喜劇 眼の前旅館 -38ページ目

喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

今週の青磁社の週刊時評(吉川宏志の回)に寺山修司の未発表歌集『月蝕書簡』から歌がいくつか引かれてて、それを読むとあらためて後期の寺山の歌はすごく穂村弘っぽいなあ、と思ってしまいますね(逆だけど)。
http://www3.osk.3web.ne.jp/~seijisya/jihyou/jihyou_080303.html
穂村の歌には寺山からの影響が濃厚だけど、とくに『田園に死す』の方法論から東北土着アングラの意匠を外すと、どう見てもその正統な継承者が穂村弘であることは疑えない。で、時評で引用されてる歌は『田園』以後につくられたものであり、まさにそ「の方法論から東北土着アングラの意匠を外」したようなものだから、ますます穂村弘っぽいのだろう。
しかし何となく調子の悪い穂村弘、という感じに見えるのはさすが穂村弘というべきか。引用されてる歌がよくないのか。やっぱり歌やめて正解だったね寺山さんということなのか。一冊通して読むとまた印象がちがってくるのかもしれず、まあ機会があれば読んでみたいなと思います。
赤くない金魚をきみに。自転車のかごでぼくらはドッジボールを
短歌を読むには、普通の散文を読むよりも目盛りの細かい物差しが必要になる。一般にわれわれが散文を読む物差しをあててしまうと、短歌が読ませたい部分に目盛りが揃わず、意識が素通りしてしまうからだ。
散文の中にも読者に要求する目盛りの細かさはさまざまなものがある。それが小説なら、われわれは一作家ごとに経験的に学んで物差しを用意するようになる。とくに純文学は読者側に物差しを用意させる負担が大きい。エンターテインメント文学は作家性の優先順位が低くなるため、読者はジャンルを見ただけである程度ものさしの見当がつけられる。そのことがジャンル小説のポピュラリティを保証している。
最新の芥川賞受賞作家の小説を私は読んでいないが、エッセイなどに見るかぎり読者にかなり細かい目盛りの用意を要求する文章である。テレビも新聞も見ない私は世間のこの作家の受容を殆ど知らないが、あの文章に起きていることを捕捉する物差しが、すぐに用意できる読み手は相当に少ないはずだと思う。
ただし小説には物語があり、物差しを使わずとも物語に直接アクセスする手段もないではない。実際それで読んだことにならなくとも、読んだという満足をある程度与えることができる。その点は短歌とは大きく違うのだが、あの文章を読むスキルにはある種の短歌を読むスキルと共通するものがある気はする。
短歌を読む物差しはただ目盛りが細かいだけでなく、57577という区切りごとに目盛りが赤く染められ、区切りに注意を促すものでなければいけない。この特殊な物差しを所持する者は現在では、ほぼ短歌の実作者にかぎられているというのが定説である。
今短歌にこの物差しの呪縛を逃れる可能性があるとすれば、話し言葉の持つリズムやニュアンスのさらに繊細で多様な導入、ということが考えられるだろう。つまり話し言葉表現には書き言葉の散文とは別種の細かさがあり、それは散文の場合よりも広く共有され、その細かさに敏感な読み手はつねに一定数はいる。その細かさを短歌の中に折り畳むことで、話し言葉のリズムとニュアンスへの応接が読み手にとって短歌定型へのバイパスとなる可能性である。
しかしこのような大雑把な提案に実効性はほとんどない。こういうことは実際にやってみせる以外にないのだが、私に向いている役目とは思えない。
実際成果をあげている作者も少なからずいる気がするが、確信をもって名を挙げられるほど(歌集を買う金がないため)読んでいないので、その点については留保する。
胸ポケットから垂れてる手 全力でそうなるだろうたとえば無職に
尻たたき用ひまわりのもう枯れてしまった花壇ぽこぽこ歩け
鳩がすべて黙ってしまう瞬間でできている通路を奴が来た
欠席者一同(笑)窓の中あおぞら深く突くアド・バルーン
さかのぼるつもりはなくて数式の途中から迷いこむ山火事



某ブックオフで某貴重な歌集を見つけたけど、二日後が五百円均一だったので、迷ったすえ帰って二日後にまた来たら買い逃した我妻です、こんにちは。
パソコンがいつ壊れてもいいように在庫を移しておくことをたまに気が向いたら続けます。
こうしてとくに連作タイトル(日記タイトルではない)をつけてないものはすべて連作ではないと考えられます。
連作にしてなく、歌会とかにも出してない歌はどこで完成かという線引きがむずかしいですが、人前に出すのは本格的に無理という歌はパソコンが壊れたらそのまま無に返そうと思います。