誰もが知るように、小説というのは日本語で書かれていても本当は日本語ではないものだ。Aという作家の書いた小説は日本語Aローカルな言葉で書かれている。だから日本語が読めるだけでは読めない。
エンタメはこうした作家ごとの訛りを最小限に抑える方向で書かれる。つまり作家ごとの訛りに慣れるというハードルが下げられ、あるいは作家の訛りそのものを読むという要素が縮小され、標準語に近い言葉で書かれる。ただしジャンルや読み手のサークルで共有される訛りというものがあり、ミステリ訛りや幻想文学訛りやラノベ訛りなど。その共有された訛りをいったん受け入れるとジャンルやサークル内の作家がまとめて読めるようになる。このように外部と壁で隔てられつつ内部に膨らむような単位はマニア的な心性と相性がよく、だからマニアはジャンル小説に多く集まるのだといえる。
しかし純文学にも純文学訛りというのが当然存在する。純文学というのはジャンル小説に対する「その他全部」のことのはずだが、実際にはそうはなっていないことによってかろうじて商品化もでき、ジャンル訛りがあることによってかろうじて読まれているというべきだろう。純文学がもっと全然誰にも読まれず、すっかり忘れ去られる時がきてはじめて「その他全部」として作家ごとの互いにまるで通じない訛りが肯定される場になるかもしれない。場はその時はもうないかもしれないが、純文学という「ジャンル」が下手に生きていることが現状では障害になっている部分もあると思う。純文学(訛り)さえ持たない小説は存在しない(=小説ではない)ことにされてしまうということだ。