永正十年(1513)三月、室町幕府十代将軍義植と近江の六角定頼との戦いに従軍し、父畠仲重光を失った十八歳の重国は悲しみのうちに京都に帰還し、十五代を継いだ。「応仁の乱」によって京都は荒廃し、民衆は苦痛に喘いでいた。幕府の権威は失墜し、将軍専制は変質化し形骸化していた。

 さらに財政は極度に窮乏し、それを補うため諸国の守護に献金と臨時の賦課が命じられたが、それは結局農民に転嫁された。その上度重なる天災地変で凶作が続き、農民の生活苦はますますひどくなり、京都とその周辺をはじめ各地に土一撲が頻発するなど世情は極めて不安定な状況にあった。まさに戦国乱世の兆しを見せていた時代で、社会の混乱と伝統破壊の動きが激しくなり、戦国大名は中央制覇を狙って虎視眈々とその機会をうかがっていた。

 こうした情勢を敏感に察知し、足利氏の将来を予知した重国は、新しい所領によって活躍の場を得たいと考えていた矢先に将軍の敗北と父の死に遭遇し、その意志を固めたものと思われる。永正十年(1513)の秋も深まった頃、足利氏に暇を乞い、家財を処分して得た千五百両の大金を携えて、祖父重秋らと共に長年住み慣れた京都をあとに近江賂から遠く北陸をめざして旅立った。

 何故北陸を選んだかは明らかでないが、父祖の代から一向宗に帰依し、本願寺門徒の根拠地としてその勢力の強いことを知ったことも一因であったと思われる。折しも加賀国は一向一撲によって守護大名富樫氏が滅ぼされ、本願寺門徒衆による「百姓の持ちたる国」になっていた。重国、重秋の北陸への旅は冬に入って難渋し、翌永正十一年(一五一四)梅雨の頃、ようやく加賀国能美郡曽野村に到着した。

 その間の足取りは定かではないが六力月余の日時を要していることから、雪に行く手をさえぎられ、或いは身の危険にさらされるなどその道程は多くの困難を伴ったと思われる。各地に暫時滞在しながら旅を重ねたことは想像に難くない。

 曽野村に入った重国たちは、折良く肝煎りの家に投宿し、北陸下向の事情を説明したところ是非曽野村に留まることを勧められた。当時曽野村には甚四郎という名前だけ残して跡絶えた家があり、、倣則一も村人たちもこの名跡を継ぐよう強く勧めたので、重国もその好意を捨て難く、ついに曽野村に留まって農業に生きることを決意し、重国改め甚四郎を名乗ったのである。重国は元来温厚で思慮深く、学識もあり才智に富んでいたので村人たちの信用も厚く、肝煎の死後選ばれて肝煎となり、その後惣村肝煎となって名声は郡中に響き渡った。

 曽野村は小松砦に近くひとつの埜塁を形成して郡中肝要の地であった。十五代重国は畠中家にとって忘れてはならない人物である。甚四郎の襲名はこの重国に起こり、農業を営んだ最初でもある。後世、彼を中興の祖と言うが、衰退してゆく足利氏の現状から将来を予測して京都を去り、父祖代々の武士を捨てて農民として生きる道を選んだ勇気が家系を護り、なお新たに家を興す結果に繋がったのである。もし京都にあって足利氏に仕えていたならば、恐らく足利氏と共に滅びゆく運命を辿ったものと思われる。

 重国が弱冠十八歳で北陸下向の挙に出たことと、初代重成が意を決して京都から鎌倉へ下向し、以後二百五十年足利氏に仕える端緒を開いたことを軍ねあわせ、自らの運命をきり拓き苦境を乗り越えていった二人の足跡が、ともに京都を起点としていることに歴史的因縁を感じ、畠中家の歴史形成上景も重要な役割を演じていることに深い思いを抱くのである。

 重国が農業を営むについては、おそらく京都から持参した大金を注ぎこみ田地を買い求めたものと思われる。こうして畠中家の歴史は新たな展開を見せることになったのである。13代重秋は、曽野移住後の天文十一年(1542)十一月十一日九十二歳で没し、法名を浄念という。十五代重国改め甚四郎は文録二年(1593)九月二十五日九十八歳の高令で死去し、法名を祐信という。彼がこれほどの長寿を保ったのは、白然に親しんだ田園生活がもたらしたものであろう。



 初代畠仲重成が没し、その後を継いだのは二代勘四郎重正である。重正は足利氏に仕えて用いられた。父重成の構えた道場の師範代として門弟の指導に当たっているところを見込まれて仕官したと思われる。足利氏は源氏の嫡流であり、幕府執権の北条氏とは姻戚として非常に重要な地位にあった。畠仲氏が以後二百五十年足利氏に仕える道を開き、基礎を磐石のものとした重正の功績は極めて大きいものがある。

 重正は正応元年(1288)三月三十日七十五歳で没し、その子重氏が三代として後を継いだ。これより先、文永十一年(1274)蒙古軍が北九州へ来寇した文永の役後、蒙古軍が再び来襲する事を予測した幕府は、西国の防備を固めるために足利氏を敦賀に派遣し、畠仲重氏、その子重真も足利氏麾下にあって敦賀の防備に当たった。

 弘安四年(1281)蒙古軍は大挙来襲したが第暴風雨に遭遇し、蒙古の兵船は全滅した。これによって重氏父子も戦うことなく鎌倉へ帰還した。正安二年(1300)九月十四日重氏は六十三歳で没し、重真が四代をついで足利氏に仕えていたが、元享元年(1321)六月八日六十一歳で没し、五大真正、六代重良と続いた。この時代、幕府執権北条高時の専横は目に余るものがあり、後醍醐天皇は広く勤王の士を集めて討幕運動を進めようとしたが失敗し、隠岐島に配流された。

 その後、大塔宮護親王、楠正成らは吉野や金剛山千早城に拠って幕府軍と戦い、全国の武士に勤王を呼びかけていたが、天皇は約一年余りの後、元弘三年(1333)二月二十四日隠岐を脱出、京都へ還幸することになった。北条高時は再び足利高氏に天皇の入京阻止を命じ、高氏は征西の将として幕府の大群を率いて上洛したが、途中の三河付近で九州の諸将に、足利氏の軍陣に馳せ参じて勤王するようにとの密書を送り、元弘三年四月二十九日丹波篠村で倒幕の旗を揚げ、五月七日六波羅探題を陥れた。

 同年五月二十二日、北条高時は上野国で挙兵した新田義貞に攻められ、鎌倉東勝寺で自害し鎌倉幕府は崩壊した。こうして建武中興は成り、足利高氏など諸将はその功績によって多くの所領を与えられた。さらに高氏は天皇の御諱(いみな)「尊治」の一字「尊」を賜れ、それまでの高氏から尊氏に改めるよう命ぜられた。足利氏にしたがって参戦した畠山重正、重貞もともに功せられた。

 建武二年(1335)七月に北条高時の遺子時行が幕府復活をはかって関東で朝廷に叛旗をひるがえすと、尊氏は征東将軍となって東国へ下向した。このとき尊氏は征夷大将軍の任命を希望したが、許されない事を知ると朝廷から万全の信任を得ていないとの理由をつけ、後醍醐天皇の勅命に応じない事を宣言し、北条時行を敗走させた後も鎌倉に留まったが、やがて天皇の追討軍新田義貞を箱根竹之下に破って西上、京都に攻め入った。建武三年(1336)一月、勅命を受けた北畠顕家に敗れて一時九州に逃れたが態勢を立て直して東上、五月二十五日に楠正成、新田義貞らを湊川に破り翌月京都に入った。

 後醍醐天皇は難を叡山に避けたが尊氏の強請を拒みえず、十一月三種の神器を光明天皇に渡すとともに自らは吉野山に潜幸し、ここから南北両朝の分立が始まった。尊氏は建武三年十一月京都室町に幕府を設置したが、これが以後二百三十年続いた室町幕府の始まりである。この動乱期に足利氏に仕えて東奔西走した畠仲真正は、正平十年(1355)五月一日七十三歳で没し、その子重良も正平十六年(1361)十月十五日五十七歳で没した。

 七代として後を継いだ良道は、正平十九年(1364)七月二十二日三十四歳の若さで没し、弟良方が後を継いで八代となった。室町幕府は足利義満が三代将軍となってその基礎を固め、明徳三年(1392)十月には南北両朝が統一された。世情は安定し、北山文化が花開くなど足利氏全盛の時代を迎え、畠仲氏もまた栄えた。良方は応永六年(1399)四月一日六十六歳で没し、その子重崇が九代として後を継いだが応永三十四年(1427)十一月二十七日七十三歳で没し、その子重時が十代となった。

 重時は永享十二年(1440)一月八日六十四歳で没し、法名を顯明という。これが法名として残る最初であるところから、この時代に一向宗に帰依したものと思われる。重時の子重貞が十一代となり宝徳三年(1451)三月十八日五十歳で没し、法名を顯進という。重貞の後を継いで十二代となった重行の時代は、室町幕府にも陰りが見え、八代将軍足利義政治世下の応仁元年(1467)五月、その後十一年にわたる「応仁の乱」が起こるなど戦国乱世の相を兆していたが、その反面、北山文化と並び称される東山文化が一時代をひらき、国民文化の形成に大きな役割を果たした。

 畠仲重行は明応九年(1500)二月八日七十二歳で没し法名を実良という。十三代重秋、十四代重光の時代は、足利義尚、義稙、義澄、再び義稙とめまぐるしく将軍が代わった時代であった。幕府の権威は失墜し、加賀国で発生した一向一揆は近隣諸国を巻き込み、やがて全国制覇をめざす戦国大名の動きと複雑に絡み合って長期化するなど、政情は極めて不安定であった。十一代将軍義澄のあと再び将軍に復帰した10代将軍義稙は、永正十年(1513)三月近江の六角定頼と戦い、一進一退を繰り返す中で義稙軍にあって我が子重国とともに奮戦した重光は、不幸にして重症を負い七月十五日近江で戦死し義稙軍も敗北した。重光享年四十歳、法名を覚成という。


 奢る平家はひさしからず。さしも権勢を誇った平氏も、清盛の死後棟梁の地位を継いだ宗盛(注12)が木曽義仲との戦いに敗れて都落ちし、さらに長門国壇ノ浦の決戦で源義経に敗れ、宗盛、清宗父子は捕らえられて鎌倉へ送られた。

 文治元年(1185)六月九日に鎌倉を出発して帰洛の途についた宗盛父子は、六月二十一日近江国篠原宿で誅殺され、平氏は滅亡した。宗盛三十九歳、清宗十五歳であった。栄枯盛衰は世の常とはいえ、平氏の末路はあまりにも哀れであり、人の世の無常、はかなさを痛感する。

 平宗盛の女宗姫は、平氏一門の都落ちの際一人京都に残されて零落し、平氏滅亡後も身分を隠してそのまま京都に棲んでいた。もとより美貌であり三絃に秀でていたため、酒席に招かれたり教えを乞うものも数多くいた。

 建久五年(1194)、源頼朝が力を入れている奈良東大寺の復興について、大仏殿に安置する四天王像のうち増長天像の造立を命ぜられた畠山重忠は、京都に入って仏師康慶に造仏を以来しているが、在京中宗姫のことを知り、しばしば召しだしてその芸を賞し楽しんだ。重忠も音楽の才能に優れ、静御前が鎌倉鶴岡八幡宮の社頭で舞った際には銅拍子で伴奏をつとめるなど頼朝からも歌舞の才能を高く評価されていた。

 また父重能が大番役として京都に赴任していた頃、少年だった重忠もしばらく京都に滞在して、今様(注13)を歌うなど京都風の教養を身につけていた。度重なる逢瀬を楽しむうちに心が通い合い、ついに家系をただして妾としてかくまった。

 建久六年(1195)二月、源頼朝の再上洛に再び先陣の栄誉をになった重忠は三月四日入京し、三月四日奈良に入り、三月十二日千人の僧侶を集めた東大寺大仏殿の盛大な供養の式に参列した。三月十四日頼朝に従って京都に帰り、清水寺、大阪の四天王寺などの寺社参詣に供挙している。六月二十五日岐路につく頼朝の先陣として京都を出発し七月八日鎌倉に帰ったが、この間、四月五日に公務を離れて法然上人と会い、浄土宗の法門を談じるなどしたとされていることから、密かに宗姫とも再会し、誕生したばかりの我が子との初対面を果たしたと思われる。子供は義雄丸と名づけられたが、平氏に対する詮議が厳しい折柄、平氏縁の者として身分発覚を恐れた重忠は、幕府に届け出ることなく、密かに宗姫のもとで養育された。

 元久元年(1204)二月、重忠は京都臨済宗の本山、建仁寺の竹垣造成のため上京し、宗姫、義雄丸と再開した。元久二年(1205)六月二十二日、重忠、重保父子が北条時政によって謀殺されたとき義雄丸はわずか十歳であった。災禍の義雄丸に及ぶことを恐れた宗姫は、意を含めわずかの金子を与えて家を去らせた。義雄丸は少年とはいえ天性剛毅で才知に富み、堅忍不抜の精神であらゆる試練に立ち向かい武道を修めた。長じて自らを畠仲勘四郎重成と名乗り、世に出ようとしたが機会に恵まれず、京都で弓矢の道を指南し多くの門弟を抱えていた。

 時は流れ、北条市が鎌倉幕府執権として権力を振るっていることを知った重成は、意を決して鎌倉へ下向し、門を構え道場を開いて機を窺ったが果たさず、文永二年(1265)二月八日七十歳で没した。畠山氏滅亡という最悪の状況下にあって身分を隠し、あらゆる困難と闘いながら一家を興して永遠の基礎を築いた功績は偉大である。もし重忠が謀殺されることがなければ、重成もまた武将として名を成したことであろうことは、彼の剛毅な性格と逞しい生き方から想像に難くない。

 さらに重忠、宗姫の豊かな感性を受け継ぎ、文武両道にすぐれた人物として後世に名を止めたと思われるだけに惜しまれてならない。天下は既に治まり、畠山氏をはじめ次々と有力御家人を討滅した北条氏が鎌倉幕府執権としての地歩を固めていった時代に生き、歴史の表舞台に登場することなく野に埋もれたことは、重成にとってあまりにも不運な生涯だったと言わざるを得ない。


注12)平宗盛(1147-1185):平清盛の三男。平家最後の総大将。

注13)今様(いまよう):今様歌の略。新たにはやり出した歌で仏教の和讃から出たという。


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 畠山氏は、武蔵国で最強の武士団を擁した秩父平氏の嫡流を継ぎ、畠山の庄に居を構えた畠山庄司重能に始まる。系図によれば、平高望から3代目の武蔵権守将恒は武蔵国秩父に根拠を置いて秩父平氏を興し、秩父別当武基、秩父権守重綱、重弘、重能、重忠に至るまで代々武蔵国総検校職を務めた。重能は、はじめ源義朝に従っていたが、平治の乱(1159)直後から平氏に仕えるようになったといわれている。武蔵国は欄の後平家の知行国になっており、仁安二年(1167)十二月までの8年間、平知盛が武蔵守になっていることから、総検校職として平家に従い、下総の千葉氏、相模の三浦氏に匹敵する勢力を持っていた。

 治承四年(1180)八月、源頼朝が伊豆で挙兵した当時重能は大番頭役として京都にいたが、加賀国篠原の合戦では平家方の武将として木曽義仲の軍勢と激しく戦い、平家の都落ちの際に、平知盛の口添えで身の暇を賜るまで平氏の重恩に報いるために力を尽くし、源頼朝に仕えることはなかった。

 重能の二男畠山庄司二郎重忠は、源頼朝の有力御家人として剛勇廉直の典型的鎌倉武士と称賛された人物である。治承四年(1180)八月源頼朝が挙兵したときは、秩父平氏一族の主流として平氏方に立ち反頼朝の行動をとった。当時父重能は大番頭役として在京中であったため、重忠は弱冠17歳で一族の軍事行動の中枢に立ち、大庭景親に応じて石橋山の戦場に向かった。

 重忠の軍勢は合戦には間に合わなかったが、たまたま頼朝方に立った三浦一族の軍勢と遭遇し、激戦の末これを撃破した。然し同年十月再挙を図った源頼朝に秩父一族とともに参向し、鎌倉幕府御家人となる端緒を開いた。その後、木曽義仲との宇治川の合戦や、数年にわたる平氏討滅の戦いに武功をあげた。

 重忠は武勇に優れていたばかりでなく音楽的才能にも優れ、有名な鎌倉鶴岡八幡宮社頭における義経の愛妾静御前の舞に際し、重忠が銅拍子をもって伴奏を務めたといわれている。頼朝は重忠の歌舞の才能を高く評価し、誠実で思いやりのある人柄に主従を超えた厚い信頼を寄せた。鎌倉御家人としての地歩を築いた重忠は、本領畠山の庄から東南10キロの比企郡菅谷の地を所領として与えられそこに館を構えた。

 重忠は戦功の恩賞として各地に多くの所領を与えられたが、伊勢国沼田郡御厨の地頭職、奥州征伐の先陣を務めたときの恩賞である陸奥国葛岡郡地頭職などが知られている。建久元年(1190)十月の頼朝上洛に際し、重忠は行列の先陣となり御家人最大の栄誉をになった。さらに建久六年(1195)二月、頼朝が東大寺大仏殿再建供養に結縁(けちえん)のため再上洛する際にも重忠は先陣を務めている。

 重忠は、はじめ足立遠元の女(むすめ)を娶り小次郎重秀が生まれたが、後さらに北条時政の女と結婚し六郎重保が生まれた。この重保と北条時政の後妻牧の方の娘婿平賀雅との口論がきっかけとなり、時政、牧の方によって重忠父子討滅計画が進められた。頼朝は既に亡く、三代将軍実朝の外祖父である時政が幕府執権として実権を握っていた時代である。

 元久二年(1205)六月二十二日、招きにより武蔵国より鎌倉にでてきた重保が謀反人として討たれ、事情を知らずに軍勢数百騎を率いて菅谷館を出発し鎌倉に向かった重忠、重秀父子は、武蔵国二俣川で北条義時以下数万の幕府軍に襲撃された。激闘の後重忠父子は討ち死にし、おもな一族郎党なども自害して平氏畠山氏は滅亡した。時に重忠四十二歳、その人柄を知る人は皆涙したという。

 その後、重忠謀殺は牧の方が将軍実朝を除いて平賀朝雅を将軍にするための陰謀である事が発覚し、牧の方は自殺、朝雅は殺され時政は失脚した。然し、時政の真の狙いは、武蔵国の豪族を次々と滅ぼし、残された重忠を殺して武蔵国を完全に掌握することであった。

 重忠には重秀、重保の他に末子といわれる大夫阿闍梨重慶がおり、建保元年(1213)九月、日光山別当弁覚らに訴えられて殺された。系図によっては重忠の子として重政、円耀及び女子などがあるがはっきりしない。さらに、重忠の子として密かに育てられ、京都にあって難を逃れた幼名義雄丸、後の畠仲勘四郎重成がいる。この重成こそ平氏の直系として、また平氏畠山の後継者として畠仲氏を興した人物である。

 そのほか、一説では新田義貞に従って奮戦した畑時能は畠山重忠の子孫といわれ、重秀の子孫は後世小田原北条氏に仕えたといわれている。因みに、平氏畠山滅亡後、重忠の妻であった北条時政の女は足利義兼の二男岩松義純に再嫁し、時政は畠山の所領を義純に与えて畠山を名乗らせ、源氏畠山が誕生した。その子孫は代々足利一族として室町幕府の官領職や能登の守護職に任命され、能登畠山へとつながっている。




注1:秩父平氏:桓武平氏の一支流、武蔵の国秩父に居り、苗字とする。その家筋を一に畠山ともいう。

注2:畠山の庄:現在の埼玉県大里郡川本町畠山、荒川河畔にて重忠の墓がある。

注3:総検校職:物事を調べ正す職。荘園の荘務を司る役の上級職。

注4:源義朝(1123~1160):源為義の長子。頼朝の父、平清盛の政敵。

注5:源頼朝(1147~1199):義朝の三子。以仁王の平氏追討の令旨を受け北条時政等と東国の家人に平氏追討の激文を発す。後に鎌倉幕府を創設し征夷大将軍になる。

注6:大番役:禁裏及洛仲警邏を順番に当たる職名。

注7:畠山庄司郎重忠(1164~1205):畠中家の祖先。桓武平氏の一流、秩父氏の一支流。武蔵国男衾郡畠山庄に住した秩父重弘の子、重能第二子。母は三浦義明の娘。木曽義仲の妾巴御前との戦いやひよどり越えの嶮の突破で功をあげた。鎌倉幕府創業の元勲として勢力があった。

注8:石橋山:現在の神奈川県小田原市石橋(足柄郡早川村石橋)

注9:銅柏子:銅製の二つの円盤を両手に持って、互いに打ち合わせて鳴らす楽器。

注10:比企郡菅谷:現在の埼玉県比企郡嵐山町。菅谷城址がある。

注11:武蔵国二俣川:現在の神奈川県横浜市都築区の南部。




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 畠中一族の総本家畠中氏の歴史は古く、約八百年前の建久六年(1195)にさかのぼる。鎌倉幕府の有力御家人として幕閣の枢位にあった畠山庄司二郎重忠を父に、平宗盛の娘宗姫を母として誕生した幼名議雄丸、後の畠仲勘四郎重成が初代である。

 二代重正は足利氏に仕え、その後重氏、重真、真正、重良、良道、弟の良方と続き、さらに重崇、重時、重貞、重行、重秋、重光と続いた。重光が室町幕府十代将軍足利義稙と近江の六角定頼との戦いで戦死し、その後を継いだ十五代重国は、足利氏の将来を予見して足利氏の許を去り、長年住み慣れた京都を後にし祖父重秋とともに遠く北陸へ下向した。加賀国能美郡曽野村に至り、甚四郎という名前だけ残って後絶えた名跡を継いで甚四郎と改名し、武士を廃して農民となった。その後甚四郎は肝煎から惣村肝煎、千五百七十石の高持ちとなった。その子十六代甚四郎も惣村肝煎となったが、関ヶ原の合戦の際、前田利長公は小松、大聖寺攻めに軍を進め、甚四郎の邸宅が本陣とされたため止む無く曽野を離れて山代に至り、ここを子孫永住の地と定めて移住した。時に慶長六年(1600)の事である。

 戦いが終わり前田氏の領地も確定したので、前田氏に山代移住の仔細を言上し、特別の計らいで「江沼郡の住人山代の甚四郎」として五百七十石の高持ちとされた。その後十七代甚四郎から二十五代甚四郎と代を重ね、明治に入って名字を名乗ることになり、畠中姓を名乗って二十六代畠中甚四郎から三郎と続き今日に至った。

 その間、二十一代甚四郎の代に新家氏の祖である勘右ェ門が分家独立し、二十二代甚四郎の代に山谷氏の祖である七左ェ門が分家した。続く二十三代甚四郎の代に山下氏の祖である甚五郎が分家し、二十五代甚四郎の代に畑谷、後に千旗氏の祖である甚七が、小畑氏の祖である太郎が分家した。さらに二十六代畠中甚四郎の代に畠中氏の祖である甚在ェ門が分家している。

 戦後の山代は温泉観光地として急速な発展を見せ、それに伴って町は大きく変貌し新興勢力が台頭してきた。こうした流れのなかで重成血統会は稀有な存在であり、新生山代に異彩を放つ組織である。それだけに古い歴史を有する重成血統会の存在意義は大きなものがあり、われわれ会員は誇りを持つと同時に今後ますます発展させていく責任のあることを痛感する。ひるがえって、畠中家が山代第一の旧家として六家門を数え、その一族が山代の過半数を占めた時代もあり、常に山代の中枢にあって指導的な役割をはたしながら繁栄してきたのは、始祖である畠仲重成の偉業にほかならず、それを受け継いできた歴代当主の努力と、当主を支えた一族結束の賜物である。