最近いくつかサイト見てて急に気づいたことなんですが。
たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔 飯田有子
飯田有子さんの有名な歌。この歌の上句ですが、私ずっと
たすけて枝毛/姉さんたすけて/西川毛布の
という区切りで読んでて、意味的にもそういう区切りだと思ってたんです。
でもそうじゃなかったみたい。少なくとも意味上の区切りは、そうじゃない読み方をしてる人のほうが多い(あるいは全員?)らしい。と気づいて愕然としました。
「たすけて枝毛姉さん」って読んでたのか。
私は「たすけて枝毛」つまりまず枝毛に助けを求めてるのだと思ってて、つぎに「姉さんたすけて」と、枝毛とは別個に姉さんに呼びかけてるのだと思ってた。
で、二度目の呼びかけで「たすけて」の位置が入れ替わってるところが妙味だと思ってたんですね。
私はこういうの、唯一の正解はなくていいんじゃないかと考えるほうなんで、読みが分かれること自体はいいんだけど、自分が自然に何の疑いもなく選んだ側にひとりぼっちになってた、というショックはありますね。
この歌をみなさんが「枝毛姉さん」と略して呼ぶのは以前から知ってて、「へんなところで略すなあ」と思ってたんですよ。
そうだったのか。べつに「へんなとこ」じゃなかったんだ。
いかに私が短歌に意味を読むことを後回しにしてるか、ということの表れのような話だ、と思いました。
ちなみに歌全体の私の読みはこうでした(意味上の区切り)。
たすけて枝毛/姉さんたすけて/西川毛布のタグたすけて/夜中になで回す顔
これだと「夜中になで回す顔」には助けを求めてなくて、逆に「夜中になで回す顔」(という事態)がおっかなくて色んなものに助けを求めてるように読めるわけで、このほうが意味が通じると思うんですよね。
ということはむしろ、意味が通ることにこだわってるのは私なのか。
でも
たすけて枝毛姉さん/たすけて西川毛布のタグ/たすけて夜中になで回す顔
このきれいな三分割、かつ繰り返しながら徐々に長く伸びていく呼びかけ、というリズムはやはり、一度知ってしまうと無視できないものがありますね。
というわけでもはや私、枝毛と姉さんの分割に関しては自信を失っております。