向井side
出会わなければよかったと、何度思ったことだろう。
あなたに出会わなければ、素敵な思い出も、心からの笑顔も、無かったことになるけれど、それよりもあんなに悲しい思いをしなくて済むのなら。
あなたが俺に出会わないことで、今もどこかで生きていられるのなら。
それなら俺は、何度でも思い直すのだ。
深澤辰哉に出会わなければよかった、と。
「待って康二!」
「…なに?」
俺の肩をポンと叩いて微笑んできたのは渡辺翔太、もとい、ここでは、人気モデルの翔太である。
「カメラマンだったんだ」
「うん」
きめ細やかな白い頬を撫でながら、俺に近づいてきた。
「あのさ、大丈夫だったのか?あの日、雨だったろ」
「子どもじゃあるまいし、大丈夫やで」
「子どもじゃないって言うなら1ヶ月も泊めてくれた人にお礼もなしにいなくなるのはどうかと思うけど」
言い返す言葉もなく、ぺこりと頭を下げた。
「お世話になりました」
「元気そうに見えない」
「元気です」
ぺちっと俺の頬を優しく叩いてきた。
「心配したんだぞ」
「1年半も前に泊めた人間の顔、よく覚えてましたね」
「1ヶ月も泊めてやったからだな」
嫌味ったらしく発せられた言葉に、もちろん言い返す術はない。
「ていうかさ、辰って、どっから来たの?」
「え?」
紫色の名刺を俺の目の前に突き出してきた。
「おまえ、康二、だろ?辰って、どこから引っ張ってきたの?」
とんとんと、指で辰の文字を叩いている。
「内緒」
人差し指を唇の前まで動かした。
「そ」
「ショウタくーん!ごめんメイク!」
「はい!」
俺の頭にポンと手を置いて、走り去って行った。
「…似てる」
本当に、よく似ている。
初めて渡辺翔太に出会った雨の日、俺を恨んだ彼が俺を殺しに来たのかと、錯覚したほどに、似ている。
・・・・・
「ふっかさん」
「こ、」
「ふっかさん、ふっかさん!!」
正確に左胸を撃ち抜かれ、血を大量に流しながら横たわる彼の頭を膝にのせ、必死に抱きかかえた。
「ふっかさん!まってどうしよ、血」
「は、ぁ」
「うあぁ、ふっかさん、ふっかさん!!!」
ただひたすら彼の左胸を抑えた。
「ごめん、ごめんなさい、俺のせいや」
「泣くな」
「え」
ゆっくりと目を閉じた彼の体を全力で揺らした。
「起きて、起きてふっかさん!!ふっかさん!」
泣くな。
最後に俺に残された言葉は、それだけだった。
・・・・・
「ちょっといい?」
俺の手首を掴んで、抵抗もままならないままに渡辺翔太の背中を追いかけることになった。
「メイク終わり次第撮影って言うてたやろ?もう始まるで、戻らんと」
「明日あたり時間ある?」
「ない」
「オフの日あるでしょ?」
「プライベートが忙しいんや」
「ほんとかよ」
渡辺翔太と向井康二は、モデルとカメラマンであり、それ以上でも、それ以下でもない。
「ほら戻るで」
「待てよ」
「なに?」
「康二さ、あの日…」
「名前気をつけて呼んでや」
「あ、ごめ…」
「ちょっとショウタ!戻ってきてー!」
「…あぁ、ごめんごめん!今いくー!」
そして俺は、それ以上の存在を手にすることは許されないのだ。
「ごめん待ったー?」
「待ってないで」
「嘘、冷たいじゃん」
俺の頬に流れるように触れて、橘雪は優しく呟いた。
「雪ちゃんこそ、手冷えとるよ」
「冷え性なだけ!行くよ!」
俺の手を引いて、前に進み出した橘雪の髪の毛はふわふわと揺れていて、あの頃となにも変わっていないようだ。
「命日じゃないのに、なんでって思ってる?」
「うん」
「報告したいことができたんだよね」
「なに?」
「告白されたんだよね」
「お、そっか」
橘雪は、深澤辰哉の恋人だった。
2年前まで、彼らは仲睦まじく共に生きていた。
「報告っていうことは、付き合うってこと?」
「そうだね、辰哉くんがやだって言わなきゃね!」
「言わんやろ、ふっかさんは」
「そう思ったけど、聞いてみるだけ!」
今にも顔からこぼれ落ちてしまいそうなほど大きな瞳を細めて笑うのは、彼女の魅力だと、昔から思っている。
「どんな人?」
「ねえやっぱ気になる?」
「だって1人で行けばええのに俺を誘ったってことは…呼んだんやと思ってたけど、相手」
あからさまに口角を下げて、嫌そうな顔を見せてきた。
「面白くないなあ、サプライズにならないじゃん」
「だって俺たちいつも別々に行くのに」
「そっかあ、分かりやすすぎたか」
しばらく続いた無言の時間を苦痛だと思わないほどには、彼女と過ごした日々も長くなっていたのだ。
「幸せになってほしい」
「えー?」
「雪ちゃんにはちゃんと幸せになって、笑っていてもらわんと」
「辰哉くんの分までって?」
俺より10cmほど身長が低い橘雪は、俺を見上げるようにして言葉を紡ぐ。
「当たり前やん、あの人が大切にしてたんは…」
当たり前だけれど、俺よりも、あなたなのだから。
「康二くんはいつも間違ってる」
「え?」
「康二くんは間違ってるよ、それに気づけないで、ずっと私を傷つけてる」
「え、俺なんか」
墓地が見えてきたとき、雪、と前方から彼女を呼ぶ声がした。
「あ、康二くん、あの人だよ」
「え、どれ」
全身黒づくめの男がこちらに駆け寄ってきた。
「渡辺翔太くん、モデルさんです」
ぽつぽつと降り出した雨と共に、カラスの鳴き声がそこら中に響いていた。
「え」
「ん?康二くん、翔太くんと知り合い?」
驚いたように目を丸めた橘雪と、同じく目を見開いている渡辺翔太。
「今日撮影したモデルさんやわ。偶然カメラマンしてた」
「えー!ほんとに!?運命だねそんなの」
この男との運命などがあっては困るので、首を横に振って否定した。
「じゃあ康二くんも思った?」
「なにを?」
「…辰哉くんに似てるなって」
"本当に、よく似ている。"
「思わんよ」
「…そう?私はちょうど半年前に翔太くんに出会ったんだけどね、出会った瞬間に勘違いしちゃったの」
「なにを?」
「辰哉くんが私に会いに来たんじゃないかって」
"俺を恨んだ彼が俺を殺しに来たのかと、錯覚したほどに、似ている。"
「そんなこと、新しく出会った人の前で言うもんじゃないやろ?失礼やで」
「もう話したの」
「ふっかさんのことを?」
「うん話したよ。だって隠せないもの」
困ったように眉を下げて、彼女は遠いなにかを見つめていた。
「出会ったとき、私、辰哉くんって声かけちゃったんだよ?」
「…雪ちゃん」
橘雪にかけた言葉は跳ね返って、自分に戻ってくる。
「俺と初めて会ったとき、違う人の名前呼んだのは、雪だけじゃないよ」
今まで黙っていた渡辺翔太が口を開いた。
「康二だって呼んだよね、俺のこと、ふっかさんって」
"ふっかさん?ふっかさんやろ"
「…雪ちゃん、紹介なら十分してもらったわ。俺、今日は」
「康二くん!」
「今日は、ふっかさんに会わんで帰る。帰らせて」
返事を聞く前に、急いで2人の前から立ち去った。
深澤辰哉の幻影に惑わされて、そのまま消えてしまいたくなった。
・・・・・
「康二、いつまで起きてんの」
「ごめん起こした?」
「いや俺が勝手に泊まりに来たから」
パソコンにかじりついている俺の髪の毛に優しく触れてきた。
「もう3時すぎたよ、寝不足はよくない」
「せやけど、これだけ、これだけやりたいんよ」
最後の1枚を編集し終えて、時計を見あげると、時刻は4時になろうとしていた。
「…やば」
「終わったの?」
とっくの昔に寝たと思っていた深澤辰哉の声が聞こえて、慌てて振り向いた。
「起きてたん?」
「いや、目が覚めたから静かーにゲームしてましたぁ」
スマホをひらひらと振って見せた。
「いやいや寝えや」
「もうそろ寝るわ」
「明日、っていうか今日、雪ちゃんとデートって言うてなかった?」
深澤辰哉は大きく口を開いて、腕をぐいっとまるで天井に届くように伸ばした。
「うんそうー」
「眠かったら具合悪くなるで?」
「大丈夫だよ」
彼が寝転がっているソファに腰かけた。
「ほんまか?寝とき?」
「それより康二が無理しすぎてんのが心配だっただけ。もう寝るよ」
スマホの代わりに掌を振りながら、振り返らずに寝室に戻って行った。
「…ばーか」
丸まった背中も、白い肌も、優しい瞳も、全てが俺のためにあると錯覚しないために、その夜は眠ることができなかった。
・・・・・
「康二くーん!!!」
「へ、」
ハッと目を見開くと、目の前に丁寧に彫刻刀で掘られたように美しい顔が現れた。
「み、ちー」
「珍しく起きひんから、起こしました!」
「…朝から来たん?」
俺に馬乗りになって、天真爛漫な笑みを浮かべている道枝駿佑は、まるで天使のようだ。
「合鍵くれたの康二くんでしょ!」
「それはそうやな」
俺の背に手を添えて、起き上がるのを手助けしてくれる。
「康二くん、また細くなりました?」
「なってないよ、勘違いやん」
「それならよかったけど」
「みっちーが来るようになって、また料理することにしたしほんま体調は大丈夫やから」
ぱあぁっと花が咲くように笑った。
「それが1番、嬉しいです」
少し冷えていた俺の手が握られることで、温かみを帯びてくる。
「お出かけしませんか?」
「お出かけ?」
「今日は康二くんも俺も仕事ないし、久しぶりに2人でお出かけ!」
7歳も年下の道枝駿佑は、昔から俺のことを兄のように慕ってくれるわりに、弟のように過保護に見守ってくれる不思議な存在だ。
「みっちーはええの?家で休んどきたいやろ」
「康二くんと出かけられるならそっち!!」
2人でベッドから抜け出して、流れるようにキッチンへと向かった。
「じゃあ朝軽めでもええね」
「うん!!」
食パンをトーストしてバターを塗っただけの朝食を、彼はおいしそうに食べきった。
「俺、康二くんと行きたいとこがあんねんけど」
「ん、どこ?」
「映画館!!」
映画館に最後に行ったのは、2年前の雨の日だった。
・・・・・
「おーい、起きて」
「…あ」
「寝てたな」
「あかん、寝てた」
「感動のラストだったのに」
「あかんくやしい」
ポップコーンの箱を抱きかかえたまま眠っていた俺を見て、朗らかに笑っている深澤辰哉の顔を見ると、気持ちが明るくなる。
「20歳の誕生日に見に来たのに爆睡って」
「逆に俺の誕生日でよかったわ。ふっかさんの誕生日やったらやらかしすぎやし」
「いやいや、記念すべき20歳だろ」
席を立って、ゆっくりとスクリーンを後にした。
「まあ疲れてたとこ誘ったもんな」
「ちゃうよ、誘ってくれて嬉しかったもん」
「写真撮りすぎなんじゃねえの?」
深澤辰哉は、俺の頭をよく撫でる。
息を吐くように、心臓が動くように、当たり前のように、髪の毛に触れる。
「そっちの写真ならええんやけど」
「え?」
「撮りたくもない写真を撮るから疲れてまうんやろな」
彼は右手の親指と人差し指で銃の形を真似て、俺に向けて突き出してきた。
「週刊誌か」
そのまま左手で同じ形を作ってから、両手を繋げて、カメラのように空間を覗き込んだ。
「誰かの裏側を映す仕事だな」
詳しくも知らない誰かの、隠しておきたい裏側を、いとも簡単に暴いてしまう写真を撮ることに疲弊していた。
「自分のお金のためにね」
疲れた、なんて言葉を使う資格さえも本来ならないのかもしれない。
「…康二はひとりでよく頑張って」
「そやで、自分のため。自分が毎日ちゃんと生活して、大学卒業して、そのために俺は誰かを」
「康二」
降りていくエスカレーターの上で、俺は抱きしめられていた。
「俺はどんな康二も好きだよ」
頼りないあなたの手のひらに頭を撫でられるだけで、俺はまた奮い立つことができるのだ。
・・・・・
「康二くん、寝ないで最後まで見ましたね」
「人を赤ちゃん扱いせんといて」
「いやいや、寝ちゃうかもとか言うてたの康二くんやん」
彼が選んだのは、子ども向けアニメが映画化されたもので、仲間と切磋琢磨し奮闘する登場人物の姿に少しだけ、涙が零れてきた。
「康二くん、このあと」
「康二くん!」
袖をひかれて、驚いて振り返る前に、なぜか俺を引き止めるその人が分かってしまった。
「偶然じゃん、康二くん」
橘雪だ。
「雪ちゃん」
「あれ、駿佑くん!康二くんとデートかあ」
「橘さん!お久しぶりですね」
そして、橘雪の隣には、渡辺翔太が立っている。
「康二、暇だったんじゃん」
「暇に見えんやろ」
「いや、映画来てるよな?」
「みっちーとの映画は予定に決まってるやん」
2人が久しぶりの会話を弾ませている間、じりじりと渡辺翔太は近づいてくる。
「みっちー?彼、友達なの?随分若く見えますけど」
「友達」
「誰も頼れる人はいないって言ったくせに、いるんじゃん」
"頼れる人なんて、ふっかさん以外おらんよ"
「…そんなこと言うたっけ」
「なに、忘れたの」
「忘れたよ」
気がつけば目の前にあるその切れ長な瞳に吸い込まれてしまいそうになる。
「もう大丈夫なのか?」
「なにが?」
「昨日聞けなかったから」
俺の頬にゆっくりと手を伸ばし、まるで壊れ物のように優しく触れられた。
「あのときの康二は、1人で立ってられないくらいにボロボロだっただろ」
「あれは」
「もう大丈夫なのか?1人で」
"1人で大丈夫って思えるまで、ここにいていいよ"
「康二くんは1人じゃありません」
「え?」
俺と渡辺翔太の顔が向き合うちょうどその間を、大きく細長い手がすり抜けた。
「俺がいますから。それにちょっと、近いです」
まだ19歳の彼の背中に隠れてしまいたくなるほど、俺の心は弱ってしまった。
「君は何歳?」
「19です」
「その人の傷、19歳が手に負える程度のものかな」
思い返せば、19歳の彼は若さゆえなのか、深澤辰哉に反骨心を持ち、いつも彼に反発していた。
「なにが言いたいんですか?」
大人げなく、彼はよく、道枝駿佑を手のひらで転がそうとしていた。
「はいはいそこまで!翔太くんもなんでそんな煽るようなこと言うの?それじゃまるで」
彼女が続けたい言葉は、辰哉くんみたい、だろう。
「…ごめん康二くん、駿佑くん。私たち行くね」
体中の熱が集中しているのが分かるほど、目頭が熱くなっている。
「うん、気をつけて」
目頭どころではなく、頭も頬も、なにもかも。
「待て」
なにもかもが溶けてしまいそうなほど、熱い。
「大丈夫か?」
足がふらついて体から力が抜けてしまったとき、俺の体は広い胸に抱きとめられた。
「康二」
「ごめん」
「え?」
温かくて、なにもかも受け止めてくれそうな広い胸に懐かしさを覚えた。
「ふっかさん」
ふわふわと頭を撫でられているのが分かって、現実と夢の境目が無くなってしまった。
「違うよ、翔太だよ」
渡辺翔太。
深澤辰哉によく似た男。
「いつまでいるんですか?」
「ごめんね、もう帰ろう翔太くん」
「雪ちゃんが全部してくれたのになんのお礼もなしですか?」
「…橘さん、ありがとうございました」
「いいんだよ、私は康二くんの…友達なんだから」
深く眠りに落ちていたはずなのに、3人の声がじょじょに鮮明に聞こえてきて、目を覚ました。
「…みっちー」
彼を呼んだ声が聞こえたようで、飛ぶようなスピードで俺のそばにやってきた。
「康二くん!大丈夫?」
「うん、迷惑かけてごめ」
「謝んな」
渡辺翔太にぺしっと額を叩かれて、改めて2人がまだ家に残っていることに気がついた。
「…翔太くんも、まだおったんや」
「お、やっと翔太くんって呼んでくれたじゃん」
「康二くん、まだ無理しないで寝ておきなよ」
脇に冷えたペットボトルが挟まれていることに気がついて、また懐かしい気持ちになった。
「雪ちゃんが全部やってくれたんやな」
「え?」
「これ」
目線をペットボトルに動かしてから、橘雪に目配せをした。
「覚えててくれたんだね」
「うん、ありがとう」
困ったように眉を下げている道枝駿佑の頭をわしゃわしゃと撫で回した。
「そんな顔せんといて」
「俺が映画誘ったから」
「はいはい大丈夫やから」
体を起こそうとすると、すぐに目の前に手のひらが現れた。
「寝てなさい」
「うんそうする、せやから雪ちゃんたちももう帰って?申し訳ないから」
「でも」
「2人今日デートやったんやろ?台無しにさせたくないから」
「台無しなんかじゃないから気にしないこと!康二くんはいつもそうやって…」
俺と橘雪は、同じ人間の記憶を常に背負って生きている。
同じ景色、環境、人、些細なことで彼を思い出しては、後悔をする。
彼が、俺にさえ出会わなければよかったのに、と。
「いつも俺がデートの邪魔するね」
「だからそんなこと言ってないじゃない」
彼女にその意図は全くないのに、俺の意識下に勝手に刷り込まれているだけなのに。
「いつもって、なに?」
静かに俺たちの話を聞いていた渡辺翔太が割って入ってきた。
「前は、深澤辰哉のとき?」
「翔太くん!」
「深澤辰哉と付き合ってたときも、こういうことがあったとか?」
「俺と雪ちゃんしか知らん話で、今後誰も知らんくてええ話や」
俺の制止も気にすることなく、彼は話を続けた。
「ねえどんな人なの?深澤辰哉って」
「…月」
俺より先に口を開いたのは彼女だった。
「月みたいな人だったよ」
そして彼女は、俺を太陽だと、よく比喩するのだ。
「はい、終わりやこの話は」
「そうやで、康二くんは休まんと」
道枝駿佑にうながされるまま、俺は再び瞳を閉じた。
渡辺side
「昨日から思ってたんだけど、翔太くんて康二くんと仲いいんだね」
映画館で突然倒れた向井康二の看病をしたあとに帰路に着いていた。
「うーん、仲良くはないのかも」
「そっかあ」
懐かしいものを見るように、彼女は空を見つめていた。
「今日言ってたさ、いつも俺がデート邪魔するってやつ、なんだったの?」
「気になっちゃうー?」
「まあね」
初めて向井康二に会ったときに呼ばれた名前を俺は忘れられないのだ。
"ふっかさん、ふっかさんやろ?"
「辰哉くんはね、よく言ってたの。康二が心配だって」
「心配?」
「辰哉くんは康二くんのことすっごく大切にしてるってこと」
「でもデートの邪魔って、そこまで?」
橘雪は深澤辰哉の恋人で、1番大切で、愛おしい存在だったはずだ。
「辰哉くんはね、康二くんになにかあればすぐに飛んでいくの。康二くんのことが心配、だから」
例え、デートをしていても、だろうか。
「そうだったんだ」
「でも私は、私も康二くんのことが大好きだし、辰哉くんに出会えたのだって、康二くんのおかげだし」
俺の知らない3人の時間を覗いてみたいと、そう願ってしまう。
「私だって康二くんのことが心配なのよ、本当に」
「心配、ね」
基本的に笑顔で、ユーモアのある会話術で現場のスタッフともすぐに打ち解けていた。
綺麗な顔をしているからカメラマンなのがもったいないと女性スタッフから声が上がるほど魅力的な容姿を持つ、心配とはかけ離れた人気者なのだ。
「ちょっとわかるかも」
しかしあの雨の夜、俺が見つけた彼は、細い体で必死に重いものを抱えようとしているのに、瞳に光が宿っていなかった。
「…分かるんだ?」
「折れそうで、怖い感じとか」
本人は決して他人に頼ろうとせずに、歩きだそうとしてしまうところ、とか。
その日の夜は、とある電話で目を覚ますことになる。
「はいもしもし、どうしたの駿佑くん」
ぼそぼそと話す橘雪の声が聞こえて、寝返りをうった。
「え、それ大丈夫?救急車は?」
ぼんやりとしていた意識が鮮明になって、俺も体を起こした。
「それならよかった。今から康二くんち行くから」
前にも経験したことがあるように、彼女はテキパキと外出の準備を始めた。
「え、そう?じゃあ病院が分かったら教えてね」
電話をきった彼女は開口一番に彼の名前を呼んだ。
「康二くんが」
「うん」
「康二くんがさっきよりも熱酷くなって倒れちゃったって」
俺がいることを気にもせず、着替えを進めながら話を続けた。
「救急車呼んでもうすぐ来るみたいだから、病院分かったら、私行くから」
「雪ちゃん」
「康二くん前もこうなったことがあって、そのときは、でも、今は」
「雪ちゃん」
強く呼び直した彼女の名前に驚いたように動きを止めた。
「大丈夫、俺も行くよ」
「でも、翔太くんにはあんまり関係ないのに、いいの?」
「心配、だから」
向井康二のことなのか、橘雪のことなのか、明言できないまま、2回目の着信音が鳴り響いた。
「夜中なのにごめんなさい」
「なんかあったらいつでも呼んでって言ったでしょ?呼んでくれてよかった、ありがとう」
小さく震える道枝駿佑の肩を優しく撫でていた。
「でも大丈夫でよかったじゃない、本当によかった」
青白い顔はしているものの、最後に会ったときよりだいぶ安定したそうだ。
「そもそもまだ10代のあなたが康二くんの全てを背負うなんてそんなの重すぎたよね」
「…俺は19だけど、康二くんは26だけど、そんなの関係なしに俺が役に立ちたくて、ただそれだけで」
一筋の涙をこぼす道枝駿佑は、まるで丁寧に掘られた彫刻のようだった。
「でも康二くんは私には頼らないからすぐに力になれなくてごめんなさい」
深々と頭を下げた橘雪を見て、また彼は涙を流した。
「康二くんが頼ろうとするのはいつも、いつも…」
伏せられたまつ毛の奥に秘められた瞳は、驚くほど悲しげに向井康二を捉えていた。
「でもあなたは頼られてるわ。私より確実に。だからそんなに落ち込まないでね」
俺が触れることはできない、彼らの中に眠る深澤辰哉の記憶。
「橘さん」
「ん?」
「俺が知らない康二くんを、橘さんはたくさん知ってるんですよね」
「え?いや、そんなことないと思うけど」
「少なくとも、深澤くんといる康二くんをたくさん見てきてる」
まるで深澤辰哉の主軸が向井康二であるかのように、彼は言葉を続ける。
「まあ、そうね」
「深澤くんがいるときの康二くんは、ずっと俺の知らん顔しとるから」
あの夜、俺は偶然彼に出会い、1ヶ月も同じ時間を過ごしたのに、ある日突然消えてしまった。
その感覚と近しいものを、なんとなく今も感じ始めている。
向井side
「よ、康二」
長らく眠っていたような気がして、瞳を開けたとき、初めて目にしたのは渡辺翔太だった。
「…なんでおるん?」
「道枝くんは大学行ったし、雪は仕事」
「あれ」
辺りを見渡すと、そこは見慣れた病室の景色だった。
「お前、熱出して倒れて入院して2日目。そろそろ目を覚ますだろうって言われてたから」
「ごめん、迷惑かけて」
「大丈夫だって、勝手に来ただけだし」
ぽんぽんと俺の頭を撫でた。
「それで、なんで避けるわけ?」
「避けてないもん」
「俺たち1ヶ月でけっこう仲良くなったよな?」
「…泊めてくれたのはほんまに感謝しとるけど、これ以上は」
「だからそうやって避けるのはなんで?」
これ以上、深く関わりを持とうとするのを拒むのにはなにか理由があるのだろうか。
「この世にはそういう人もおるんやで」
「そういう人って?」
「家族も友達も、持たんほうがええ人」
ブラウンの瞳が真っ黒に見えるのは、あの日と同じだった。
・・・・・
その日は、雨が降っていた。
警報が出るほどの大雨で、外を歩こうとしても視界が雨で塞がれて思うように進めないような、そんな夜だった。
そんな夜に外出しているのは俺くらいで、他には誰もいないと思っていた。
「え」
役に立たない傘をさして自宅に帰ろうとごみ捨て場を通り過ぎたとき、そこに人が転がっていたように見えた。
「あの」
雨音で俺の声がかき消されているのか、返事がないのでさらに距離をつめた。
「あの!大丈夫っすか?」
肩を揺らしながら声をかけ直すと、その人はわずかに瞳を開いた。
「ふっかさん、ふっかさんやろ?」
「え、は?」
「ごめん、俺が、俺の」
勢いよく起き上がって俺の足にしがみついて、ただ謝罪を繰り返している。
「いやあの!こっち見てくださいちゃんと!」
うつろな瞳の中になんとか映りこもうと、彼の頬をぱちんと叩いた。
「あ、」
「立てる?」
暗くてよく見えないなかで、彼を家に連れ帰るために肩を抱きながら歩みを進めた。
「ほら、がんばれ」
細くて簡単に折れてしまいそうなその腕を、しっかり掴まないと、どこかに消えてしまいそうな予感さえした。
「大丈夫?」
お風呂をあがって、初めてはっきりと見えた彼の顔は中性的で、少し見とれてしまった。
「…すみません、俺」
ハスキーな声は耳に残りやすかった。
「いや別にいいんだけど、なんで外にいたの?ばかみたいに大雨だぞ」
唇を真一文字に噤んでいるのを見て、話す意思がないのを察した。
「話したくないならいいよ」
「その、帰るんで、俺」
「バカじゃねえの?大雨だぞ」
「でも」
「泊まってけよ、別に広いわけではねえけど」
つい1時間前に出会ったのに、ここで手を離すわけにはいかないという気持ちが湧いてくるほど、あの時の彼は生死の縁を彷徨っているようだった。
「…今夜だけ、甘えさせてください」
「もちろん」
口角を緩くあげて微笑んだ向井康二の瞳は、はちみつ色味がかったブラウンだった。
・・・・・
「そんな人、いてたまるかって話だよ」
「そんな人もおるんよ」
彼の瞳は、いつも俺を他の誰かと重ねて見ている。
「それが康二ってこと?」
「そうやなあ、そうなるな」
「ずっと、ひとりでいるつもり?」
栗色に染め上げられた髪の毛が耳にかけられていて、中性的な印象を与えられる。
「俺と一緒におりたいん?」
「それは」
「中途半端な気持ちで甘えたこと言わんほうがええよ」
「俺は、康二のことが心配なんだよ」
はっと、鼻で笑った向井康二をキッと睨みつけた。
「睨まんといてよ」
「笑うとこじゃねえし」
「死にたくないやろ?」
俺にとってあまりにも当たり前の質問を受けて、一瞬呆けてしまった。
「死にたくないけど」
「その想いがあるならもう俺のところには来ないって約束して」
「いやだからなんでそうなんの?」
伏せられた長いまつ毛の下で、大きな瞳が揺れている。
「俺とおったら、死ぬで」
確信を持ったその言葉に、返すなにかを発することはできなかった。
to be continued
