6月16日(日)

岐阜県加茂郡坂祝(さかほぎ)町へやってきました。戦国武将河尻秀隆ゆかりの場所を訪ねてみようと思います。

 

【レトロチックなJR高山本線坂祝駅】

河尻秀隆は尾張国岩崎村(現在の日進市)生まれ、信長の父親信秀の代からの家臣でした。「秀」の一字は主君から頂いたのでしょう。

 

 

【これから登る猿啄城を仰ぎ見る】

信秀の死後もそのまま7歳下の信長に仕え黒母衣衆(親衛隊)の筆頭を務めます。

 

 

【山頂にはお城のようなものが】

永禄3年桶狭間の戦いにも参戦したというから信長の家来では最古参の一人ですね。

 

 

【登山者でにぎわう無料駐車場】

永禄8年(1565)織田信長は東美濃を攻略するため、丹羽長秀と河尻秀隆をここ坂祝へ派遣しました。

 

 

【駐車場の端っこにある案内板】

丹羽長秀は稜線でつながった後方の山を押さえ、河尻秀隆は南側の急斜面を駆けあがり激戦の上猿啄城を落とします。

 

 

【下から見えた山頂の建造物は展望台でした】

秀隆は一連の戦功により、信長から猿啄城とその周辺の13ケ村を領地として与えられます。

 

 

【標高275mの山頂から東側を望む】

ここは飛騨や東農から尾張・美濃を結ぶ重要な地点。今後、この先にある明智や岩村をめぐり武田と激しい攻防を繰り返すことになります。

 

 

【南側を望む】

この時間は曇っていたのでアレですが、天気が良ければ小牧城や名古屋ドームやテレビ塔、さらにその先の伊勢湾まで見えるそうです。

 

 

【勝山の交差点】

信長は幸先よしと、この山城を「勝山城」と改名しました。麓には今でもその地名が残っています。

 

 

【秀隆の菩提寺、長蔵寺に移動してきました】

長島一向一揆攻めを行っている信長は陣中から秀隆宛てに「体は長島にあっても心は其方だけを思っている」という書状を送っているぐらい君臣愛に満ちた間柄だったようです。

 

 

天正2年、長篠の戦いでは元服したばかりの信長の嫡男信忠の補佐役を務めました。この事からも秀隆に対する信任の厚さが分かります。その後、秀隆が岩村城へ移ると猿啄城は廃城となりました。

 

 

【境内のそこかしこにある揚羽蝶の紋】

信長は秀隆に織田家の家紋でもある「揚羽蝶」を使うことを許したのだろうと思います。 

 

 

【枯山水チックな庭】

天正10年2月、甲州征伐に従軍し武田勝頼を討ち果たした秀隆は甲斐22万石を与えられますが・・・

 

 

【長蔵寺にある秀隆公の肖像画】(画像は借用しました)

その4か月後の6月2日、信長が本能寺で明智光秀に討たれると6月18日、徳川家康が取り込んだ武田遺臣に襲撃され殺害されたのです。享年55。

 

 

【河尻秀隆およびその子息と家臣の墓】

息子の秀長は関ケ原で西軍に従軍し戦死しますが、秀長の弟鎮行は江戸幕府に召し出され旗本として存続したそうです。

 

 

今回、坂祝町を訪れてるにあたり、こんな武将がいたことをはじめて知りました。このブログも自分の確認・復習のために書いています。

 

つづく・・・