「特別ってどういう意味だろう?それはコウキさんにとってってことかな?」

時雄は分厚い肉をほおばりながら聞いた。コウキというのは兄の名前だ。



私たちは国道にあるファミレスで待ち合わせていた。

この店からさらに20分ほど自転車を走らせると私の通う高校がある。

ここまで10分ほどだからその気になれば私は自転車でも通学できる。



「わからない。それ以上は何も言わないでお兄ちゃんは自分の部屋に着替えに行っちゃったから。でもそういう意味じゃないと思う。雫自身が特別な人間だっていうニュアンスだったような気がする。」


「うーん。。雫が特別ねぇ。確かに変わってるところはあるよな。すげー頭の回転が良いからいつも周りの人より先のことを考えてる感じだ。でもな、変わってるってんならお前の方がヘンテコなとこたくさんあると思うぜ。」



「どういう意味?それとお前って呼ばないで。何回言わせるのよ。」私は低い声で口をふきながら聞いた。



窓を叩く雨の音が聞こえる。少し降り出したようだ。

帰りはせっかく着てきたこの服を濡らすことになりそうだ。





「雫は周りの人間とは違うスピードで物事を考えている感じがするけど、お前…ユウの場合は最初から周りとは違う種類のことを考えてるじゃねぇかって思うことがよくある。」

普段は早口な時雄だが、ゆっくりと珍しく真顔で言った。

私の機嫌を損なわぬよう、頭の中で整理しながら話している印象を受ける。





「時雄がそう思うんならそうじゃないかな。だいたい合ってると思うよ。」

私は少し笑いながら答えた。口が少し歪んだ嫌な笑顔に違いない。

「でも1つ間違ってる。」
時雄はマッシュドポテトを口に入れて私の返答を待った。



「周りが私と違う種類のことを考えているの。時雄の言ってることと内容としては同じ意味かもしれないけど、私にとってはそこには大きな違いがある。何というか、正しさというか自然さというか…うまく言えないけど、私にとってはそこが大事なところなの。」




「よくわかんないけど」
眉間にしわを寄せて口の中のものを飲み込んでから時雄は言った。

「周りが間違ってて、自分だけが正しくて自然な考え方をしてるってこと?そうだったらすごい自信だな。そして周りの人間の中には俺も含まれてるんだよな。」





私は決して敵意を向けたわけではなかったが、時雄が少し怒っているのはわかった。

時雄のこういうところは好感のもてるところだと思う。もちろん本人は全く意識していないんだろうけど、その時その時の感情がすぐに相手に伝わる。こういう人間は偽ったり欺いたりする術を最初から持ち合わせていない。きっと人間はその方が幸せなんだ。




私は否定の言葉を探したが適切な表現ができる自信が無いのでやめておいた。
それに今の状態の時雄に話しても彼は曲解してしまうだろう。
私は少しバツが悪くなって時雄から目を離した。
週末のファミレスはほとんどのテーブルが埋まっていた。



何も言わない私を見て話を戻したのは時雄だった。



「雫が変わってるって話だけど、中2の頃あいつ夢の話ばかりしてたの覚えてる?」




「覚えてる。ずっとその話ばかりしてたよね。」



「毎晩のように同じ男が夢に出てくるんだよな。」


雫はとても楽しそうにその夢の話をしていた。

半年くらいはずっとその話をしていたと思う。



私や奈津美も毎朝顔を合わせると、その話を雫に振った。

雫は新しい夢を見た朝はいきいきとした顔で詳細を私たちに話し、その夢を見なかった朝はひどく無口だった。




私の見る夢はいつも曖昧で、ストーリーに一貫性が全く無い。

登場人物が突然入れ替わったり、場所や時間の概念は皆無に等しい。しかも夢の中の私はその不自然さになぜか疑問を感じることはない。たぶん夢の中の物語は自分のイメージで作り上げているものだから、話の展開には自分の心理が大きく投影されるものだと思う。私の心理には一貫性が無いんだろう。だから夢を見ても起きると内容はほとんど覚えていない。あっちにふらふら、こっちにふらふら。

小さい頃は両親によくそう言われたものだ。



それに比べて雫は現実に起こったことのように、もしくはそれ以上に夢の内容を覚えていた。

偶然、雫の夢の話が耳に入った第三者には現実に起こった話と間違えるほどに。

それは細部に行きわたり、感情や情景には比喩的な表現も交えて私たちに話した。


私たちが雫の話す夢を想像しづらそうにしていると、雫は表現を変えて、時間をかけて説明した。

そこにはこちらが身を引いてしまうような切迫したものがあった。自分の経験を友人である私たちに共感して欲しいと思う気持ちは理解できるけど、その時の雫からは絶対的に必要な使命を双肩に負っているようにすら感じた。そういうわけで私たちは少しの責任感と大きな好奇心で雫の話に熱心に耳を傾けた。繰り返し聞いたその話を私は今でも鮮明に思い出せる。

20066月某日。

その日は時雄と食事をする約束をしていた。

まだ梅雨明け宣言は出ていなかったがこの日は最近では珍しく快晴で、私は傘を持たずお気に入りの茶色のフリースを着て出かけるつもりだった。


約束の時間まで余裕があるので居間でドラマの再放送をぼんやりと見ていると兄が仕事から帰ってきて2人分のコーヒー入れてくれた。

今日は土曜日で本来は休日なのだが、兄は月に1度は休日も出勤している。


もう見慣れているはずだがスーツを着た兄には見とれる。

細身のものを好んで着るため一見は痩せて見えるのだが、

よく見ると筋肉のしっかりとした胸、二の腕のあたりは少し盛り上がっているのがわかる。

顔つきも気のせいか普段着のときよりも精悍に見えて

実際の私たちの年齢差よりも離れて見える。



その距離感に触れる時、私はいつも少し悲しい気持ちになった。

「おかえり。お休みなのに大変だね。」


「まあな。でも休みの日の方が仕事がしやすい。オフィスには誰もいないから平日の倍は集中できる。集中して出来ない仕事ほど疲労とストレスがたまるものはないんだ。」


兄は大学を卒業してからN社という精密機器会社に就職していた。


就職したのは氷河期と騒がれた1年前のことだが、例によって兄は何事もなかったように内定の辞令を受けた。進路の希望や活動の進捗は勿論、内定をもらってからも彼は両親には何も話さなかった。

相談しても何もメリットが無いことは、実の子である私たちは十分すぎるほどわかっていた。

結局、両親が兄の入る会社を知ったのは入社の前日だった。


世間にも名の通った企業に就職することをミーハーな母は喜んだ。

母は表情1つ変えない兄に続けざまに質問をした。

求人倍率はどうったの?年収は?福利厚生は?

おそらく母はN社がどのような業態の会社なのかは知らない。

N社で兄がどんな仕事をし、どんな社会人になるかは全く興味がないのだろう。


対照的にその会社の名前を知って父は良く思わなかったようだ。
というのは、兄の入ることになった会社は父の勤めている会社と取引があったからだ。そして会社の上下関係で言うと、上場している兄の会社が圧倒的に強い立場にあった。N社の話を聞いた時、父は男としてのプライドと息子の明るい前途への祝福が交錯する複雑な顔をしていた。


「今日はデートか?」

兄はTVの画面から目を離さず言った。とは言ってもドラマの内容には興味はなさそうだ。兄は映画は見るが、TVドラマは見ない。


「うーん、デートってほどじゃない。ご飯を食べるだけだから。」


「男と2人で飯を食うってのは立派なデートだろ?何て言ったっけ?いつものあの子?」

兄からすれば、同い年の中ではずば抜けて体格の良い時雄も『あの子』になる。


「そう。時雄。羽角時雄。幼稚園から一緒だからね。」私は必要のない言い訳をするように答えた。

私と時雄は幼馴染で、中学から奈津美と雫が一緒になる。
親友と呼べるような人間は私にはこの3人だけだ。兄も3人のことは知っている。


「そういやこの前、駅の西改札で佐々木さんを見たよ。声をかけようかと思ったけど下を向いて考え事をしてるようだったからやめといた。佐々木さんとは会ってるのか?」

佐々木さんというのは雫の苗字だ。


「奈津美はクラスは違うけど同じ学校だからよく話すんだけど、雫とはもう1ヶ月は話してないかな。私の学校とは逆の方向にある女子高に行ってる。あのコ、電話も嫌いだし。」

ドラマはCMに入り、兄は煙草に火をつけた。


「でも雫、どうしてるのかな。中学のときは色々助けてもらったし。ホントあのコは頭が良いから。」
私は笑顔を兄に向けたが、兄は変わらずTVに顔を向けたままだ。


テスト前になると必ず私たちは雫の家に集まった。

雫はお世辞にも物わかりの良い方ではない私と奈津美、時雄に根気強く勉強を教えてくれた。

テスト範囲の全てを理解させるのはとても無理なので、雫の独断で3人は毎回ヤマを張ることになった。

そしてそれは面白いように当たっていた。

その甲斐あって私たちはかろうじて平均的な成績を取り続けることが出来ていたのだが、

その副産物として雫にヤマを張ってもらうことのできない『受験』の非常に高い壁も作り出した。

私たちは雫に頼ることなくテストに臨むことに全く慣れていなかったのだ。


受験の高すぎる壁に気付くのが早かった時雄は野球推薦という方法でスポーツの有名な男子校に行くことになった。


「でもお兄ちゃんは昔から雫のこと気にしてない?奈津美や時雄のことはほとんど聞いてこないのに。確かに雫はキレイな顔をしてるもんね。スタイルもいいし。お兄ちゃんは雫みたいなのがタイプなの?」


私はおどけながら聞いた。でもどんな返事が返ってくるか考えると少し怖い。小さい頃から私たちは色んな話をしてきたが、異性の話は気恥ずかしいのもあってほとんどしたことはない。


少しの沈黙の後、兄はブラウン管から目を離して大きく煙草を吸うと灰皿の中でもみ消した。


「あの子はきっと特別だから。」


その日、始めて兄と目が合った。

20064月、私は高校生になった。

そして入学して1週間後には16歳になった。



両親としては兄と同じ進学校に入ってほしいという一縷の淡い期待めいたものがあったようだが、それも中1の終りには消え去っていたと思う。何しろ私の成績は下から数えた方がはるかに早かったからだ。結局は、一時的に頭に詰め込む方法で無理せず合格できる地元の公立であるI高に入学した。同じ中学からは3分の1ほどの生徒がI高に通うことになる。I高には語るべき特徴というものはないのだが、HPを見る限り「自由な校風」を最大のウリにしているようだった。最低限の校則を守っていれば、個性と意思を尊重するとトップページに大きく書かれているが世間にそのイメージは定着していない。

中学でも同じクラスだった奈津美は高校ではとにかくお金を貯めるという。

貯めたお金は卒業後に一人暮らしを初める費用として考えている。

奈津美はとにかく家族と折り合いが悪く、中学の時から早く家を出たがっていた。

バイトの求人はほとんどが16歳以上の募集だから、奈津美が年齢を詐称せずに働くことができるのは来年の2月の誕生日まで待たなければならない。奈津美は3姉妹の次女で、姉や妹がいわゆる『美人』であるのと対照的にアニメに出てくるような幼い顔立ちをしていた。それでも異性から好意的に見られる容姿であることは間違いないのだが、本人はいたくそのことにコンプレックスを感じているようで暇さえあれば特に気にしている鼻の先を引っ張っていた。


駅から学校までの道は住宅地とキャベツ畑の間にある細い道を抜けて4車線の国道を渡る。他にも道はいくつかあるけれど、春口は桜の見ることができる比較的静かなこの道を多くの学生が使用していた。だから朝はまだ名前の知らない多くの同級生とすれ違う。

ヘッドフォンで音楽を聴いてる人、
大声で笑っている人、
鏡で化粧のチェックをしてる髪の赤い人。
高校3年間でこの中の誰と関わることになるのだろうか。
そしてこの中では私たちはたいして目立たない『その他大勢』に入るのだろう。

「ユウはいいな。もう自分で働けるもんね。自分で稼いだお金なら誰にも文句を言われず好きに使えるしー。」
髪どめを触りながら奈津美は心底うらやましそうにつぶやいた。語尾を少し上げながら延ばすのは昔からの奈津美の癖だ。慣れていない人なら必ず話の続きがあるものだと思って待ってしまうだろう。奈津美は私よりも15センチは背が低い。幼い顔と高い声も手伝って、見様によっては小学生で通じる。

「欲しいものも無いし、あまりお金は必要ないかな。」
強い風が吹いたので私も髪を押さえながらそっけなく答えた。

「でも何かしらお金って必要じゃない?髪を切るのも服を買うのもけっこうするよ。ユウは彼氏もいるから遊びに行くのも全部出してもらうわけにはいかないでしょー?」

「そういうのはお小遣いで何とかなるし。お金が無いなら髪も切らなくていいし服もいつも同じので良い。それと…時雄は彼氏じゃないよ。」

歩幅の小さい奈津美は跳ねるように歩く。マンガなら間違いなく「ぴょこぴょこ」と横に書いてあると思う。宇宙人が見たら奈津美は私のペットと判断するかもしれない。

何秒か沈黙が続いた。その間、奈津美はずっと鼻の先を引っ張っていた。

本来の鼻が高くなりたいとの願望はほぼ失われ、そうしておかないと落ち着かないような感じだ。

「うん。わかった。わかったよ。ユウらしいねー。」
奈津美は笑顔で話を切った。本当はあまり納得していない感じだ。

奈津美にとってお金は絶対になくてはならないものなのだろう。

自分で使える充分なお金がないばかりに奈津美は自由を買うことができない。


奈津美の笑顔の魔法はすごい。

その笑顔を見ればこっちも自然に笑顔になってしまう。

共通の趣味があるわけでもなく、部活や委員が同じだったわけでもない彼女と親友と呼べるような付き合いをしているのはこの笑顔のなすところだ。自分の微笑みの威力を知ってのこととは思わないが、奈津美のことを思い出せばいつも笑っている印象しかない。


「じゃあね、じゃあユウはこれから何がしたいのー?」
笑顔を崩さずに続けた率直なその質問に私は少したじろいだ。
皮肉な意味はなく、純粋な疑問としてユウは聞いている。


私は視線を前に戻し、目を細めて考えた。
でもそれが考える振りであることを私自身はわかっている。
何度も考えたことだ。答えなんてとっくに出ている。


「私はね、何がしたいのかわからない。と言うより何もしたくないんだと思う。欲しいものも何もない。今だけじゃなくてちっちゃい時からずっとそう。ずっとそうなの。だからこれかもそうなんだと思う。欲しいものがたくさんある奈津美がうらやましいよ。」



「ふーん。そっか。でもやりたいことなんか突然出てきちゃうから。きっとユウにもどうしても欲しいものがそのうち出てくるよ。その時はまた教えてよねー。」
奈津美は私の発言についてあまり気にした素振りを見せず歩みを速めた。




私は嘘をついた。