間誰しも疲れることはある。

それも肉体的なものではなく、精神的なものだ。

涙も出ない、悲しくもない、なんにもしたくない──そんな状況。

上司に怒られた、お母さんに怒られた、勉強頑張ったのにギリギリ平均点だった、5時間かけて作ったExcelワークシートが消し飛んだ、寿司を落とした、大掃除をしていたらあの日渡せなかったラブレターが出てきた。人によってなにによってどのように、どれくらい疲れるか差異はあるものの、ちょっともうダメだ、という日は年に数回ある。

こういうときこそ推しに励まされたいものだ。

 

こんなときに私が実践しているのは、推しの名前を書くことだ。

スマホじゃない、手書きだ。

そのへんの紙に、ペンで、一角一角を味わうように書くのである。

できれば正式名称で書く。漢字のところは漢字で、平仮名のところは平仮名で書く。

なるべく調べない。というか、推しの名前なら調べないでもちゃんと書けてしかるべきなのだが。

 

推しがグループで、複数名いる場合もちゃんと全員書こう。

ギニュー特戦隊を推しているなら5人分書くべきだし、女子十二楽坊を推しているなら12人(ないしは13人)の名前をフルで書くべきである。

名前を書きながら、想いを馳せる。

今頃どこでどうしているのだろう。

ご両親はどういう気持ちでこの名前をつけたのだろう、なぜこの字面を選んだのだろう。

この子とこの子の名前の構成って実は似ていて、ああだから普段から気が合って仲が良かったりするのかな、なんて発見があったり、この漢字を書いてこの音で読ませるんだなんか今時の子どもってかんじがするな、ああ、この子の名前のこの漢字の、このハネと払いのバランスが好きだな、この子の名前の漢字は女の子がスカートを膨らませてるみたいでこの子の雰囲気にピッタリだななんて素敵な名前なのだろうありがとうお父様お母様おじいちゃまおばあちゃまご先祖の皆々様ありがとうこの子をこの世界に産んでくれて愛してくれて私の目に留まらせてくれて本当に本当に、ありがとう。

感情がどんどん大きくなる。

名前は何度でも書こう。自分の字が気に入るまで。そして感情が──波が打ち寄せた後のように、次第に感情が引いていくまで。

「無」へと気持ちが凪いでいく感覚。

 

これはもはや「写経」だ。

 

するとどうだ。疲労によって焦っていた気持ち、棘のあった心、指先から浮腫んでいくような居心地の悪さが、すっきり片付いているではないか。

こうなれば「推し写経」は無事終了というわけだ。

 

ふと名前を書いた紙を見返すと、冷静に気持ちが悪いことにあなたは気が付くだろう。

どこの誰とも知らん人に自分の名前が延々と書かれていたらどう思う?

そこまで冷静になれたあなたはもはや敵なしで、疲れはどこかへ吹き飛んでいる。

呪いみたいな「推し写経」の紙はそっと折りたたんで、誰の目にも入らないように、細心の注意を払って捨てる。このとき、名前をおらないように気を配って。