今朝、あるドラマを観ていて(笑)、思い出したので(笑)、ごそごそと、引っ張り出してきたものがある。

1988年と1989年の共通一次試験と、1990年のセンター試験の受験票だ(何でそんなもんが三年分もあるのかって?(笑))。

実は私は、医者になりたかった。
一浪して受けてもダメだったので、併願した京都の墨染にある師範学校に進んだ(この表記が好きなので以下も同じ書き方にするよ)。

学生生活は楽しかったが、やはり、どうしても医学部に行きたくて、一回生のとき、親に黙って共通一次試験を受けた。昭和63年である。

この頃は共通一次8割でボーダーの国立医科大学もあったし、共通一次重視の大学も多かった(今は、たぶん8割5分はないと厳しい みたい(^_^;))。


しかし、結局、大学生活が楽しすぎたのか、8割を切ったので二次出願はしなかった。

翌年、二回生でも、またまた、共通一次試験を受けた。この年は昭和64年である。ただ、年明けに元号が変わったため、平成元年である。


最後の共通一次なのに、物理・生物が異様に難しく、化学と点差が付きすぎたので、得点調整する異例の事態となったのだが、なんとか8割は超えたので、二次試験が数学と小論文という香川医科大学(現 香川大学医学部)を受けた。

瀬戸大橋線(昭和63年4月10日全面開業)を鉄道で渡った。同じ車両に乗っていたばあちゃんが、おそらくはその配偶者であろうじいちゃんの遺影を手に、橋を渡るとき、海に向けて見せながら乗っていたことを今でも覚えている。見せたかったんだろうな。あるいは、一緒に乗りたかったんだろうな。と、思いながら、四国に渡った。私は中国地方ゆかりの者なので、一衣帯水の四国は馴染みも深かった。


しかし、試験は数学はそれなりにできたものの、小論文の題材である「雨月物語」が、さっぱり意味不明で、わけのわからない小論文を書いてしまい、落ちた(今、問題を見ても、なんだかよくわからない問題なんだが)。

いずれにせよ、入試問題は「この問題が解ける人だけ来てください」という問題を出しているのだから、解けなきゃ落ちる。それだけのことではある(T-T)。

当時、確か、不合格の電報文は「ザンネンヨシツネユミナガス」だったように思うが(那須与一の故事によるものと思われる)、その頃既にレタックスで合否連絡がなされていたようで、その電文を受け取る機会は無かった。レタックスに私の番号はなかった。

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実は三回生でも、しぶとく受けた。この年からは、現在の大学入試センター試験になった。センター試験で8割5分はとれる自信はあった。ターゲットは、鳥取大学、島根医科大学(現 島根大学医学部)に決め、勝負をかけた。

これらの大学は、センター試験の配点が高いのと、個別試験(二次試験)の科目が少ないため、同じような時期に行われる師範学校の学内試験(単位も取ろうとした)の二正面作戦が取りやすいという面があった。英数生化と学内試験の両立は無理と考えた。


ドラマと同じ色ですね(笑)。


ホンモノの受験案内は、ちょっと地味なので、


ドラマでは、大きく立派に「受験案内」って書いてるけど、本物は地味(笑)。

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私は、大学の選り好みはしなかった(選り好みできる成績でもなかった)。医学部に受からないことには医者になれない以上、選り好みするつもりはなかった。難易度もさることながら、試験科目の多い大学を狙うことは時間的に困難だった。

医者になりたいのか。
◯◯大学出身の医者になりたいのか。

もちろん、学閥を考えれば、将来どこで働きたいかなどを考えれば、後者もかなり大事なのだが、医学部を出なければ、そもそも医者になれないのだ。私には選択の余地はないと考えた。与えられた地で働けばよい。そう考えて、香川や島根を、私は目指した。

とはいうものの、私の父方の祖父が備後、祖母が備前、母方の祖母が石見、祖父が伊予の出身であることを考えると、これらの大学を目指したバックボーンは、祖父母たちゆかりの地を選んだと言えなくもない。

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なお、この一連の私の「謀叛」だが。実は、両親は、私のこの企みを知らなかった。

というか、薄々は知っていたんじゃないかな?とは思うんだけど、表面的には気づかなかったことになっているようだ(^_^;)。、

実際、私も師範学校での生活を楽しんでいた。当時の友人は、やはり、今も友人だ。かけがえのない四年だったと思う。

それでも、私はしつこく、センター試験に出願し、受験した。

なぜ、自宅生でありながら、共通一次を二回、センター試験を一回、両親にバレずに(?)受験できたかというと、師範学校の同期生の家に下宿していることにして(受験票は、同期生の家に届く)出願したからだ。

※私の息子がこんなことやったら、笑うしかないな(^_^;)。織田信長公の台詞を真似するならば「是非もなし」というしかないな(^_^;)。

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いずれにせよ、このとき、島根医科大学には受かると考えていた。センター試験の準備も順調だったし、単科医科大学特有の癖のある過去問にも慣れた。

甘くみていたわけではなく、ひたすら島根医科大学に受かるために、センターで稼ぎ、島根頻出の問題を研究し尽くした自負があったからだ。

予備校時代の同期が島根医科大学にいたので、三年遅れるのは、ちょっと悔しいけど(^_^;)、今度こそ入れると、自信があった。気力も充実していた。

ちょうど朝ドラと、ほぼ同じ時期である1989年10月、私は、また、同期生の家に下宿していることにして、センター試験に出願し「黄色い受験票」を手に入れた。

私は、総攻撃体制をとった。これがおそらく、年齢的にも体力的にも、経済的にも、最後の一戦になると思っていた。これで、けりをつけるのだ。

俺は医者になる。

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しかし、この受験票に写真を貼る日は、永遠に来なかった。


センター試験出願から二ヶ月後。
1989年12月。
ちょうど、朝ドラの今の時期と重なるのだが。

私の父が急逝した。

朝起きたら死んでいた。52歳。勤めていた会社は、父に対して、実質的に過労死に対するに近い処遇をした。株式上場を目前の会社の経理部長がいかにハードな状況におかれていたか(おいていたか)会社も配慮してくれたようだ。

私の闘いは、ここに終わった。一家を率いる身になった私が、今更、大学受験生などやっているわけにはいかない。

かくして、私は、最後の共通一次を受験し、なおも抗戦したものの、最初のセンター試験を受ける直前で、医大受験生を引退した。

その後、私は、師範学校での専攻を活かして農学の世界に身を投じることとなる(これも色々あって大変だったんだけど、まあ、それはそれとして(笑))。

以上、朝ドラで、黄色い受験票を久しぶりに眺めて、ふと懐かしく思っちゃいました(^。^)。

ところで、私は医者になれなかったわけだけど、今でも後悔してるかって言われると…患者を一度、ぎっちりと経験したせいか…(以下省略)。

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ところで少年よ。
一般論としては、君は極めて正しい洞察力の持ち主だと思うぞ(笑)。








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追伸
受験生諸君!
受験票を忘れたら、とにかく、受験会場に行け!きっと(たぶん)、ちゃんと受けさせてくれるから!

私の記憶では、センター試験では、受験票忘れたら、ポラロイド写真(今はどうか知らんが)撮られて、臨時の受験票を出して、受験させてくれたはずだ。

ほかの入試でも、受験票忘れても、まずは受験会場に行け!

(たぶん)なんとかなるはずだ。

ごめんやけど、それで駄目やったら諦めてくれ。間違っても、受験票ないから会場に行かないってのだけはやめてくれ!