昨日の続き。

「あさが来た」と「細うで繁盛記」基本的には同じ成長と商売成功のドラマだが、視聴者の時代背景を見ると、設定に大きな違いが見えるのが面白い。


加代(細うで繁盛記)は老舗の料亭の娘。たおやかで従順だが芯は強い。だが、実家は倒産し売られるように伊豆の山水館というひなびた温泉旅館に嫁入りする。夫は戦争で傷を負って精神的に歪んでいる。家族は皆、経営不振の鬱屈を嫁いじめで解消しようとする。唯一の味方は気の弱い夫の妹だけ。周りの温泉旅館は強敵ばかりで加代の打つ手に対抗してくる。四面楚歌、周りは敵ばかりの状況である。


一方のあさ(あさが来た)の方は、生れつき家事が苦手で男勝り。周囲が頭を抱える嫁を夫の新次郎は愛情深く迎える。嫁という立場だが、優しい義母やあさの経営の才能を見抜く義父に支えられ、その才能を開花させていく。女性軽視の時代背景を跳ね返すように向かって行くが、基本的に周囲は暖かい愛情に囲まれている。


この両極端な環境の中、主人公は同じ目的のため頑張り出す。それはお家を守ること。加代は旅館を立て直し、あさは時代に流される両替屋を支えていく。どちらがすごいという話ではない。主人公の姿勢が同じなのだ。それはいつの世も変わらない女性の理想の姿だ。
どちらの物語もやがて味方が増えて形勢は逆転していく。最後は主人公が成功という勝利を手にするドラマの典型だが、苦境を乗り越えて成功する女性をテーマにしているのは同じである。


面白いのは主人公たちの環境の違いだ。70年代後半、ヒッピー文化などのカルチャーショックも過ぎ、安保闘争、オイルショックと不安な世情の元、人々の心の中には社会が信じられない、周囲は敵ばかりというイメージがあったと思う。加代のように味方無しの孤独な戦いから始まるのが70年代の層の考え方だ。


2015年、格差社会に落ち込み生活が苦しく、政府の財政も問題が山積み。取り敢えず生活は出来ているが、未来には不安が一杯。周囲は一見優しいが、裏にはオレオレ詐欺やストーカーが溢れている。社会は不安が多いが、普通の家庭ではとりあえず不自由はない。時に過剰な親の愛に囲まれ、、過剰に便利な社会に甘やかされる今の世代にとっては、あさのように最初から愛情に囲まれる環境の方がリアルなのだろうと思う。


このように加代とあさの環境は視聴者の時代背景を元にしているのだ。これがマッチするドラマはヒットするという事だろう。

そう見てみると、視聴者の心理背景を考えたドラマ設定である。今の時代に悲惨なくらいの設定を持って来ると失敗する。視聴者が受け入れないのだ。分かりやすい不幸や悲惨さなど、一世を風靡した野島伸司や遊川和彦の不幸を中心としたドラマが今受けないのはそのためのような気がする。


現代の視聴者にとってのリアルとはそういう不幸や悲惨はどこかにはあるが、目の前には取り敢えず無いという認識だ。
現代はインターネットや通信の発達で、残酷な映像や悲惨なニュースが簡単に見られる。不幸がよりリアルに捉えられる時代なのだと思う。
だから刹那的ではあるが、目の前の幸せを大事にしたいという気持ちが強いのではないのかとハバネロは思う。