秀歌と連作 | 喜劇 眼の前旅館

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短歌のブログ

秀歌、という言葉の意味を(ほかの人たちが使うような意味で)ちゃんと理解しているという自信はまるでないのですが。
もう何年も読み返していない『短歌という爆弾』(穂村弘著)は、私にとっては何をおいても「秀歌っていうのは誰にでもつくろうと思えばつくれるんですよ」というメッセージの書かれた本として記憶に刻まれているのですね。
私はそのメッセージを受け入れることで短歌と関われる身体をつくった、という経緯があるので、たとえほかの人がこの本を読んだ感想にそのことが全然書いてなくても、私にとってそういう本であったことはまったく揺るぎません。

だから秀歌をつくること、に短歌をつくることの価値のトップを持ってくるならば、誰でもコツさえつかめばつくれるものに最上の価値があるジャンル、ということに短歌がなってしまう。しかしそれ以外のものに価値を見出すにも、本当に価値のトップをそっちに移せるかどうかの自信はない。というのが私が短歌に対してとまどい続けている理由の大きなひとつなのだと思います。
『短歌という爆弾』にも、「秀歌は誰にでも作れる」という身も蓋もないことを明かしておきながら無責任にも短歌(秀歌)の価値を信じ続けてみせるようなところがあり、その矛盾した態度が諦観に裏打ちされているというよりは、単に誤魔化しなのではないかと私には思え、あるいは賢明さのようなものとして映ってしまったわけです。この著者は矛盾に当然気づきつつ気づかない振りをしているのだと。

たぶん秀歌をめぐるこの袋小路を脱する鍵は、連作論だと思うんですよね。
それは秀歌のようには連作は、すぐれた連作にするための絶対的なマニュアルが示せないと思うからです。だから秀歌を求める人々が同じひとつの袋小路に大挙押しかけるようには、連作にいどむ人々は自然とは一箇所に集まることはなく、それぞれてんでバラバラの方向に迷うことになるだろう、と期待できるわけです。
穂村氏が歌葉新人賞の選考委員として、いわゆる秀歌性の基準からは外れたところで斉藤斎藤氏や宇都宮敦氏の作品を評価してきたことも、半ば無意識にかもしれないけど(というのは、そう明言されていた記憶がないからだけど)彼らの作品の連作性にあたらしい価値を見出した結果ではないかと思えるところが私にはあります。

秀歌をどうバランスよく並べるかというのではなく、また、物語を短歌のかたちに切り分けて語るのでもない連作のあり方があって、そのとき個々の歌を連作に束ねる何かが磁場のようにその場所に働いていて、歌を読むときに同時にその何かも読むということ。
(それは明らかにそこにあって働いているのに、正確には誰にもこれだと指し示せないものでなければならない。もちろん何かがありそうなだけの単なる思わせぶりでもいけない。)
秀歌の袋小路の外で連作を読むとはそういうことだと思うのです。

一首の秀歌性を追求し、確実に誰もが一定の成果を努力すれば手にすることができる短歌の「稽古事」としての側面となじまないこの方向は、極言すれば連作単体ですらなく(歌集単体でもない)その背後に横たわる作家性に最大の価値を置くものだと思います。
もちろん歌人論なんて昔から普通にあるだろうけど、一首評と歌人論のあいだにあるべき連作論が抜かされてたのではないか。そこを抜かすことで秀歌性と作家性という矛盾するはずの価値が曖昧に並存させられてたんじゃないか、というのが私が頭の中だけで思いついた仮説です。
連作論って厄介だと思うけど、そこを面倒がらずにきちんとやらないと、短歌における作家性とは何かが語れないと思う。
もし全体がこっち(連作論)に進めば短歌人口は確実に減ると思うけど、稽古事じゃなく文学としてやるなら、こっちしか道はない気がしますね。

つづく(かどうかは分からない)。