不携帯短歌 | 喜劇 眼の前旅館

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短歌のブログ

なんか自分の感覚(短歌と自分のかかわりに関する)にしっくり来る言い方を思いついた。
私にとって短歌の定型は携帯できないもの、いつも同じ場所、具体的には恐らくパソコンのモニタ上に存在するものであって、私のほうが定型のある場所に出向いて言葉を置きにいく必要があるようです。
つまり私が日常生きている様々な場面に、短歌は居合わせていない。それらの経験はぜんぶ私が持ち帰ってパソコンを立ち上げ、そこで微動だにせずにいた短歌に報告書のように見せてやらねばならない。
どうりで短歌のフレームがナマの現実とぶつかって火花を飛ばす、ようなことが私にはないわけだ。

しかし何とか摩擦を起こしたい、フレームのすました安定感にひと泡吹かせたいという気分もあるわけです。あるにもかかわらず、57577の定型をちょっとでも外れることにはかなりの心理的抵抗が生じる。それはきっと定型が携帯不可能であるせいもあって、つまり雨風にさらされることのない安全で快適な場所での作業だから、定型への強迫観念のようなものも無事に守られてしまうようです。もともとルールとか決まり事がすごく気になるタイプの人間ですから、そういう人間性にここでは拍車がかかりますね。そういう人間性が外的な刺激で揺さぶられることがないから。

そこでたとえば今回の歌葉の候補者であるフラワーしげるさんのような書き方に対する憧れがあって、これは想像にすぎませんが、フラワーしげるさんの短歌フレームも携帯型ではないような気がするのです。定型をカメラのように持ち歩くというより、カンバスのように固定された状態の定型に、筆や絵の具としての言葉のほうをそのカンバスの枠にとらわれず動かしてる、という書き方ではないかと。
そのような書き方でなら、携帯できないフレームに摩擦を起こすこともできるかもしれない。
という淡い望みが私にはあるけど、きっとそう上手くはいかないだろうという判断も同時にある。

というのも、かなり以前短歌ではないけど短歌を少し意識して(短歌をちゃんとつくりはじめる前だった)書いた詩のようなものがここにあります。
これは短歌じゃないから57577は無視してるけど、音数のかわりに字数を揃えるルールによって書けているというか、そのように書いた記憶があるんですね。
たぶん定型のフレームからの逸脱を意識的にやろうとすると、私は不安になって萎縮したり、あるいは方向感覚を失って同じ道をぐるぐる回ったりするんじゃないかと思う。だから短歌のルールの外に別のルールを設定しないと書けなくなるような予測が立つので、そうなるとそれは短歌ではない(短歌のルールの逸脱ではなく、別ルールの遵守によって書かれてるのは短歌ではないと思う)から、やっぱりこの方向には私は行けないのだろう、と頭の中であきらめに到達したところです。

ちなみに私はケータイの画面で短歌をつくることができません。
以前短歌のMLのメンバーに会ったとき、ケータイで短歌をつくる人が予想以上に多かったというか、予想外の人もケータイでつくってたので驚きました。
でも私はパソコンじゃないとつくれないというより、パソコンには今までつくった短歌のずらっとならんだテキストファイルが入ってるから、そのファイルを開いて自分のつくった短歌を見ないと書けないということかもしれない。見ないと短歌が、とくに自分の短歌がどういうものだったか思い出せないから。本当に思い出せないのです。だからたぶん私の短歌には、短歌観がどうというより私の脳のかかえる問題が丸出しになってるんじゃないかと思う。短歌観だって脳のかかえる問題の一種だと、言えば言えなくはないかもしれないけど。