十五代重国改め甚四郎が死去して、その子甚四郎が十六代として後を継いだ。彼は才智に富み、父の後を受けて惣村肝煎となってその職を全うし、名声は高くすでに石高千五百七十石(注17)を有していた。彼はまた信仰心が厚く神を敬い仏に帰依し、文録三年(1594)の頃松任本清寺の檀家となった。この本清寺は現在廃寺となってその跡もなく、当時のことは精しく知ることができない。
時代はすでに足利氏滅亡後の戦国乱世から織田信長を経て豊臣秀吉が天下を取り、その秀吉死残後、秀吉の子秀頼の後見人として徳川家康が次第に実権を握っていった。こうして徳川家康のもとに集まった東軍と、秀頼を奉じた石田三成の西軍との間に関ケ原の合戦が始まり、加賀二代藩主前田利長は徳川方に与一くみ一して東軍の一翼を担って出陣した。然し、小松の丹羽長重、大聖寺の山口宗永は西軍に属していたので、これを討つため能美郡曽野村に陣を敷き、惣村肝煎である甚四郎の邸宅を陣屋として所望され、家臣を遣わして「汝甚四郎はこの郷の長として名声は郡内に響き渡っていることを承知している。いま藩主利長公は徳川家康公に味方して小松の丹羽長重、大聖寺の山口宗永を攻めようとしておられる。しばらくの間汝の家を陣屋として使いたいので了承せられたい」という内容の要請をした。
それは利長公の本陣として明け渡せという命令にひとしく、甚四郎はそれに従い直ちに家族を伴って曽野村を後にし、戦火を避けながら江沼郡山代村に至り、この地を子孫永遠の住地と定め移り住んだ。時に慶長五年(1600)のことである。
その後関ケ原の合戦は徳川方の勝利に終わり、前田氏の所領も定まったので、前田氏に山代移住の仔細を言上し、特別の計らいで江沼郡の住人山代の甚四郎として五百七十石(注18)の高持ちとされた。これが山代移住の経緯である。もし関が原の合戦がなく、曽野の家が陣屋に召し上げられることがなければ、甚四郎は曽野に在住して千五百七十石余の高持ちであり、惣村肝煎から後に十村(注19)になったと思われるだけに甚四郎の無念の思いが伝わってくる。これも戦国の世がもたらした激動の余波であり、曽野移住二代にして去る運命にあったことは、長い歴史のなかで曽野は仮の宿に過ぎなかったと言わざるを得ない。
山代温泉は古くから田植えの泥を落としたり、稲刈りのあと骨休めに訪れる近郷近在の人たちの湯治場であり、甚四郎もしばしば訪れて入湯し、それがきっかけで山代移住を決意したと思われる。土地が肥えて水利もよく、しかも温泉の湧き出る山代は天然自然の恵みを受けた地であり、甚四郎がここを永住の地としたことは子孫繁栄のために最良の選択であった。甚四郎は元和二年(1616)二月三日六十五歳で死去し、法名を顯光という。
注17:石高千五百七十石:約1000町歩の田畑で収穫できる米高。
注18:五百七十石:山代村の江戸時代の石高は千四百五十石。新田千四十五石である。
注19:十村:加賀藩における郷村吏員の名称。約十ヶ村の事務管理をする。
時代はすでに足利氏滅亡後の戦国乱世から織田信長を経て豊臣秀吉が天下を取り、その秀吉死残後、秀吉の子秀頼の後見人として徳川家康が次第に実権を握っていった。こうして徳川家康のもとに集まった東軍と、秀頼を奉じた石田三成の西軍との間に関ケ原の合戦が始まり、加賀二代藩主前田利長は徳川方に与一くみ一して東軍の一翼を担って出陣した。然し、小松の丹羽長重、大聖寺の山口宗永は西軍に属していたので、これを討つため能美郡曽野村に陣を敷き、惣村肝煎である甚四郎の邸宅を陣屋として所望され、家臣を遣わして「汝甚四郎はこの郷の長として名声は郡内に響き渡っていることを承知している。いま藩主利長公は徳川家康公に味方して小松の丹羽長重、大聖寺の山口宗永を攻めようとしておられる。しばらくの間汝の家を陣屋として使いたいので了承せられたい」という内容の要請をした。
それは利長公の本陣として明け渡せという命令にひとしく、甚四郎はそれに従い直ちに家族を伴って曽野村を後にし、戦火を避けながら江沼郡山代村に至り、この地を子孫永遠の住地と定め移り住んだ。時に慶長五年(1600)のことである。
その後関ケ原の合戦は徳川方の勝利に終わり、前田氏の所領も定まったので、前田氏に山代移住の仔細を言上し、特別の計らいで江沼郡の住人山代の甚四郎として五百七十石(注18)の高持ちとされた。これが山代移住の経緯である。もし関が原の合戦がなく、曽野の家が陣屋に召し上げられることがなければ、甚四郎は曽野に在住して千五百七十石余の高持ちであり、惣村肝煎から後に十村(注19)になったと思われるだけに甚四郎の無念の思いが伝わってくる。これも戦国の世がもたらした激動の余波であり、曽野移住二代にして去る運命にあったことは、長い歴史のなかで曽野は仮の宿に過ぎなかったと言わざるを得ない。
山代温泉は古くから田植えの泥を落としたり、稲刈りのあと骨休めに訪れる近郷近在の人たちの湯治場であり、甚四郎もしばしば訪れて入湯し、それがきっかけで山代移住を決意したと思われる。土地が肥えて水利もよく、しかも温泉の湧き出る山代は天然自然の恵みを受けた地であり、甚四郎がここを永住の地としたことは子孫繁栄のために最良の選択であった。甚四郎は元和二年(1616)二月三日六十五歳で死去し、法名を顯光という。
注17:石高千五百七十石:約1000町歩の田畑で収穫できる米高。
注18:五百七十石:山代村の江戸時代の石高は千四百五十石。新田千四十五石である。
注19:十村:加賀藩における郷村吏員の名称。約十ヶ村の事務管理をする。