透明さの断念 | 喜劇 眼の前旅館

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短歌のブログ

批評の言葉が透明さを目指すのはそもそも間違いなのだと思う。批評は作品に対して根っからの異物であるはずだろう。
当然のこととして、批評どうしがある具体的な作品について合意を取り付けることもありえない話になる。批評が互いにその噛みあわなさを確かめる場所たりうることが作品の条件であり、作品をそのような場所として目覚めさせられることが批評の条件なのである。

そのとき演じられる対立はあくまで非対称なものである。作品を挟んできれいに対称をなす対立など、批評どうしが取り付ける合意と同じように本来ありえないものだ。そして具体的な作品をあいだに挟むことなしには非対称な対立すら不可能なはずである。
そのありえないはずのことが実現しているとき、批評は自らを異物として自覚するための作品を欠いているのである。交わされる言葉は互いにその透明さを信じる者たちによって発せられ、その実それぞれが自らの顔の映った表面を向こう側の景色と信じ込んでいるのだ。
もとより不透明さによって語り、不透明さとして言葉を交わす気であればそのようなことが起こるはずもないのだ。

透明さを断念することに失敗した言葉がいずれ“キーワード”化するのである。
“キーワード”はそれを誰が使用しても同じドアを開くことができる、という幻想とともにある。そのドアからどんな作品にも(本当に作品であれば)侵入できないことだけは確かであるが、批評になり損ねた言葉は容易に作品以外のものへの侵入を喜びもするし、それを作品だと思い込むそぶりさえ見せるだろう。
そのとき発動している厚顔な善意に対し、作品も批評もひたすら無力なままである。