御免なさいとスミマセン | goldenblue

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「古代の叡智の幼稚園」
エデュケーションとセッションが一体化した新しいスタイル、エデュ・セッションで、魂が導く本来の自分の力を取り戻していくセラピーをしています。

中学生の頃だったと思いますが、塾の先生に謝った時に、スミマセンと言って叱られたことがありました。


スミマセンは、謝っていない、と。


当時は謝罪の気持ちの表現に、スミマセンは含まれると思っていたので、驚きました。


たしかに“済みません”だと済んでいない、と言っているので、終わっていないですね。


“御免なさい”は、命令調ですね。


天や神が「免じなさい」と言うレベルに委託してしまう言葉なのでしょう。


謝罪の出来事自体から、次元を上げてしまうのでしょう。


この世には、“御免なさい”より先は存在しないのでしょう。

現世的には、御免なさいで赦されない事象をたくさん認識されていますが、神の目からみたら、御免なさいで赦されない事象は存在しないのでしょうね。


被害を被った側には納得いかない説明でしょうが、その難関を乗り越えるとレベルアップするのは、被害側でしょうね。

神レベルに。

(ここで言う神は、六道輪廻のわたしたちが循環している領域での神でしょう。進化、成長、學のある範囲。六道輪廻が広く人間の世界と感じます。)


YouTubeを見ていて、究極の御免なさいは、

アチマリカムだと思いました。

謝罪するような不慮の事象の根源には、わたしたちのルーツがあります。

その根っこは、洋の東西を問わず神話に現れています。

例のひとつですが、ソフィアの話を思い出しました。


神話の描写が悠久の昔だろうが、「今わたしの問題」です。


その位置しか、“わたし”を救うことは出来ないと思っています。