前回のつづき
1月6日(土)、県道32号線(長篠東栄線)を北上し私が目指すのは田峯城址ですが、今から449年前の1575年の夏、設楽原の戦いで敗れた武田勝頼もまた田峯城へ向かっていました。
距離にして19km。舗装道路の現在でも徒歩4時間半ぐらいですが昔の凸凹道を甲冑つけてではもっとかかったことでしょう。県道から左に、細い町道へ入っていきます。
町道に入ってから田峯城までは2kmの上り坂、この時点で20時は過ぎていたと思われます。暗い夜道を最後の力をふり絞ったに違いありません。
勝頼に従う者はたったの四騎、その中には田峯城主の菅沼定忠もいました。「勝頼様、わが城に入れば安心ですぞ、どうぞ休んでくだされ」そう言って励ましたことでしょう(画像は長篠城址史跡保存館からお借りしました)
愛知県北設楽郡、田峯城に着きました。御殿が右上に見えます。当時、奥三河は山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)といわれる小豪族の田峯菅沼氏・作手奥平氏・長篠菅沼氏が治めていました。
彼らは姻戚関係を結び一致団結し大名のはざまで生きていましたが、やがて同じ一族の中でも意見が食い違うようになり武田につく者と徳川につく者とに分かれました。(画像は長篠城址史跡保存館からお借りしました)
菅沼定忠「わしじゃ門を開けよ!・・・どうした?」門が開きません。
「殿、悪いがお通しすることはできませぬ」物見台の上から言い放ったのは留守居役の叔父菅沼定直と家老今泉道善。合戦の結果をいちはやく知った家臣たちは武田を見限ったのです。「おのれぇ!」主君の前で恥をかかされた上に家来に自分の城を乗っ取られたのですから定忠の面目は丸つぶれです。
この時叔父定直と家老今泉道善は城内に引き入れ油断したところを殺すことも出来たはず、なぜ勝頼の首を持って徳川へ走らなかったのか?後にこの中途半端が命取りになります。
御殿の中は撮影可室町期の書院造りですね。上段の間に座らせていただきました。
「苦しゅうないよきにはからえ」こりゃあバカ殿だね
先ほどの物見台、ほぼ垂直な階段を昇ります。
あの山を越えさらに敗走を続け、命からがら甲斐まで落ちのびた勝頼主従でしたが・・・
定忠はあの恨みを決して忘れてはいませんでした、翌年には田峯城に攻め込み城内にいた老若男女問わず96人を惨殺特に家老の道善と叔父の定直は生きたままのこぎり引きにしました。ここがその処刑場所です
合掌
首塚、城内の主だった者の首はここで晒しました合掌
田峯地区には田峯観音など、いくつか観光スポットがありますがここ田峯小学校(国の登録有形文化財)もその一つ、この3月で閉校になるそうです。ふと、時計を見ると現在16時。今日はここまでとしましょう。
17時「道の駅もっくる新城」まで戻ってきました。自販機ではカップ麺、手作り弁当、からあげ等の単品も。その脇には電気ポットと電子レンジがあり24時間使えます。これはありがたい!
本日訪れた牛久保・野田城・田峯城で撮った写真と自販機の温かいおかずをつまみにカップ酒を飲みながら余韻に浸り、今夜はここで車中泊です。おやすみなさい
つづく・・・