1学期が終わり、夏休みに入った。
部活をしていない私にはとても長い自由な時間になる。
他の帰宅部の子たちは『やることが無い=寂しい』と直結するようで、その観念から逃れるべく約束をたくさん取り付けていた。私は予定が埋まることがわずらわしく感じてしまうので、時間が合った時に奈津美や時雄と会おうと思っていた。
携帯を持たない雫の家には2度連絡してみたのだがつながらず、折り返しの電話も無かった。
夏休みと言えば「金魚事件」という忘れられない思い出がある。
あまりにも子供染みていて思い出す度に恥ずかしい。小さなトラウマみたいな思い出だ。
私が小学校に入った年の8月、家族で母の実家のある高知に行った。
太陽が容赦なく照りつける暑い日で、私と兄は水着になって四万十川に入っていた。
名前の知らない2種類の魚が私のそばをお構いなく泳いでいた。3センチくらいの群れをなしているものと2匹で行動する6、7センチのものだ。
帰りの車の中、兄は後部座席から身を乗り出し運転する父に川で金魚を見たと言った。
私は遊び疲れて助手席で目を閉じていたが、眠ってはおらずその会話に耳をすましていた。
父は面倒くさそうにそんなはずはないと否定し、母も子供の頃よく四万十川で遊んでいたけれど金魚は見たことが無いと横から口を出した。兄は座席に深く座り直し何も言い返さなかった。そこでその話題は兄が嘘をついたような形で終わった。気まずさをごまかすように父はラジオから流れる高校野球のボリュームを少し上げた。
あくる日の朝、私は2つわがままを言った。兄の影響が大きく、普段は聞き分けの良い私が全く聞く耳を持たないので両親は驚いていた。1つは写真を撮っていないのでどうしてもまた四万十川に行きたい、もう1つは模型店に行ってプラモデルを見たいということだ。
両親はその日を墓参りにあてていたのでだだをこねる私を叱ったが、私が一歩も引く姿勢を見せないので結局は墓参りが終わった後で兄と一緒にならということで折れた。兄は自分もプラモデルも見たいと言って後押ししてくれた。私たち2人はその後にも先にも模型には全く興味が無かったが、私には私の計画があり、兄は私のわがままを通す優しさを持っていた。
模型店に寄った後で四万十川で私たちを降ろし、私に危ないことはしない約束をさせ夕方に迎えに来ると言って両親は叔母の家に向かった。その日は前日よりも更に2,3度は高い真夏日で、さすがに兄はくたびれた様子で私に目が届くところで水に浸かって寝転がっていた。
私はキティちゃんの肩下げカバンから母から無くさないようにと渡されたカメラと模型店で買った塗料を取り出し、兄が目を閉じていることを確認して計画を実行した。それは人生で初めてと言って良い充実感と達成感の訪れだった。
心待ちにしていた現像の日、その写真だけが消えていた。
私は川で撮った写真が無いと騒いだが、母はきっとうまくシャッターを押さなかったのだろうと相手にしてくれなかった。その時の兄の様子を見て私は兄が写真を抜き取ったのだと直感的に悟った。
その写真がどのように撮れていたかは今もわからない。
想像するに、金色の塗料を川面にまき散らしながら苦しそうに泳いでいる奇妙な魚の写真だったと思う。当時、金魚を見たことのない私は金色の魚だと思っていたのだ。
今年はあれから9年後の夏休みになるが、今の私は金魚が赤いものだと知っている。
兄はあの写真をみてどう思ったのだろうか。結局、今に至るまで聞けずじまいだ。
2つ大きな坂を下ると大きな市立図書館がある。
まだ改装して年月の経たない白い壁に夏の日差しが反射し、自転車を止めるとき目がチカチカした。
入口付近は丁寧に手入れされたタイサンボクが左右に並んでいて、優しい影を作っていた。
私は夏休みの大半をその図書館で本を読んで過ごした。
その頃の私は本を読んでいると時間を忘れるほど充実することができた。
難しい言葉があると辞書で調べてしっかり理解してから読み進めるよう努めた。
私は本の中で自由に空を飛び、魔法を操り、動物と話をした。
時には海賊の一員となって宝の地図を眺めたり、名探偵となって難解なトリックを破ったり、時には囚われの姫となり胸を焦がしながら王子の救出を待った。
それは本当に幸せな時間だった。どの本を読んでも退屈することはなく、続きが気になり胸が高鳴った。感動がピークに達すればしばらく本を伏せ、目を閉じて外界をシャットアウトして100%身をその場所に委ねた。
夏休みも中盤に差し掛かったある日、図書館の受付カウンターで雫を見かけた。
閉館まで間もない時間で受付には数人が列を作っており、雫はその最後尾で赤い表紙のハードカバーを持っていた。私が声をかけようと歩み寄ると、雫も私の姿を横目で確認した。
雫が私に気づいたのは確実だった。しかし雫は目をそらし、本を後ろ手に隠した。
「雫」
私は少しその態度にたじろいだが、声をかけてみた。
「優雨。お久しぶり。」
雫は初めて私に気づいたようにぎこちない笑顔を作った。