『七月の心臓』批評会で出た論点のひとつは口語短歌における読みのブレについてでした。
一般に口語短歌は文語よりも、読みの道筋を限定し読者をひとつの読みの方向に誘導する機能が弱いというか、誘導しようとしてもポロポロ取りこぼすような形式的なゆるさがあるわけですよね。
よく言われる「終止形と連体形の区別がつかない」といったことが口語にはあって、じゃあその区別のつかないところをどう区別するかというと、文脈で判断することになる。つまり形式だけで読みきれない部分は意味を読みにいって補う、ということがあるわけです。
しかし意味を読みにいくと読み手の価値観が入り込みますから、つまり二つに割れる読みのどちらを取るかという時に、どちらの読みのほうが内容的に面白いかとか、この連作の文脈に合ってるかとか、いかにもこの作者が言いそうな内容かだとか、そういったような読者の判断が入り込んだうえで歌の読みが決定するということがある。するとそもそも歌の意味そのものを読む前に、歌の周囲にある情報と、読み手のもつ先入観の間でなんらかの合意が取り付けられていることになるかもしれない。
そういうところに危うさはたしかにあるな、と今は思い始めているのですが、当日はパネリストの川野里子さんの出された「(兵庫ユカの歌は)歌を読む集団を小さく想定しすぎている」という発言にかなり反発を感じていたんですね。
でも口語短歌の形式的な必然である読みのブレを、価値観を共有するサークル内で目と目で通じ合って中途半端に解消する傾向がもし今、口語短歌をとりまく状況にあるとしたら、それはたしかに批判される意義があると感じる。そうした集団はたぶん驚くほど寿命が短いものだし、通じ合っていた目と目がほどけてバラバラになったあとにはやはり作品の形式しか残らないのだとも思います。
ただ、そこで生き残る形式こそが文語だといわれるとそれには乗れないな、と思うのだけど。
そもそも口語にも形式は当然あるわけです。それは文語とはちがう形式なので、文語が保存性と再現性にすぐれた部分を口語に期待することはできない。口語は文語とはまた別なものを保存し再現する形式なのだから、その形式にのっとった正しい使い方をすればいいというだけの話なのでしょう。
私が口語短歌に期待できると思うのは、そこにたしかに人がいること、人がいて喋っているということ、考えているということ、見たり聞いたり、感じているということの気配のようなものの保存と再現です。
喋られたり考えられたり、見聞きされていることの内容ではなく、そういったことがここに存在する誰かによってなされているのだという生々しい気配。
生々しい気配そのものがパッケージされるのが口語短歌にすぐれた機能ではなかろうか。
その気配さえ濃厚にあれば、意味内容としてはブレるどころか、何が書いてあるかわからなくてさえべつに構わないと思うのですよね。
ひきつづき考えます。