は分院設置を急いだのか、不思議に思った。明覚上人は続いて、明治43年の記録で、分院設置の願いの推奨文や、山代村会決議書を取り出して行基に見せた。この内容は、41年に請願書を提出したが、その後になんの返答も無いので、村長並びに区惣代が連名で推奨文を作成し、村議会では決議書を作成して、強力に誘致を図ったものだった。また村会決議書には、無償提供する予定の土地明細も記載されていた。

    【陸軍大臣子爵寺内正毅宛に提出された設置願い推奨文】
加賀国江沼郡山代村ノ一部山代温泉ハ、湧出ノ量豊富効能験著、実ニ我国屈指ノ名泉ナリ。先年陸軍軍医総監松本順閣下当温泉ヲ検査セラレ、其後数回内地ニ陸軍転地療養所ヲ開設セラレ著大ノ効ヲ奏セリト聞ク。今回連合師団ノ療養所常設セラルルニ際シ、本村ハ現在共浴場四個ノ内、三米四方深サ九十糎ノ浴槽二個ヲ患者用トシテ供給シ、猶他ニ電気浴等ノ設備セラルル場合ハ、是亦泉量自由ニ補給可致候。勿論敷地ハ場所ノ如何ニ拘ラズ全部献納可仕候ニ付、特ニ本村ニ御指定ヲ仰ギ度、本村会ノ決議ヲ経、別紙当地ノ特徴及ビ略図温泉分析表相添此段相願候也。   
      明治四十三年四月二十三日
              石川県江沼郡山代村長   永井 寿  印
              山代温泉区惣代      横江源蔵  印
  陸軍大臣子爵  寺内 正毅 殿

行基 「なになに、現在の共浴場の浴槽4個の内の2個分を患者用に提供する外に、電気浴等の設備をする時は、泉量自由に補給が可能としたのか。しかも、敷地は好きな場所を全部献上するなど、気前が良い話じゃのう。そう思わんか」

行基はそう呟きながら、明覚の顔を覗き込んだ。何が何でも病院を山代に設置したかった当時の山代村の願いだったのであろうと二人は苦笑した。

明覚上人は、設置願い推奨文のほかに、次のような村議会の決議書を、懐から取り出した。

【江沼郡山代村会決議書】  
第一号 常設陸軍転地療養所本村ニ指定セラルル場合ハ、間接直接ノ利益多大ナルヲ以テ、左記ノ敷地ハ何レヲ問ハズ指定ニ従ヒ寄附セントス。
   甲地 山代村字山代56ノ26番、大字山代共同墓地及火葬場、
  6反歩(字山代所有)
   乙地 山代村字山代8ノ194番甲、病院敷地、1反歩(山代村所有)
第ニ号 常設陸軍転地療養所本村ニ指定セラルル場合ハ、間接直接ノ利益多大ナルヲ以テ、左記敷地ヲ指定ニ従ヒ各自ヨリ買収シ之ヲ寄附セントス。
   甲地候補地 山代村字山代ロノ17番ノ2 畑 26歩此付近6000坪
   乙地候補地 山代村字山代8ノ166番  畑 6畝10歩此付近6000坪
      明治四十三年七月二十五日決議
                   山代村長  武田 武雄  印

行基 「なるほどねェ、病院が来てくれれば、山代村に大きな利益が上がると計算したんじゃな」
明覚 「そうなんですよ和尚。1号では、山代村の所有地の甲、乙のどれかを寄附し、2号では、甲、乙の内、指定されれば、土地所有者から買収してこれを寄附するつもりなんですよ、それも6000坪と広いですなぁ」
行基 「そうじゃのう、ところで、当時の村会議員は誰じゃ。良識があったんじゃろうな」
明覚 「これが当時の村会議員ですよ」

明覚上人は当時の村会議員の名簿を見せた。

  福嶋梅次郎・横江源蔵・東野善作・湯尻卯之吉・新家勘四郎・山下甚太郎
  庄田庄作・小畑佐平・寺西宗与門・西山岩吉・奥野玉次郎
     (この時、村長は永井寿から武田武雄に交代していた)

行基 「なぁ明覚よ。推奨文によると敷地は全て山代村が所有及び指定する面積分を買収して寄附し、湯はタダにすると明記されている。更に湯量は、共浴場から三分の一を提供するのみならず、電気浴等の設備をする時は、泉量自由に補給が可能と書かれているが、この文面が後々に問題を引き起こすことにならんのかなぁ」

後に、山代陸軍病院敷地は第二号の乙地候補地を指定してきた。

行基 「明覚や。可愛そうに、この土地は農民などから半ば強制的に、破格の安値で山代村が買収して、寄附したんじゃろうな」
明覚 「和尚、違うんですよ。この土地は、慶長5年(1600) に私の後輩住職が前田利長(第二代加賀藩主) から拝領した薬王院の社地、田畑、山林の一部(約六千坪)だったんですよ」
行基 「そうじゃったのか。それで、その指定場所はどの辺りなんじゃ」
明覚 「はい。十数年前まで山代にあったKKR(教職員共済組合の保養所)の跡地で、今は加賀市が所有している場所(現在一部を駐車場に使用中) です。利用目的も明確にせず、ただ保有しているだけの勿体無い場所です。ここに山代の新しい市民湯を建設すべきなんだがなぁ。大規模な駐車場も出来るし、露天風呂を併設すると森林浴も同時に楽しめる素晴らしい所で、美しい大きな桜の木も有る。悔しい、悔しい、何でここに建てないのかなぁ」

と、明覚上人は嘆いた。今の町民の意見を代弁しているようであった。

「江沼郡誌」によると、初請願から4年ほど経過した明治45年6月12日に、金沢衛戍病院山代分院(通称山代陸軍病院)が設置された。これは傷病兵の温泉療養のための病院で、転地療養所とも呼ばれた。その場所は萬松園の西麓にあり、後に松の茂る丘陵を負い、前に平地をひかえた閑静の地で、病院として好適地であった。構内は約8000坪、建物は将校病室、管理室、下士官兵卒病室、庖厨、温泉浴室のほか倉庫などがあったとされている。
行基 「でも明覚上人や。土地は全部寄附。更に温泉は共浴場の浴槽四個の内、二個分程度の湯量を供給するとなっているが、誰の所有する湯を提供するんじゃ。まさか村民が使用している共浴場の湯を分けるんじゃなかろうな。二個分とは、あくまでも量的なことを示しているんだろな」
明覚 「はい和尚。この時点で、陸軍に無償提供する温泉は、誰の持ち分のものを提供するのかは、未定だったんですよ。つまり、共浴場で使用している浴槽二個分程度の湯量を提供する量的なことを提示しただけで、共浴場の使用分を削るのか、旅館関係者の使用分から出すのかは、この時点で、不確定のまま見切り発車したようですよ」
行基 「誰の分を出すとかではなくて、本来皆が平等に使うのが自然の掟ではないのか。温泉は自然に湧き出ていたものであり、共有の利益ではないか。でも本当は誰の所有物なんかのう。わしが発見したときは、何人も平等に使用するように、ヤタガラスに頼んでおいたんじゃが・・・・」

明覚は当時の警察関係から第九師団(金沢)経理部へ提出された[山代温泉問題ニ関スル参考書]という文書の写しを見せた

一・金沢衛戍病院山代分院ノ土地ハ、山代町ヨリ寄附シタルモノニテ陸軍省ノ所有ニ帰ス。
二・右分院ニ使用スル温泉ハ、町ヨリカ鉱泉宿営業組合ヨリカ詳カナラザルモ、所要量ヲ無償提供シ居イルモノナリ。
右二項共、該分院設置ノ際、陸軍省医務局ヨリノ出張員直接山代町代表者等ト交渉ノ上、
取極メタルモノニテ、当時ノ事情ヲ承知スル者尚師団経理部ニ居ラズ、又之ニ関スル一件記録ノ如キモ本省ヘ送付セシモノニテ、師団経理部ニ写ノ如キモノ保管シアルヤ否ヤ調査セザレバ判明セズ、何レ調査ノ上保存シアラバ通知スベキ旨当該係員ニ申居タリ。

明覚 「和尚見てください。ここに無償提供する温泉は、山代町のものから出すのか、鉱泉宿組合のものを提供するか、この時点では,未だ、誰の、どの温泉を無償提供するかは、決めてなかったようです」
行基 「とにかく、温泉は間違いなく無償でやるから、一刻も早く来てくれ。どの分を出すかは、後で決めれば良いではないか。その昔、行基とやらが、見つけた自然湧出の温泉だからと、言ったんだろうなぁ・・・」
明覚 「最終的には当時の町側と組合側との力関係でどの湯を出すか決めることになるんだろうなぁ・・・」

明覚は不安そうにつぶやいた。 

行基 「ところで明覚や、ここで言うところの鉱泉宿組合とはどんなものなんじゃ」
明覚 「はい。設立経緯や、組合の性格、活動については次の通りです」

明覚は、鉱泉営業組合について説明した。
 
[鉱泉営業組合の設立]
明治29年2月、山代鉱泉営業組合の設立認可願が県知事に提出されている。組合設立の準拠法令であった石川県鉱泉営業取締規則が明治28年12月であったから、おそらく県内の温泉地のうち、もっとも早く設立された組合の一つである。この時提出された組合規約の署名者は、松木寿太郎、丹羽辰治郎、吉田藤市郎、渡辺亀太郎、木谷重栄、高谷甚一後見人高野隆一、加茂忠治郎、伊豆蔵梅治郎、山下甚太郎後見人山下甚蔵、木藤平蔵、正木通太郎、和田藤治、藤谷嘉吉、吉野治郎、千旗甚七郎、亀谷理平、永井源二、穂積忠左の18人で、いずれも内湯を持つ温泉宿屋であったから、鉱泉営業取締規則にいう鉱泉浴兼鉱泉宿営業者であった。このほか、右取締規則との関係で鉱泉所有者も入っており、鉱泉所有者総代として、表谷与三吉、下口甚三郎の2名が署名していた。

[営業組合の性格と活動]
鉱泉営業組合は本来は温泉宿屋業者の同業者組合として、組合員間の営業規制を行うものであった。ところが山代鉱泉営業組合は、当初からこの性格のほかに、温泉の内湯使用権を持つ宿屋業者の温泉管理組合として、組合員間の温泉使用規制を厳しく行うものであった。
明治38年当時の組合の規約の内、鉱泉に関する部分は次の通り記録されている。
第25条 鉱泉使用権ハ鉱泉浴営業者ニ限リ之ヲ有ス。
第26条 各鉱泉浴営業者ニ於テ鉱泉引用ノ分量ハ総テ古来ノ慣習ニ従ヒ、今後其引量ノ分切ヲ変更スベカラズ。
第27条 従来ノ鉱泉引用ノ堰木又ハ伏樋破損シタルトキハ、組合員一同立会検査ヲ経ザレバ改造スベカラズ。
第28条 鉱泉地ノ地租井ニ諸係リハ、従来ノ慣習ニ由リ鉱泉浴営業者ニ於テ負担ス
  
                                    
後に町(字山代)と鉱泉宿営業組合が、いろいろな経過を辿りながら、最終的には一昼夜八十石の湯は町民の保有分を陸軍に対して、無償で提供することになり、その期限は無期限と定められた。明覚上人の予想通りとなった。このように分院への送湯量が共浴場の湯の三分の一だとすれば、当時の共浴場の湯量は、推定、一昼夜二百四十石であったことになる。
病院への送湯方式は、くらや旅館前の地下に木製の湯溜(ゆだめ)を造って三分割し、くらや内源泉からの湯は真中に流れ溜り、左右の部分に分けて、一つは樋管で共浴場へ引湯され、一つは樋管で分院へ引湯する方式だったが、分院へは樋管で直接送湯せず、共浴場の後ろの空地に吉野屋旅館(現在の総湯の場所)に面して貯湯槽を造り、くらや旅館前から分樋した湯はここで貯えられ、それをポンプで分院へ送る仕組みだった。
分院は高台にあったから、送湯のためのポンプ小屋が設置され、樋管が分院まで、薬王院や服部神社前の細い砂利道の下に敷設された。埋設された樋管は松ノ木を刳り抜いたもので、長さ九尺位のものを継ぎ足して作った。継ぎ目から湯がしょっちゅう洩れたり、湯が通っているときは膨張し、通らないときは収縮したので、いつも故障していた。当然ながら陸軍からは直ぐに文句を言ってくるので、いつも道路を掘り返して年中住民に迷惑をかけた為、後に二吋の鉛管に埋め替えされた。湯の側のポンプ室の送湯操作は、朝夕二回の一定時間であり、分院の方には、浴室棟があり、将校用・下士官用・兵用の三つの浴場が有ったと記録されている。
当時の分院の収容人員は、将校20名、下士官兵60名と言われていた。

行基 「結局は力関係で、町民持分の温泉が陸軍に回ったんか。でも、チャチな配管だったようだねぇ。道路工事費用は誰が負担したんじゃ。やっぱり町民の税金からかなぁ」

行基和尚は当時の状況を聞き、苦笑した。
第一章 行基和尚と明覚上人の初対面、夢対談

時は2008年4月、桜の蕾もほころびかけた頃、えぬの国、今は加賀の国 いで湯の町山代温泉に『市民湯』と『総湯』の二つの浴場を建設すると、現大幸市長は最終決断を下した。
2009年3月、山代温泉区長会総会に於て、総湯(後に古総湯と命名される)建設に関してあらかじめ各区の区民より意見を集約した結果を総括した。次の通りであった。
   ・建設同意(必要である)の区 [8] 
   ・建設不同意(必要ない)の区 [35] 
   ・意見保留の区        [2]      
山代住民の多くの反対表明があるにもかかわらず、地元への説明は充分に尽くしたとして建設に踏み切ったのである。不同意理由には、山代財産区所有の温泉使用権の枠では、源泉掛け流しに必要な量が不足する恐れが有るのではないか。又、この規模の総湯施設では入浴者数が限定され、誰の目にも総湯単体では、不採算経営が明らかである。この赤字は誰が負担することになるのか。住民に不安感が広がる。

[注] 山代温泉財産区は、山代住民のものであるとの認識が住民の多くにあり、加賀市が勝手に山代の財産が目減りするような方策を打ち出し、不採算分だけを山代に押し付けられては困ると思い込んだのである。昭和46年に新築した現在取り壊し予定の旧総湯は住民たちの財産であるとの認識で、当時1億数千万円を財産区に寄付負担し、新築したものです。我々の財産を造り、後世に守り引き継ぐ為に、市税以外の負担をしたのです。
  ところが今般明らかになったことは、山代温泉財産区の管理者代表者は加賀市長であることが判明したのです。つまり市長の方針で行える事業であったのです。
  従って、今般の市民湯(新総湯)の建設に当たり、財産区が貯めていた貴重な基金から、六千万円が加賀市に寄付されました。文句の云える筋合いのものではないんです。
  住民が思い違いをして、財産区が赤字になれば自分達が負担しなければならないと思い込んだ結果が、建設不必要の意見として表れたもので、皆が知らなかったのです。

勿論、二つの温泉施設を作ることに当初より大賛成する旅館や観光関係者・住民も多くあり、町内は賛成派、反対派で二分されるような状況に陥った。
古来より、この山代の地では、温泉に関する紛争が絶えなかったと言うのに・・・・・・・・またか・・
現世に於いては、何としても温泉紛争再発は避けたい。いや、避けなければならぬ。
今建築する総湯は、明治時代の惣湯を再現するもので、当時は珍しい、ステンドグラス窓や九谷焼の床や壁面など、築50年後には重要文化財に指定される建物であると市長は豪語。
高度成長期も終演し、やや衰退気味の山代温泉にとって救世主となり得るかも知れない。
これに賭けてみよう。そんな空気も町内に流れている。どちらが良いのか難しい判断だ。
今は決定したことに従うべきかも知れない。善し悪しは将来の子供や孫が評価するだろう。
そのような最中、はじめの一棟 『市民湯』 (後に新総湯と命名) を老舗旅館吉野屋跡地に建設するため入札が行われ、いよいよ業者が決定し着工されつつあった。
野次馬の声が騒がしくなってきた頃、その声に引かれるように、山代の歴史を生み出した二人の人物が、前世より山代温泉の地に舞い降りて来た。
     そして、この夢物語が開幕したのである。


明覚 「そちらに浮遊されておられます御方は。もしや、一千三百年前にこの山代の地において温泉を発見された高僧行基和尚ではござらぬか」
行基 「さよう。行基じゃが。ハテ、そちらは,どなたかのぅ」
明覚 「はい。私は、明覚と申しまする」
行基 「なに、薬王院温泉寺の初代住職であり、サンスクリット文字の研究者で《あいうえおの五十音図配列》に大きな影響を与えたと言われる明覚上人でござるか」  
明覚 「はい、初めてお目に掛かります。ここでお会いできるのは、誠に光栄でございます。ところで行基和尚、山代で何をなさっておられます」        
行基 「ウン、数年前から、《千の風になって》という歌が流行り出し、どこにでも行けるようになっての。一千三百年前から一気に現世に飛び込んで来たんじゃよ。便利になったわい。久しぶりじゃよ山代温泉は。ところで明覚や。最近、総湯とやらを新築すると風の便りに聞いたので、寄ってみたんじゃが」 
明覚 「さようでごさるか。その総湯を建てる場所となった山代の老舗旅館である吉野屋を壊したら、温泉寺の石垣が現れたと聞いたものですから、私も同様に昔を思い出して見に来たんですよ」
行基 「そうであったか。どうじゃ明覚や。ここで会ったのも何かの縁じゃ。その現れた石垣に腰掛けて、山代名物温泉卵でも食いながら、昔話でもしようではござらぬか」
明覚 「和尚、結構でございますなぁ。私も九百数十年ぶりですから、この山代の地が懐かしくてね」
行基 「左様であったか。ところで、私が温泉を発見して以来、山代も大きく変わったようだね」
明覚 「そうですね。温泉にまつわる色々な事件も多々有ったと聞いております」
行基 「そんな山代の騒々しい事件の中でも、特に山代に陸軍病院と言うのが有って、大きな騒動を起したと弟子が話していた事があったんじゃが、明覚は詳しく知らんかの。どんな病院だった。そして事件とは何じゃ」
明覚 「ハイ、病院と云いましても、一般の人を診てくれる施設ではなくて、陸軍の軍人で病気や怪我をした者が、長期入院療養するための病院でしてね。正式には衛戍病院という名称で、全国に数多くあったそうです」

行基と明覚の“夢対談”
山代陸軍病院史
荒木昭義著
広報やましろ「特集記事やましろアラカルト」にて連載

目  次
 
   はじめに

第1章 行基和尚と明覚上人の初対面、夢対談始まる
第2章 金沢衛戍病院山代分院(通称・山代陸軍病院)創設
第3章 山代共浴場の湯量減少による抗争
第4章 陸軍による源泉掘穿工事と訴訟
第5章 金沢地方裁判所の判決
第6章 大陪審の判決と和解
第7章 山代新源泉掘削に関する疑問点
第8章 新源泉の湯量と配分
第9章 戦後の陸軍病院跡地と温泉権
第10章 行基と明覚の別れ

   終わりに   

   追  録   登壇する歴史上の人物像・寺院など

はじめに

 加賀の山代温泉の由来を紐解くとき、忘れてはならない二人の人物に出会う。

      一人は山代温泉の発見者と伝えられる《高僧行基菩薩》  

      そして、もう一人は花山法皇の随僧で
          薬王院温泉寺の初代住職《明覚上人》である



霊宝山薬王院温泉寺に残されている「霊宝山薬王院略縁起」に次のように記されている。

抑当山ノ来由ヲ尋ヌルニ、昔シ神代ノ時少彦名命諸国ノ温泉ヲ開キ玉フ時、此ノ山代ノ温泉ヲ開キ民ノ患ヲ救ヒ玉フトナリ、然ルニ聖武帝ノ神亀二年行基菩薩当国白山ニ登リ玉フ時キ、初メテ此ノ温泉ニ浴シ温泉ノ奇特有ル事ヲ感ジ在マシテ、自ラ薬王善逝及ヒ日光月光十二神ノ像ヲ刻シ玉へ、温泉ノ守護ノタメトテ石窟ノ内ニ安置シ玉フ、其ノ後数百歳ノ星霜ヲ経テ花山法皇北国経廻在マシケル時、此ノ温泉ニ浴シ玉フ、其ノ夜夢ニ老翁有テ告テ曰、我レ本ニ瑠璃浄刹ヨリ来リ少シク跡トヲ此処ニ垂ル、此ノ温泉ハ我ガ悲願力ヨリ踊出スルナリ、仁者願クハ一宇ヲ建立セシメ与トナリ、法皇覚メ給フテ医王ノ霊告ナル事ヲ感ジ、早ヤク精舎ヲ建立シ玉ヘ、隋徒ノ妙覚比丘ヲ留メ玉フ、爾シヨリ以来此ノ山ヲ霊方山ト呼ビ、寺薬王院ト号シ、医王ノ威徳千歳ニ垂レ、温泉ノ利益万代ニ潤フ、誠ニ護国安民ノ霊場也
      右ハ是迄通リ耳、仮名交リ縁起ナリ

一般的には、山代の「開湯伝説」として、この縁起を次のように解されて伝えられてきた。

神亀二年(725)行基菩薩当国白山に登りたまふ時、初めてこの温泉の奇特あることを感じ在まして、自ら薬王善逝及び日光月光十二神の像を刻したまへ、温泉の守護のためとて、石窟の内に安置したまふ。
行基菩薩はじめは越前大野より白山に上り、泰澄の跡を追い、後には江沼郡山代より登山せられたるものの如し。当時舟を浮かべて山代に着し、白山開山の後、温泉を開き温泉寺を起し、掘切等を疎通したまふならん・・・・

約千三百年ほど遡った聖武天皇の時代に、全国行脚の旅に出ていた行基が、山代あたりに紫色にたなびく雲を見て、引き寄せられるように向かって行くと、湧き出る泉に翼を休める一羽の
烏(カラス)がいた。不思議に思い手を浸すと温泉であった。山代の温泉を教えたこの烏は、「古事記」や「日本書紀」に出てくるヤタガラスと同じで足が三本ある霊鳥。湯浴み烏として山代ではこの烏をシンボルにしている。



行基菩薩が山代の温泉を発見開湯してから約三百有余年程経過後、平安時代中期の寛和・永延年間(985~988)に花山法皇(第六十五代天皇)が山代温泉を再興。「温泉寺中興開山明覚比丘行状」によると、花山法皇は、隋僧明覚上人に七堂伽藍を建立させ、荘園を寄付し勅願所としたとある。

その明覚上人は、そのまま当地に残り、薬王院の初代住職(第三世とする説もあるが定かではない)となる。悉曇学(しったんがく)の研究者として著名。悉曇(インドの梵字・サンスクリット文字)は奈良時代に中国から伝来し、天台宗の僧たちが研究した。その後、明覚は独学で、漢訳された仏典の訳語の違いを研究し、日本のあいうえお五十音図配列に大きな影響を与えた。
「悉曇大底一巻」「反音作法一巻」などを著す。これらの著書の多くには「加州隠者明覚撰」とある。薬王院温泉寺には、「めかくしさん」と呼ばれる明覚上人供養の五輪塔(国指定重要文化財)があり、現在は祠が建てられている。つまり明覚上人が山代の地に居たことは明白であろう。


薬王院温泉寺第40代中川隆潮住職が記載した明覚上人略伝

  明覚上人略伝
     当山四拾世中川隆潮住職寄附之 
     加賀江沼郡山代温泉寺中興開山 明覚上人略伝
上人諱ハ明覚、姓ハ藤原氏、摂政伊尹公(謙徳と謚す)の第三子なり、俗名ハ義懐、長して才学あり、花山天皇の即位するや外戚を以て重柄を執り、力を国政に尽す、旬月にして天下大に治まる。寛和二年弘徽殿妃恒子の薨去より、帝此事を感し脱位の志あり、義懐之を極錬す、
藤原道兼帝を勧めて脱履せしむ、夜半に宮を出て花山元慶寺に入り、黎明落飾して入覚法皇と称す、義懐大に驚き馳走至レバ、帝巳に薙髪す、爰に於て直に入道して明覚といふ、これ明覚が清華摂籙より仏門に入るの履歴なり、爾来法皇に随逐して備に難苦を嘗む、比叡山に登りて仏乗の薀奥を究極専攻し、曠世の大学匠となり玉ふ、最悉曇学に精妙を極む、弘法大師より安然和尚に至て、梵学愈盛に行ハれ、明覚に至りて精微神に入る、所謂悉曇中興の大成者なり、伝へ云ふ、いろはハ弘法大師の作にして、片仮名ハ吉備大臣の作なりと、今史乗に付て仮名文字の巧拙に付て、大師の後に片仮名の出来る事と判然せり、三説あり、いろは片仮名共に弘法大師といふ一説あり、また天台安然片仮名を作るといふ一説あり、また加州温泉寺明覚の撰といふ一説あり、何れも悉曇家の明徳より国学の開明を進歩せしや明なり、其典拠といふは、明覚の著書等を能々研究すへし、さて花山法皇西国卅三所を巡礼し玉ふ、これ巡礼の濫觴なり、のち難苦の疲労を休するため北陸に巡狩し、翠華を我山代温泉に留め玉ふに際し、殊に明覚上人に勅して温泉寺に居らしめ、七堂大伽藍を建てて寺を薬王院と改称せしめ玉ふ、上人此寺に住し、大に顕密の教風を闡揚し玉ふ、白山の海空悉く温泉寺門下に集れり、我山代の冨庶是より顕ハる、上人ニ和の能事早々延久四年温泉寺に於て逝去し玉ふとかや、法臘七十一、寺の後山に葬る、今より凡そ九百余年を経過せり、上人在世の事及ひ寺門の沿革ハ、天文度兵火に罹り、今尋ぬるに由なし、いと惜むべき事ならすや、昨年に至り機縁相熟し、八十八ケ所即弘法大師四国札所を薬王山に開闢するの盛運の際せり、上人の石碑山麓に居し、殊に県社の神祠に切近するにより、移転するの止むを得さるに至れり、然して上人の事、当地に於て知るへき人なし、桑田海に変するの恐あるを慮り、余之を演せしかハ、翠鳳軒主人紫藤居士之を家に保存せんことを所望せらる、余依て口碑を記して需に応す、猶上人の活歴発見するに随ひ、他日本伝を纂輯せんこと盟約すと爾かいふ 

   明治三十二年六月  密宗沙門 杜多釈隆現和南
              いにしへのことを留めて後の世の
                   すえまてのこせ道の言の葉

本書は、この年代が違う山代の歴史上主要巨匠人物である「行基和尚」と「明覚上人」の二人が、時代空間を隔てて、史実に基づく「山代陸軍病院史」を題材とした夢の対談形式の物語であり、山代温泉まちづくり推進協議会が発行する「広報やましろ」で平成20年4月号を第一話として平成23年5月までの3年余りの長期間、連載したものですが、限られた紙面の関係上、資料の原文記載や要約などに不十分な箇所が多々ありました。従いまして本書は、その連載物に更に調査したものなどを加筆して出版させていただきました。

忘れ去られる山代の歴史を、このような形で、ご当地に残ってくれれば幸甚である。また、薬王院が温泉守護であり、温泉関係者のみならず、多くの住民が温泉の恵みに感謝を込めてお参りし、かつ、子々孫々に至るまで、この山代温泉の開湯伝説と薬王院温泉寺の歴史を語り継がれんことを切に望むものである。

  平成23年5月

          山代温泉まちづくり推進協議会  総務理事 荒木昭義
                    (広報やましろ編集員)

                 加賀市山代温泉北部1-54
                yamashiro_araki@yahoo.co.jp

           (当記事は執筆者の荒木秋義氏の掲載許可を受けております。)
 二十七代畠中三郎の跡を継いで畠中鎮雄が二十八代となった。重成血統会は昭和八年以降その活動を停止していたが、昭和二十九年(1945)山下力氏や角谷清氏など六家門の本家当主が中心となって再建され、畠中鎮雄を総裁とし、山下力氏を会長として運営された。

 総会は毎年山下家で開催され、各家門一族の隆盛によって会員も増加し、平成十一年度現在三十一名の会員を擁するに至った。この間、昭和三十年(1955)の山代町長選挙では、角谷清氏が激戦を制して山代町長に当選し、昭和五十一年(1976)六月の加賀市長選挙で当選した山下力氏が、加賀市の六代目市長に就任した。この市長選挙は大激戦となり、重成血統会も総力を結集して市長選を戦い、山下市長誕生に貢献した。

 この選挙を通じて重成血統会の結束はさらに強固なものとなり、その存在をつよく印象づけた。山下力氏は重成血統会再建以来会長として会の維持発展に尽力されたが、平成九年(1997)一月二十八日死去され、後任会長は山下拓治氏が選任された。角谷氏が金沢へ移住し、重成血統会を脱退されたので現在五家門となったが、これにより千旗氏一族が消滅したのは極めて残念である。


付記:
 「重成血統会の歴史」をとりまとめるについては、父三郎が編纂した「畠中家史」を基礎資料としたが、内容の一部に誤りや合理性を欠くところがあり、調査検討のうえ修正し、独自の見解を加筆した。また、畠山氏に関する記述など歴史上の記述については、歴史研究の図書、文献を参考としたものである。
なお、本書の発行にあたり、編集責任者として多大のご尽力をいただいた新家清俊氏に深甚の謝意を表するものである。

二十八代 畠中 鎮雄


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 二十五代甚四郎から家督を譲られた竹二郎は元服して甚右エ門を名乗ったが、父甚四郎が隠居、甚右エ門改名により二十六代甚四郎となった。甚四郎は弟常次郎に高三十石などを与えて分家させ甚在エ門を名乗らせた。文久年間(1861-1864)と推定され、明治になり名字を名乗ることになって甚四郎は畠中を名乗ったが、分家甚在エ門も畠中の姓をとり、畠中國雄、畠中誠に至る。

 甚四郎は父の経営していた湯宿を賎業であると断じて廃業した。明治四年(1871)六月二日副戸長を拝命し、翌明治五年(1872)二月二日石川県から江沼郡十力村の戸長(注21)を命ぜられた。(九谷、真砂、生水、小杉、坂ノ下、西住、市ノ谷、上新保、大土、荒谷、杉水、今立、菅生谷、滝、中津原、四十九院)。

 明治五年四月一日山代郵便御用取り扱い所を創設し、郵便事業経営を始めた。以後一二等郵便局長として在任し、明治三十九年(1906)十一月二十日正八位に叙せられ、明治四十一年(1908)十二月二十五日勲八等瑞宝章を授与された。甚四郎は一族の結束を強化するため、明治二十四年(1893)二月、六家門の本家をはじめ二十六家の当主を糾合して血統会を組織し、同月十七日第一回総会を千旗屋で開催した。血統会連名簿に記載された当主の氏名は次のとおりである。


総本家 畠中甚四郎
本家 新家勘四郎  新家幸太郎  北市久太郎
本家 山谷寅吉  嶋田七蔵  福島梅次郎  北野八良与門  藤沢万吉  山本駒吉  山谷喜一郎
本家 山下甚蔵  山下谷甚三郎  直下卯之助  山下 甚作  山下熊治郎
本家 千旗甚七郎  畑谷甚七  角谷七郎  千旗甚治郎  畑野久平
本家 小畑甚在工門  小畑甚九郎  小畑友治郎  小畑又治郎
本家 畠中甚在エ門


血統会は毎年二月十七日、千旗屋、山下家、畑屋(明治三十七年以降)の順で開催された。畠中甚四郎は明治四十三年(1910)十二月二日六十八歳で死去し、法名を慈善(生前本願寺で命名され、月津興宗寺では得性と命名)という。畠中三郎が後を継いで二十七代となった。三郎は明治四十三年(1910)十二月二十七日三等郵便局長に任命され、山代郵便局長として逓信事業経営に努めた。また、父甚四郎の遺志を継いで家史編纂に取り組み、遺承書類、過去帳、墓石等により調査を重ね、大正二年(1922)九月五日畠中家史を完成させた。大正十年(1922)一月十八日規約を定めて血統会を重成血統会と呼称し、総本家当主を総裁、各本家当主を幹事として、幹事の合議により幹事の中から会長を選任することなどが取り決められた。畠中三郎は昭和三年(1928)一月二十日勲八等瑞宝章を授与され、昭和六年(1931)二月十六日従七位に叙せられたが、昭和八年(1933)二月十八日四十九歳で死去し法名を高煕という。



注21)戸長:町村制施行以前の各町村の行政事務をつかさどった吏員。現在の町村長。


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 二十代甚四郎が死去し、長男寿太郎が後を継いで二十一代甚四郎となった。先代甚四郎の葬儀の際、松任木清寺は寺への勤めが薄いのは不信仰によるものだとして司葬を拒否した。これにより上へ願い出て月津興宗土寸の檀家となり、祠堂銀として十八両を納めた。今日もその檀家である。

 甚四郎は弟の昌に高十五石を与えて分家させ勘右工門を名乗らせた。享保年間(1725-1730)と推定され、新家氏の祖で現当主忠康氏に至る。甚四郎は明和八年(1771)十月十四日六十九歳で死去し、法名を明了という。長男久太郎が後を継いで二十二代甚四郎となった。甚四郎は弟の初次郎に高十五石を与えて分家させ七左エ門を名乗らせた。宝暦年間(1751-1764)と推定され、山谷氏の祖で現当主実氏に至る。

 天明四年(1784)は大凶作で餓死者が出る騒ぎになったが、甚四郎も財を失い持ち高は一挙に百八十二石にまで落ち込んだ。甚四郎は享和元年(1801)十一月二十二日七十六歳で死去し、法名を智了という。長男栄太郎が23代甚四郎として後を継いだ。文化四年(1807)、甚四郎は弟の与三吉に高十五石を与えて分家させ甚五郎を名乗らせた。山下氏の祖で現当主拓治氏に至る。

 さらに末弟重吉にも高十五石を与えて分家させ、十八代甚四郎の時に分家させた甚吉郎の後代甚助の名跡をついで甚六を名乗らせたが、明治年間に断絶した。甚四郎は文政五年(1822)十二月二十四日六十七歳で死去し、法名を意蔵という。長男勘太郎が後を継ぎ二十四代甚四郎となった。

 このとき湯宿出倉屋から出火し、湯宿十八軒のうち僅か二件が残る大火となった。翌年から甚四郎は山代村肝煎となり、以後十年間無事職を全うして後を豆腐屋伊兵衛氏に譲った。天保四年(1833)、甚四郎は二男長太郎に高十五石を与え、湯宿油屋株を買い受けて分家させ、畠中を形どって畑屋甚七と名乗り湯宿を経営させた。畑屋は2代目甚七郎が千旗氏を名乗り屋号も千旗屋と改め、弟を分家させて畑屋の名字を与えた。

 現在千旗氏も畑谷氏も後絶えてなく、千旗氏の子孫である角谷氏のみ存在する。天保八年(1837)甚四郎は三男太郎に高十五石と、畠中家山代移住以来の住居を与えて分家させた。小畑氏の祖で現当主甚一郎氏に至る。

 甚四郎は住居を現住所に移し、隠居して甚右エ門と改名した。長男初太郎が二十五代甚四郎となり湯宿を経営した。隠居甚右工門は弘化二年(一八四五)十二月二十六日六十六歳で死去し、法名を顯照という。安政一二年(一八五六)四月十五日甚四郎は隠居して甚右エ門と改名し、家督を二男の竹二郎に譲った。隠居甚右工門は明治四年(一八七一)九月十一日六十四歳で死去し、法名を普済という。



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 十六代甚四郎の死去によりその子勘右エ門が十七代甚四郎となった。甚四郎は山代定住の基盤強化と農業経営に揮身の努力を傾け、山代における繁栄の基礎を築いた功績は極めて大きなものがある。甚四郎は二男に高五十六石を与えて分家させ甚吉郎を名乗らせた。

 この代の寛永十六年(1639)、加賀藩三代藩主前田利常は三男利治に七万石を与えて大聖寺藩を成立させ、江沼郡は那谷村を除いて大聖寺藩の藩領となった。甚四郎は正保二年(1645)六月二十二日七十八歳で死去し、法名を徳了という。嫡男小太郎があとを継いで十八代甚四郎となった。万治三年(1660)一二月甚四郎は彼岸会法要に参詣するため上京し、東本願寺の宣如上人に親しく謁して弥陀の尊形をいただいて帰った。その尊形は今も仏壇中にある。

 甚四郎は天和元年(1681)一月十五日八十五歳で死去し、法名を為念という。後を継いだ重太郎は十九代甚四郎となった。甚四郎は二男の時松に高三十石(注20)を与えて分家させ、甚五郎を名乗らせたが一代で没落した。正徳二年(1712)八月十六日甚四郎は六十八歳で死去し、法名を教順という。長男才治郎が二十代甚四郎となった。正徳二年は凶作で、百姓の大一撲が発生するなど社会情勢は極めて不穏であり、甚四郎の持高も大幅に減少した。このため松任本清寺に対する勤めも薄くなり、寺も次第に不満をつのらせたが、松任が遠距離であったことも足を遠退かせる原因の一つであった。

 甚四郎は末弟に分家甚五郎の名跡を継がせ、「おながえ」という株を買い与えて寛保元年(1741)三月七日大聖寺藩に奉公させたが、その後絶えたようである。甚四郎は延享二年(1745)十一月八日七十一歳で死去し、法名を顯正という。



注20)高三十石、約二町歩


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 十五代重国改め甚四郎が死去して、その子甚四郎が十六代として後を継いだ。彼は才智に富み、父の後を受けて惣村肝煎となってその職を全うし、名声は高くすでに石高千五百七十石(注17)を有していた。彼はまた信仰心が厚く神を敬い仏に帰依し、文録三年(1594)の頃松任本清寺の檀家となった。この本清寺は現在廃寺となってその跡もなく、当時のことは精しく知ることができない。

 時代はすでに足利氏滅亡後の戦国乱世から織田信長を経て豊臣秀吉が天下を取り、その秀吉死残後、秀吉の子秀頼の後見人として徳川家康が次第に実権を握っていった。こうして徳川家康のもとに集まった東軍と、秀頼を奉じた石田三成の西軍との間に関ケ原の合戦が始まり、加賀二代藩主前田利長は徳川方に与一くみ一して東軍の一翼を担って出陣した。然し、小松の丹羽長重、大聖寺の山口宗永は西軍に属していたので、これを討つため能美郡曽野村に陣を敷き、惣村肝煎である甚四郎の邸宅を陣屋として所望され、家臣を遣わして「汝甚四郎はこの郷の長として名声は郡内に響き渡っていることを承知している。いま藩主利長公は徳川家康公に味方して小松の丹羽長重、大聖寺の山口宗永を攻めようとしておられる。しばらくの間汝の家を陣屋として使いたいので了承せられたい」という内容の要請をした。

 それは利長公の本陣として明け渡せという命令にひとしく、甚四郎はそれに従い直ちに家族を伴って曽野村を後にし、戦火を避けながら江沼郡山代村に至り、この地を子孫永遠の住地と定め移り住んだ。時に慶長五年(1600)のことである。

 その後関ケ原の合戦は徳川方の勝利に終わり、前田氏の所領も定まったので、前田氏に山代移住の仔細を言上し、特別の計らいで江沼郡の住人山代の甚四郎として五百七十石(注18)の高持ちとされた。これが山代移住の経緯である。もし関が原の合戦がなく、曽野の家が陣屋に召し上げられることがなければ、甚四郎は曽野に在住して千五百七十石余の高持ちであり、惣村肝煎から後に十村(注19)になったと思われるだけに甚四郎の無念の思いが伝わってくる。これも戦国の世がもたらした激動の余波であり、曽野移住二代にして去る運命にあったことは、長い歴史のなかで曽野は仮の宿に過ぎなかったと言わざるを得ない。

 山代温泉は古くから田植えの泥を落としたり、稲刈りのあと骨休めに訪れる近郷近在の人たちの湯治場であり、甚四郎もしばしば訪れて入湯し、それがきっかけで山代移住を決意したと思われる。土地が肥えて水利もよく、しかも温泉の湧き出る山代は天然自然の恵みを受けた地であり、甚四郎がここを永住の地としたことは子孫繁栄のために最良の選択であった。甚四郎は元和二年(1616)二月三日六十五歳で死去し、法名を顯光という。




注17:石高千五百七十石:約1000町歩の田畑で収穫できる米高。

注18:五百七十石:山代村の江戸時代の石高は千四百五十石。新田千四十五石である。

注19:十村:加賀藩における郷村吏員の名称。約十ヶ村の事務管理をする。