前回のつづき

 

4月27日(土)名古屋城から岐阜県海津市に移動してきました。お城みたいな建物は海津市歴史民俗資料館!3階のワンフロアに高須藩の資料が展示されています。

 

 

高須藩とは尾張松平家の支藩で現在の岐阜県海津市。3万石ながら御三家の尾張徳川家に後継ぎが出来なかった場合に跡を継ぐ資格があり、また実際に優秀な人物を多く輩出した家柄です。(館内撮影可カメラ

 

 

この4人兄弟はいずれも高須藩主松平氏の息子たちです。仲良く並び記念写真に収まっているように見えますが、実は戊辰戦争で敵味方に分かれて戦ったというのです。兄弟の間にいったい何があったのでしょうか?

 

 

次男の慶勝(よしかつ:写真右端)は尾張徳川家から擁立されてその藩主となりました。戊辰戦争が起きると幕府を支える御三家でありながら、尊王思考の初代義直が260年前に言い残した藩訓に従い朝廷側(新政府軍)に加わります。

 

 

五男の茂栄(もちはる:写真右から2番目)は徳川慶喜が15代将軍に就任するとそれに代わって一橋家当主となります。慶喜が大政奉還で政権を朝廷に返すと、朝廷は慶喜に官位と領地を返納しろと、その通告役となったのが尾張藩主となっていた兄の慶勝で、それを伝えた相手が一橋家に入っていた弟の茂栄でしたがそれを断ったため戊辰戦争が勃発します。

 

 

六男の松平容保(かたやす:写真右から3番目)は将軍家への忠誠を第一とする会津藩の養子となります。その頃京都は尊王攘夷派による暗殺事件が多発、幕府は容保に京都守護職を命じます。その配下には新鮮グミ🍓・・・じゃなくて新撰組もありました。

 

 

そして八男の定敬(さだあき:写真左端)も桑名藩の婿養子に入って藩主となり、京都所司代に就任。会津藩主の兄とともに京都の治安維持活動を行います。

 

 

【高須城址(遺構はなし)現在は海津明誠高校】

しかしそれは尊王攘夷派、のちの官軍(新政府)の恨みを買うことになります。

 

 

【赤い主水橋&お堀】

官軍の兄慶勝はどのような思いで朝敵となった弟の容保と定敬を討つよう命じたのか?私なんぞには想像もつかない程の苦悩と葛藤があったことでしょう。

 

 

【次に向かったのは高須藩松平家の菩提寺「行基寺」】

慶応4年(1868)会津藩が降伏し容保は東京へ護送され、五稜郭で抵抗し続けた定敬も明治2年(1869)降伏し戊辰戦争は終結。

 

 

【本堂祭壇と三葉葵】(撮影は全面的に可)

御三家の筆頭尾張徳川家の加入は官軍としても非常に助かり、慶勝の官軍内での発言力も大きかったのでしょう。

 

 

【行基寺から見る高須藩の領地と濃尾平野】

そんな兄の慶勝と茂栄の助命嘆願もあり弟の容保と定敬は赦免されました。

 

 

【苔庭と崖から滴り落ちる小さな滝】

それぞれ自分の置かれた立場に従い、敵と味方に分かれて戦った兄弟たちでしたが、これでもう殺し合うこともなくなりました。

 

 

【ブラタモリグラサンでも紹介された地層】

 

 

戊辰戦争終結から9年後、明治11年(1878)父親の十七回忌に兄弟が集まり食事を共にし写真を撮り別れましたが、その後兄弟が会う事はなかったといいます。この時、右から慶勝55歳、茂栄48歳、容保43歳、定敬32歳。プラス変なおっさん63歳ゲラゲラ

 

 

数奇な運命に翻弄された兄弟たちの胸に去来したものは?