アメトピに掲載されました照れ

 

 

実際の記事はこちらです。

 

 

 

アメトピ掲載は3回目です。

前回の備忘録。

 

 

「食べ物ネタ」ばっかりですなダッシュ

 

 

7月31日のNHKあさイチで、「女性のひきこもり」を扱った内容を見ました。

 

 

放送直後に、出演者のコメントが紹介されていました。

 

 

「よき妻であるべき」「よき母であるべき」

「女性は子どもを産んで一人前」

「親の介護は家族内の女性がやるべき」

「女性活躍」

「女性も働くべき」

「社会の役に立つ生き方をすべき」

 

あ〜キュークツだねえゲッソリ

 

ものすごいデジャヴュ感がある。

 

ワタシが新人社会人だったころも、出産適齢期だったころも、定期的にこれらの「キュークツさ」が問題になった。

「出産適齢期」に子どもを産んでいたら、その子どもが今、生きづらさを抱える年代にさしかかっていたはずだ。

(子どもが「男」だったら、ストーリーはまた違うけど)

 

ワタシも、かつては囚われていた自覚がある。

 

ただ、昔はもっぱら「時代のせい」「社会のせい」にされていたように思う。

毒親的な存在に言及されるのは、今日的だと感じる。

 

結局のところ、この問題に苦しむのは、優等生的で「そこそこ」優秀な女性たち。

 

 

最後のほうに「人生の舵を取り戻す」という言葉があった。

そのとおりだと思う。

 

しかし、「十分に若いうちに」という前提が必要じゃないかな。

 

 

番組で主に取り上げられた「〜するべき」に囚われて、生きづらさを感じている女性たちは、そもそも、「人生の舵」を握ったことがあるのか。

 

毒親、教師、親戚、友人、無言の社会圧などに屈して、ずっと流されてきたのではないか。

 

ワタシだって、彼女たちと似たような「環境」だったわけさ。

 

けれど、それらをはね返せるほどの「好きなこと」「人生の舵を他人にとられたくないという強い気持ち」を持っていただけで。

 

「〜すべき」から解放されても、自分のやりたいこと、自分らしい生き方(…ってなに?)がなければ、また次の「お悩み」があるだろう。

 

 

母親の世代を見ていて、思う。

「よき母」「よき妻」を演じる必要がなくなったら、「ありのままの自分」があるのか。

バランスのとれた美味しい食事も、掃除も洗濯も、「夫やこどもたちがいるから」ちゃんとやっていただけなのでは?

 

 

41歳で働くのをやめて隠居生活(?)を始めたワタシは、周囲のおせっかいな年上の女たちからは、色々言われてきた。

 

「ワタシがアナタの年のころは、バリバリ働いていた」だの。

「働かないのはもったいない」だの。

「社会貢献するべきだと思わないの?」だの。

 

うっせーな!!!

ワタシは、アナタたちとは違う。

 

…と、「ワタシは」聞き流せたけど。

 

仮にだよ、ワタシが「ひきこもり」の心情を抱えていたら、ものすごく傷ついたはず。

家に帰って、泣いちゃってたかも。

 

ぜんぜん「多様性」を認めてないじゃないか。

働いてもいい、働かなくてもいい。

「社会に役立つ」なんて、してもしなくてもいい。

ずっと家にいても、ときどき外に出ても、ずーっと外にいても、どれでもいいじゃん。

 

 

そしてだな、アナタたちにはさらに、決めゼリフがあるのだ。

「ふつうのひとは、アナタとは違う」と。

 

…それは、そうだよな。

「ふつうのひと」の多くは、「良い妻」「良い母」以外の生き方を、考えたこともないのだろう。

 

あー人間て、めんどうくさい。