前回のつづき

 

1月7日(日)

おはようございます、昨夜はよく寝れました。軽バンの半分は棚(衣類・寝具・登山道具など)、半分はリラックススペース。「道の駅もっくる新城」は長篠城址や設楽原古戦場へは車で10分以内の好立地。営業は8時から、モーニングもあるでよ😋

 

 

さて旅の順の都合で話は前後します。勝頼が設楽原の戦いで敗れるに至った経緯をおさらいしましょう(自分の頭の中を整理するため)

 

 

朝一で長篠城址史跡保存館に乗り込みました、基本撮影可カメラ信玄急死のあと、信長は東の憂いがなくなり西の敵に集中することが出来たため、将軍を追放、浅井朝倉・長島一向一揆を滅ぼしていました。

 

 

信玄公のあとを継いだ勝頼は三河、とりわけ長篠城を奪還しようと反撃を開始!しかし信長包囲網は崩れ残るは石山本願寺と武田のみ。信長はすでにに天下人の地位を築いていました。

 

 

長篠城は東西と南側を20mの崖、その下を流れる川に囲まれた天然の要害。武田方だった山家三方衆のひとり奥平氏は信玄の死後徳川に従属しこの長篠城を与えられ守っていました。

 

 

北側はこの堀と土塁!武田軍は1万5千の兵で取り囲み菅沼定忠も武田軍としてこれに参加しています。奥平は500の兵で善戦しますが食料も尽き落城寸前、もはやこれまで・・・と思った時にあの男が登場!

 

 

長篠城南端からみた磔の場所。鳥居強右衛門が断崖を降り川を潜り決死の脱出、徳川と織田に援軍の確約をとりつけ長篠城で待っている仲間に知らせようとしますが武田軍に見つかってしまいます。

 

 

援軍は来ないから投降するよう仲間に伝えろ、と脅された強右衛門・・・承諾するふりをして「二日もすれば援軍が来るからそれまで頑張れ~」と叫んだため磔にされ槍で突かれて絶命!

 

 

反対側の磔の場所からみた長篠城の南端。「援軍来る」の知らせに俄然元気を取り戻した長篠城は結局落ちず、武田軍鳶ヶ巣山の陣地も徳川方の酒井忠次から奇襲を受け、退路をふさがれた武田軍は押し出されるようにして設楽原へ移動。

 

 

長篠城のすぐ北にある大通寺(水杯の井戸:盃井)。そもそもこの戦は長篠城奪還が目的でしたから、重臣たち:「信長が出てくるなんて聞いてないしぃ~、勝ち目ないしぃ~、撤退しかないっしょ」(超訳)しかし勝頼は決戦をチョイス!重臣たち:「え~、マジでぇ?やつら鉄砲たくさん持ってるぜヤバいよヤバいよ~」(超訳)

 

 

設楽原が死に場所と悟った馬場信房、山県昌景など四人の武将はここで別れの水杯を交わしました。菅沼定忠はこの時山県昌景の下で戦いましたが、教科書に出てきたように馬防柵と鉄砲三段打ち(諸説あり)でケチョンケチョンにやられ、前回の田峯城への逃避行となったのです(画像は長篠城址史跡保存館からお借りしました)

 

 

大通寺からさらに北へ1キロほどのところにある医王寺。ここに武田方本陣があり勝頼もいました。背後にある山の上に物見台がありますね登ってみましょう!

 

 

ここからは肉眼でも大通寺や長篠城を見降ろすことができます。鳥居強右衛門や鳶ヶ巣山奇襲の件までは父信玄が成し得なかった三河完全制圧を自分ならやれると思っていたのかもしれませんね。

 

 

菅沼氏は元々今川の家臣でしたが、定忠は桶狭間で義元が死ぬと徳川に、しかしやっぱり今川に寝返り、家康が三河を完全に支配するとまた徳川に、そして今度は武田信玄・勝頼に仕え、最後は徳川と戦い1582年飯田で討死したとも百姓に殺害されたともいわれます。

 

 

【1月8日岐阜市の加納城址にて】いっぽう長篠城を守り抜いた同じ山家三方衆のひとり、奥平貞昌は信長から「信」の字を与えられ信昌と改名、家康の長女亀姫を正室として迎え入れ美濃加納藩の初代藩主も務め、奥平家は明治まで続きました。鳥居の子孫も厚遇されたといいます。

 

 

加納城の周辺には「西丸町」「鉄炮町」「矢場町」「長刀堀」など、ここが城下町だったことを示す町名が今も残っていますがその中に「奥平町」もあります。

 

 

戦国最強と謳われた武田軍の、愛知ゆかりの地をめぐる旅もこれで終わり。

 

最後までお付き合い下さりありがとうございました(^^)/