このところSMAPの話題を聞かない。
今年の1月はその話で持ちきりだったのに。


SMAP解散のニュースが流れた頃、良くある話だと思った。
期待以上に育ち過ぎたアイドルと、商売上管理したい事務所。どこにでもある力関係からくる争いだ。
だが、アーティストによくある勘違いをSMAPもやらかした。自分の力を過信し過ぎたのだ。


実際、芸能活動って奴は一人では出来ない。俳優や歌手でもマネージメントがいないと仕事の対外的な管理が出来ない。ある意味彼らは御膳立てされないと、その能力を発揮できないのだ。


そして結末はキムタクを除くSMAP全員が事務所に詫びて元通り活動できるようになった。と、表面上は収まったように見せている。だが、ジャニーズ事務所がこのままで済ますはずがないと思っていた。反旗を翻したタレントはもう売り出し対象にはなれないのだ。


その時こう予想した。

今後はSMAPの活動は抑えられ地味になっていくだろう。世間はそれを4人の贖罪のためと理解する。そうしてSMAPの話題が減り人の興味も薄れた頃、解散が発表される。事務所の話題つくりのために。

そんな筋書きだろうと思う。その時、決して外には出て来ず、裏で全てを支配しコントロールしていくジャニーズ事務所の力を垣間見るのだろうと。


どうもその予想が当りそうだ。



昨日の続き。

「あさが来た」と「細うで繁盛記」基本的には同じ成長と商売成功のドラマだが、視聴者の時代背景を見ると、設定に大きな違いが見えるのが面白い。


加代(細うで繁盛記)は老舗の料亭の娘。たおやかで従順だが芯は強い。だが、実家は倒産し売られるように伊豆の山水館というひなびた温泉旅館に嫁入りする。夫は戦争で傷を負って精神的に歪んでいる。家族は皆、経営不振の鬱屈を嫁いじめで解消しようとする。唯一の味方は気の弱い夫の妹だけ。周りの温泉旅館は強敵ばかりで加代の打つ手に対抗してくる。四面楚歌、周りは敵ばかりの状況である。


一方のあさ(あさが来た)の方は、生れつき家事が苦手で男勝り。周囲が頭を抱える嫁を夫の新次郎は愛情深く迎える。嫁という立場だが、優しい義母やあさの経営の才能を見抜く義父に支えられ、その才能を開花させていく。女性軽視の時代背景を跳ね返すように向かって行くが、基本的に周囲は暖かい愛情に囲まれている。


この両極端な環境の中、主人公は同じ目的のため頑張り出す。それはお家を守ること。加代は旅館を立て直し、あさは時代に流される両替屋を支えていく。どちらがすごいという話ではない。主人公の姿勢が同じなのだ。それはいつの世も変わらない女性の理想の姿だ。
どちらの物語もやがて味方が増えて形勢は逆転していく。最後は主人公が成功という勝利を手にするドラマの典型だが、苦境を乗り越えて成功する女性をテーマにしているのは同じである。


面白いのは主人公たちの環境の違いだ。70年代後半、ヒッピー文化などのカルチャーショックも過ぎ、安保闘争、オイルショックと不安な世情の元、人々の心の中には社会が信じられない、周囲は敵ばかりというイメージがあったと思う。加代のように味方無しの孤独な戦いから始まるのが70年代の層の考え方だ。


2015年、格差社会に落ち込み生活が苦しく、政府の財政も問題が山積み。取り敢えず生活は出来ているが、未来には不安が一杯。周囲は一見優しいが、裏にはオレオレ詐欺やストーカーが溢れている。社会は不安が多いが、普通の家庭ではとりあえず不自由はない。時に過剰な親の愛に囲まれ、、過剰に便利な社会に甘やかされる今の世代にとっては、あさのように最初から愛情に囲まれる環境の方がリアルなのだろうと思う。


このように加代とあさの環境は視聴者の時代背景を元にしているのだ。これがマッチするドラマはヒットするという事だろう。

そう見てみると、視聴者の心理背景を考えたドラマ設定である。今の時代に悲惨なくらいの設定を持って来ると失敗する。視聴者が受け入れないのだ。分かりやすい不幸や悲惨さなど、一世を風靡した野島伸司や遊川和彦の不幸を中心としたドラマが今受けないのはそのためのような気がする。


現代の視聴者にとってのリアルとはそういう不幸や悲惨はどこかにはあるが、目の前には取り敢えず無いという認識だ。
現代はインターネットや通信の発達で、残酷な映像や悲惨なニュースが簡単に見られる。不幸がよりリアルに捉えられる時代なのだと思う。
だから刹那的ではあるが、目の前の幸せを大事にしたいという気持ちが強いのではないのかとハバネロは思う。



NHKの連続テレビ小説「あさが来た」が終了した。平均視聴率が23.5%と今世紀最高だったという。ざっくり言えば約4人に1人が見ていた計算だ。そう考えるとすげえなと思う。


江戸末期、大阪の大手両替屋に嫁入りしたあさが、やがてその経営の才能で時代を乗り越え、日本初の女子大学を作るという話だ。当時の女性偏見に耐えながら毅然として立ち向かう姿は感動を呼んだ。その辺も人気の秘密だ。


最初の印象は1970年に話題になったドラマ、新珠三千代の「細うで繁盛記」を思わせた。これは不幸な生い立ちから伊豆の温泉旅館に嫁入りした元大料亭の娘が苦境に負けずに経営を立て直していく話だ。似てるでしょ。


女性が苦境を跳ね返していく同じようなドラマが受けるのは視聴者の時代背景が似ているのかもしれない。70年代と今の時代は環境は違うが不安と閉塞感に満ちている。
おそらくこういう時代は耐えて勝つ女性の姿勢が似合っているのだろうと思う。


視聴者はそれを敏感に感じ取ったのだろう。これらのドラマは時代にエールを送っていたのかもしれない。楽しませてもらったいいドラマだった。



PS.ドラマのもう少し詳しい説明が読みたい人は明日載っけるので、その後の考察をどうぞ。



再開でのっけからだが(この表現も古いなあ)、ジョジョの奇妙な冒険第4部がTVで始まった。最も好きなエピソードなので見てみたが、違和感満載の印象だった。


画面が異様に明るいのだ。紫色の地面に黄色い空。時に緑色の空。多分物語の内容からシュールなイメージを出そうとしたのだろうが、逆効果だと思う。普通の表現から不可解な出来事が起こり奇妙な味が出るのに、最初から変な描き方をしているから、当然インパクトは薄くなる。導入から何が起きてもおかしくない世界が分かり易く描かれてる。
これがTVの嫌な所だ。万人向けに分かりやすく作ろうとしてつまらない物を拵えてしまう。


作品がリメイクされる時の問題ってのはここにある。原作に忠実なストーリーの場合、作り手はそこに自分の個性を足そうとするが、ジョジョの場合、キャラクターから物語まで完成しているので、後は音と色しかいじれるものが無い。それでこの始末なんだろう。

あるいは原作を読んだアニメーターの目にはこう写っているのだろうか?


漫画原作が好きなハバネロから見ると、違うなという感じ。第1部から少しずつ見ていたが、何か違和感があった。これで分かった。
まあ、小説、漫画、アニメ、実写化と様々にリメイクされる時代だ。どの形態が好きかは個人の好みだ。

自分は漫画のイメージが好きだから、アニメは見ない事にしよう。自分の印象を大事にするために。



ゾンビ映画がブームである。
だが、ハバネロはあまりあの手が好きではない。
なんつーか、下らないのだ。
噛みつき、手を引き千切り、腹を裂いて腸を引きずり出す。
だからなんだっつーの。
見方を変えれば野犬に襲われた人のリアルムービーと変わらないじゃないの。

無駄に血潮が噴き出すのも気に食わない。
あれは黒沢明がいけないんだな。
「椿三十郎」でやった最後の対決の時に衝撃を与えるために仲代達也に噴水のような
血潮を上げさせた。それが手法になってしまったのだ。
おかげで出血のショックを見せようと下手な監督はすぐに噴水出血を使う。
ゾンビ映画ではそれが多用される。

ともかくゾンビ映画は幼稚だ。
襲ってくる敵のゾンビが野犬並の知性でそれが大群になってやってくるもんだから、
守る人間側も細かく考えていられない。
撃ちまくる、切り裂く、つぶす。
何やっても構わないという状況になる。
一番頭を使わなくていい状態だ。
考えようによってはゾンビ映画というものは頭をからっぽにしやすい映画なのかもしれない。

問題はその後だ。
ゾンビ映画で頭からっぽになったヤンキーなんかが、その後ビールでも飲んで家に帰ってくる。小さい子供が泣きやまない。当たり前だ。子供だって酒臭いヤンキーは大嫌いだ。
ヤンキーは思う。ああ、めんどくせい。
そこで空っぽになった頭は映画と同じように何してもいいんだと思い込んで、子供に思いきり
暴力をふるう。

おいおい、映画の中では緊急避難という状況だからあれが許されたんだぜ。
何もないのにそんなことすりゃ犯罪だろうが。
だが、バカなヤンキーにはそんなことは分からない。
かくてDVによる被害が広がっていく。
根本的に悪いのは馬鹿なヤンキーだが、助長しているバカな映画にも問題はあると思う。
今の時代を悪くしているのはゾンビなのかもしれない。