喜劇 眼の前旅館 -37ページ目

喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

斉藤斎藤さんの発行する歌誌「風通し」の創刊号に参加しています。
以下のような内容です。絶賛発売中です。
その前にすみません、あらかじめ謝っておきますが、豪華メンバーの中でぽつんと一人だけ豪華でない私の名がなぜか筆頭にあがっているのは、例によって五十音順マジックによるものです。同じ理由により誌面でも作品が巻頭に掲載されています。
本当にすみません。深く反省しています。
では、内容の説明をどうぞ。


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「風通し」創刊のお知らせ

説明しよう

●「風通し」とは、一号ごとのメンバーで一号ごとに企画を立ち上げる、
一期一会の「そのつど誌」である。

●第1号の企画は、連作歌会である。

●メンバーは30首の連作を提出し、
インターネットの掲示板でおよそ一ヶ月にわたる
血みどろの相互批評を繰り広げた。

第1号メンバーは

 我妻俊樹
 石川美南
 宇都宮敦
 斉藤斎藤
 笹井宏之
 棚木恒寿
 永井 祐
 西之原一貴
 野口あや子

の9人。

【連作歌会超ダイジェスト】
永井さんの歌はロックだなあ、と思いながら僕は読んでいます/この連作はどの口から語ろうとした短歌なのか、判断しかねました/山口より帰還。復帰します/作者と作中の人物がイコールでない書き方をする場合、作者は、それが「自分ではない」ということに、ものすごく責任を持たなくてはならないのではないか/いや、端的に言って斉藤さんの読み方は「作者萌え」なんじゃないの?/出たっ、野口あや子の「無知の知」攻撃(笑)/でも、そういった評価軸は、ア・プリオリな「私」を疑うだとか、〈生〉の一回性だとか、言い尽くされた価値観の域からどれほども出ていないのではないか/からんでもらえてうれしいっす!/完全な偏見ですが、わたしよりちょっと上の男性に共有されているノリがあるような感じがしました。偏見です/最後から2首目には、泣きそうになりました/うまく作ることを禁じ手にするなんて、あまりにも過酷なことではないでしょうか


B5版100ページ。
定価1000円(送料込、振替手数料は別)です。

お申し込みは

kaze104@gmail.com

まで。

メールの件名は「風通し購入」とし、

1)お名前
2)ご住所

をお知らせください。
折り返し、お支払方法などお知らせいたします。

よろしくお願いいたします。


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私(我妻)からも、どうぞよろしくお願いいたします。
ぜひお買い求めください。

後出しじゃんけん的な感想などは、またいずれ。
題詠100首完走しました。
http://hello.ap.teacup.com/perkypat/

今回ちょうど題詠の締め切り付近に小説も並行して書いてたんだけど、両者に相乗効果的なものがいい具合に発生してたのでこれはぜひ今後も維持したいと思った。
小説っていうのは毎日書いてても、昨日のつづきを書くには今日もまた昨日と同じように脳から汁を出し直さなきゃならないわけですね。話がつながってればいいってもんじゃなくて、脳の汁が持ち上げるテンションみたいなものがつながってないと駄目なわけです。その汁は昨日書いた部分を読み返したからといってうまく出てくれるものではない。そもそもそういう即効性がないのが小説というものだからです。読者の頭にいきなり汁が出ると後が続かないから、少しずつ出すように書かれているのが小説です。だから書くほうも時間をかけて汁を出していくんだけど、ずっと休みなく書き続けてるわけにはいかない。私の場合一回眠ると脳の汁がすっかり干上がってしまう体質なんで、毎日起きてから汁を溜め直すことに非常に労力が要って、ほとんどそれだけで一日無駄にする勢いなわけです。
で、短歌なんですが、短歌は小説とくらべてはるかに即効性高いので、脳から汁の出ている世界へ最短距離でのぼっていくエレベーターのようなものとして使える。ただしいきなり上っても身一つで来ちゃってる感じで、あとから荷物が届くのを上でぼけーっと待ってなきゃなんないんだけど、でもこれを使うと使わないとじゃ仕事の速さが大違いだと思った。
だから短歌はなんらかのかたちで、毎日作り続ける場を維持しておいたほうがいいと思いました。たぶん題詠のブログの方をそれに使います。ただ漫然と歌をならべてると飽きるのでなんかテーマとか形式が必要だと思う。縛りがあることで、歌の出来とか作風のばらつきにあんまり神経質にならなくていいという効用もある。
昔書いてたことがあるのは、らくがきっぽい即興の散文と一首を合わせるという形だけど、それだと歌だけできて散文が書けないときがあって、不満足な散文と合わせて載せるのがすごく不快だった覚えがある。自由すぎず不自由すぎない、ちょうどいい具合の位置で連日駆動しつづけるエレベーター、になるようなものを手さぐりで脳と相談しながら期待したい。
このところおもに短歌の新作をのせて更新してるのはあっちのブログです。
題詠百首の半分まできましたが、我ながらだんだん持ち直してきたんではないでしょうか。途中で作風揺れすぎといつも自分でも思いますが、たぶん今年もそうです。
最近はこんな感じのです。


右に OLIVIA 左に JESSICA と彫りつけた乳房と監察医として出会う


これOLIVIAは先に決めてて、もう一個をどうするかかなり悩んで外国人の名前を紹介してるサイトとか見て最後にはJESSICAにしたんでした。
もっと前にはOLIVIAじゃなくってLOVEで考えてて(お題がアルファベットの「V」だった)、LOVEと対にしてここで生きそうな単語がHATEしか思いつかなくて、それだと映画「狩人の夜」(両手のこぶしにそれぞれLOVEとHATEって刺青した狂った伝道師が出てくる)あまりにもそのまんまなんで、ひねろうと思ってこうなったのでした。なので人体に左右あるもののそれぞれに対になる刺青、というアイデアは「狩人の夜」が元ネタです。この映画はすごい傑作で、お婆さんのリリアン・ギッシュが鉄砲ぶっぱなします。
吉川宏志のことが嫌いな人は(とくに「ネット短歌」周辺には)多いと思うのだが、ここがこうであるから嫌いだということを見事に説得的に言い当ててみせている文章とか発言には、私はまだ出会ったことがないようだ。
というか、そもそも「嫌い」とはっきり述べている人にも会ったことがない気がするのだけど、それはたぶん私が人にあまりにも会わないヒキコモリだからで、みなネットや活字というパブリックな場では品よく言葉を選んでふるまいつつ、実際に会って少々羽目を外す段にいたると、思う存分吉川宏志の悪口を言い合っているのだろう。

もちろん、これはたんなる想像に過ぎない。

さらにいえば、私は吉川氏の歌集や評論集を読んだことがないし、氏の発言などもおもにweb上か店頭での雑誌の立ち読みで目にしているのみであり、私の中の吉川宏志のイメージそのものが大部分想像の産物である可能性さえある。
本当は吉川氏は、歌壇の本流から外れたところにある先鋭的あるいは現代的と一部で看做されている短歌の傾向に対し、ほとんど悪代官的とでもいえそうな、戯画的なまでに底意地の悪い態度を表現する何とも厭らしい人物、などではまるでないのかもしれない。だとすればこれから書くことは空回りした空想によるまったくの的外れということになってしまうのだが、私の中にいる吉川宏志像に忠実に話を続けるとすれば、あの意地の悪さはあきらかに苛立ちの表現であり、その苛立ちがどこからくるのかといえば、けっして吉川氏が単に権威を笠に着た石頭の守旧派であることからなどでないのはいうまでもない。

吉川氏が苛立たねばならないのは、先鋭的な歌人達に対し氏が少なからずシンパシーを覚えているからであろう。だからこそその若者らしい楽天性と無防備さに対し不本意にも苛立たねばならないのだ。おそらく氏は彼らにこう言いたいのである。「わかるよ。君たちは明日が今日と何も変わらず、昨日とさえ瓜二つであるような非文学的な環境に我慢がならないのだ」私の中の吉川氏はここで指先にあった煙草にまるで今気づいたかのように火をつけ、ため息とともに薄いけむりを吐く。「だがね、そもそもの間違いがひとつある。信じられないかもしれないがこれは事実だ。短歌はけして文学などではないのだ……」

つまりここで氏が言いたいのはこういうことである。

短歌というのは、いわば大喜利のようなものである。五七五七七という“お題”を与えられ、その無条件の制限の中で何かうまいことを言ってみせた者が賞賛され尊敬される、そのようなルールに支配された開かれた遊戯の場であるに過ぎない。
このことは誰よりもすぐれた回答を数多く返し、座布団と引き換えてきたこのルールにおける天才である吉川氏のいる高みからは、一目瞭然の事実なのであるが、いまだ座布団を積み上げるに至っていない者たちには、この吉川氏には見えている世界の全体が見渡せない。そのために、単なる大喜利を文学と取り違えるような馬鹿げた錯誤が世にはびこっているのだ。

しかしそれも無理のない話ではある。吉川氏にしてさえ、かつてまだ座布団で塔を築きあげる以前の視界の開けなかった時分には、同じような夢にうかされたことがないとは言いきれない。たったひとつのお題に対する律儀な回答のくりかえしなどという閉塞した回路に身を縛られることなく、現在とか現実とかいったこの回路の外にあるとされる不定形の環境に直接手を触れにいき、それなりに危険な目に遭いながら言葉をつらねてこそ短歌は初めて文学たりうるのではないのか?

仮にそのとおりだとしよう。だがそのときわれわれの短歌は、文学であることへの接近と引き換えに大事な座布団を失うことになる。それは単に大喜利という場における勝者となるのを諦めることを意味するだけではない。そうではないことが身にしみてわかるのは、吉川氏がこの場の勝者であり、誰よりも座布団を積み上げた少数者だからなのである。
つまりその特権的な視界に顕わとなっているのは、この大喜利の地平がきっちり短歌の領土と重なり合っている光景であり、その外へ脱け出すこと、つまり文学とやらに欲を出すことはそのまま短歌であることの放棄、つまりこの平和な大喜利の舞台に居場所を失うとともに結局のところ文学にもなり損ねる、二重の悲惨をしか意味しないという、うっかり繊細な若者の耳に入れれば絶望のあまり首をくくりかねない真相を証し立てる光景である。

したがって吉川氏は、けしてありのままに真実をうっかり口にすることができない。若者たちの無責任な血気をあいまいにやり過ごしながら、自ら信じてもいない文学的な概念を弄びのらりくらりと時間稼ぎをしているように見えるのはそのためである。その態度にいくばくかの苛立ちをつねににじませることこそが、何も知らない若者の脳天気なふるまいを受け止めるにあたって氏の立場から示せる、精一杯の誠実さというべきだろう。
くりかえすがそれはけしてくだらない保身のためや、あるいは単純な蔑みから吉川氏に選ばれた不誠実な態度などではない。もしそうであれば、氏はすでに多くの座布団を持てる者の余裕を誇りこそすれ、少なくとも当分のあいだは床でじかに尻を冷やしていそうに見えるこの大喜利における劣等生であろう若者らを相手に、何ら苛立ちを見せる必要などないのである。

ここに私がなぞってきた吉川宏志的な諦観の輪郭は、あくまで私が雑誌上の吉川氏の発言の記憶をもとに想像をめぐらせたものであり、私の知る限り氏の短歌作品にうかがえる人物像には悪代官的な面影などまるで見あたらず、もしも作品にこそ真に作者のなんら演技の混じらない素顔が映し出されるものだとすれば、そして私の接してきたあまり多いとは言えない吉川氏の作品が氏の作品中で例外に属するものばかり(実際には悪代官的な歌風が大半を占める)ということでもないとすれば、この諦観を導き出した想像の前提そのものが崩れてしまう事になるだろう。
したがってこれは、いまだ私の知り得ない吉川宏志という名のある歌人をめぐる、心もとない探索の道の第一歩として記された手さぐりの記事であることをあらためて断っておかねばなるまい。これを目にした、もしもいまだ私と同じように吉川氏を知りえない読者にあっては、間違ってもここまでに書かれた内容を真実の記事として鵜呑みにせぬことを求めたい。このまぎらわしくも乱れた衣類のような推測の奥にぬくもる生身の吉川宏志の、その未知の素肌にいつか私とともにじかに接する日をもつことを願うばかりである。


参考リンク
吉川宏志の画数 運勢
私はたいてい自分を見失っている。自分が何を為すべきなのかさっぱり分からずにいる。今まで何を為したのかもぼんやりしてよくおぼえてない。
ごくまれに自分自身にピントが合うときがあって、短歌や小説を書くスイッチが入るのもそういう時に限られる。
短歌のいいところはたとえ自分を見失っている状態でも、定型という定位置のようなものがあってそこへいけば何か自分の脳味噌の覚醒ぐあいやエネルギーが底上げされる気がするところだ。
底上げされた位置エネルギーみたいのを使って踏み出してしまえば、そこからだんだん自分自身も調子出していく、みたいなことが短歌はできると思う。
そのかわりいったん覚醒状態に入って止まらない勢いがついても、その勢いの生み出す成果からはつねに三割くらいもっていかれる感がある。
最初に定型が三割貸してくれるかわりに、出来上がったものからも必ず三割差っぴかれるというシステム。
この三割が私にとってはけっこう致命的なもっていかれ方で、脳から刹那的な汁出してどこまで言えるか、みたいなところに勝負をかけてひと息で距離を稼ごうとする私のやり方にとって、その結果の着地点から三割うしろに引き戻されるという体感はかなり痛い。
私は小説を書くとき「別にこれが小説にならなくてもいいや」という気分で書くことも多いけれど、短歌ではそう思うことができない。
たぶんそこで「これが短歌にならなくてもいいや」と思えるなら、この三割の貸し借りからも少し自由になれるのだと思う。
でも短歌はそういうものじゃないような気がしてて、たぶんできないのだ、それは。しっかり三割借りないと不安なのだ。