タイトルの出間館と聞いてピン!と来る人はかなりな弘前の歴史マニアである。

五重塔がある最勝院(旧大円寺)は昔小さな城(館)だったそうである。名前は出間館。築城年代などは不明。

出間氏の居城で和徳城主小山内讃岐守に滅ぼされたとあるので出間氏の時代は鎌倉時代あたりのことであろうか。最勝院(旧大円寺)の境内にあったそうであるが発掘などはされていない。しかし最勝院の周りの地形からそれをうかがい知ることができる。

 南西には寺沢川が流れ大きな谷になっている。但し現在流れている寺沢川は江戸時代に新寺構により人為的に流れを変えた状態である。いくら人為的といっても本来地形を生かすと思うのでその当時も支流の小川が流れていたり、谷だった可能性は高い。余談ではあるがこの川の脇にある大きなカーブしているサイクリングロードは昔、三味線をひいたばばあのお化けが出ると噂され三味線ロードと呼ばれていた。


一弘前人の思いつき☆

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 北には前述のとおり当時寺沢川が流れている。新寺構ができる以前の寺沢川は医学部大学生協のあたりからまっすぐ辻坂のあたりを通り中央病院、元福住のあたりで土淵川と合流していたようだ。江戸時代の地図を見た時の私の感覚なので少しずれているかもしれないが。


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 東は土淵川が流れそれに伴い崖とまでいかないがかなりの高低差があり土塁のようになっている。


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 津軽氏はこの城跡を利用し大円寺(現最勝院)をつくり新寺構を整備し、城下町弘前の南東の防御としたのであろう。


出間館)

http://www.hb.pei.jp/shiro/mutsu/hirosaki-izuruma-date/


マイナーな城まで地図付きで場所がわかる神プログ。許可を取っていないが敬意をもってリンク

http://www.hb.pei.jp/shiro/aomori/

 弘前市新寺町の報恩寺。奥のほうにひっそりとあるこの寺は長勝寺とともに津軽の菩提寺にもなったとても由緒あるお寺です。名君で有名な(晩年を除く)弘前藩4代藩主信政が父信義の菩提を弔うために建てた寺だそうです。津軽家は曹洞宗の長勝寺に帰依していたが、幕府に仕えた関係で天台宗の天海との関係が深く、天台宗に改宗し菩提寺となったそうである。ただしなぜか等の本人の信政の墓所は岩木山麓の高照神社にある。歴代藩主の墓がこの寺にあったが(ただし江戸後期は上野の津梁院)、昭和29年に長勝寺に移されている。おそらくその時であろう12代藩主になる予定だった承祐公のミイラが発見され長勝寺で最近まで保管されていた。現在は火葬されてミイラはない。私が高校生時代のときたっていたうわさが真実であれば発見されたのは弘前高校のテニスコートかラグビー場である。テニスコートはこの寺の墓場の裏に位置している。


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高校時代近道として使っていた車は通れない趣のある小道


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報恩寺)

http://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyo/bunkazai/ken/ken7.html

 弘前市新寺町にある稲荷神社。椎名林檎のPVにでてきそうなたくさんの鳥居。稲荷神社ならではの独特の雰囲気。私はここの宵宮がとても好きであった。この鳥居の横にずらっと並ぶ出店。しかし今年の宵宮の出店数はたったの3店。ひさしぶりにここの宵宮に来たのだがとても悲しくなった。富田稲荷などの宵宮に重なったためと思われるがそれにしてもさびしい宵宮であった。いつもより多めにお賽銭をいれいつまでもこの神社が続くように祈った。

 話は変わるがこの稲荷神社の裏は木の生えた崖になっている。江戸時代までこの神社の下の領域、弘前大学医学部の低い部分、南糖グラウンドは池もしくは湿地帯だったと考えられる。いわゆる鏡ヶ池である。寺沢川を新寺構でせき止めてできた池である。昭和53年の洪水の最高位あたりが水面であったのかとも思ったりする。昭和40年代頃までは南糖グラウンドは池だったと聞く。現在は治水工事もおこなわれ洪水のリスクは格段に小さくなっているが、洪水のあった昭和53年頃は寺沢川の河岸はただの土で今のように整備されていなかったのを覚えている。


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今まで紹介した弘前に存在する第8師団遺跡


1 第8師団司令部 現弘前大学農学部


2 歩兵第31聯隊 弘前市桔梗野


3 騎兵第8聯隊(後に捜索第8聯隊に改編) 弘前市松原


4 野砲兵第8聯隊 弘前三中周辺


5 輜重兵第8聯隊 弘前市清水3丁目


6 弘前衛戍病院 現国立病院




 その他の第8師団に関する遺跡を今回まとめて紹介し第8師団シリーズを終わりたい。ネタ切れである。何か新しいことがわかったら、ブログにアップしたいと考えている。原ヶ平にある自衛隊弘前駐屯地は第八師団の演習場跡につくられたそうである。中に防衛館という資料館があるらしく、そこに第八師団関係のものも少しあるようなので機会があったら訪れ、ブログに書くつもりです。




弘前偕行社 陸軍将校の福利厚生施設 元々は景勝地で津軽藩主の別荘地。現弘前厚生学院。

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旧第8師団長官舎 戦後一時期市長公邸に。現在は市役所敷地内に保存されている。

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第8師団兵器部 弘前城三の丸。戦後一時期付属小中学校として使われ現在門のみ残存

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 あとは第8師団ではありませんが護国神社、忠霊塔などが戦争遺跡として残っています。あまりにも戦争関係の歴史をタブー視すると江戸時代から現代を結ぶ重要な近代史を見失うことになります。あまり注目されていない分、この辺の歴史はすごくおもしろいと個人的に思っています。




参考)wiki 偕行社


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%95%E8%A1%8C%E7%A4%BE

 今日は弘前衛戍(えいじゅ)病院。陸軍病院である。いわゆる国立病院。現正式名称は国立病院機構弘前病院。wikiによると衛戍(えいじゅ)とは、大日本帝国陸軍において、陸軍軍隊が永久一地に配備駐屯することを言うそうだ。英語ではGarrisonに当たる。


 現在新病棟を建築中なのか大工事をしている。なじみのあるぼろい旧病棟の記録も兼ねて写メ。何か石碑などないかなとあたりを自転車でうろうろ。ないとあきらめかけて中に入っていったらありました!陸軍臭のする赤れんがの建物が。おそらく戦前に建てられたものでしょう。現在も何かで使われている様子。あまりうろうろすると隣が看護学校と言うこともあり不審者として通報されそうなので写メを一枚とって撤退。誰か情報あればコメントにてお願いします。


 小泉竹中改革などで存在が危ぶまれたようだが、ぜひ永久に存在しまさに衛戍(えいじゅ)して欲しいものだ。改革するものには新しいもの以上に古い歴史を知って頂きたい。




一弘前人の思いつき☆




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参考)


衛戍 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E6%88%8D

 輜重兵
(しちょうへい) とは聞き慣れない難しい言葉であるが兵站(輸送や補給など)を主に担当する後方支援兵科の一種である。第8師団に属する輜重兵第8聯隊が弘前に設置されていた。陸奥新報の記事には輜重兵第8大隊と書かれている。おそらく兵営された当初は大隊でのちに連隊に格上げになったものと推測する。規模で決まるらしく連隊>大隊>中隊>小隊>分隊となる。連隊、大隊が集まり旅団、師団となる。第8師団に属する旅団は歩兵第4旅団(弘前)と歩兵第16旅団(秋田)である。


 輜重兵第8連隊は弘前市清水3丁目に設置された。昔の清水村、旧地名は清水富田である。昔の東奥義塾野球グラウンド、信愛校舎(特進)もその跡地であろうか。周辺のリンゴ畑、タムロン工場、ニチロの工場あたりも敷地であると推測する。ひょっとしたら弘前南高校もそうであるしれない。


 この輜重兵第8連隊、インターネット検索してもほかの騎兵、野砲兵、歩兵にくらべ極端に情報が少ない。さらに史跡もない。wikiによると輜重兵は前線で戦う他部隊よりすこし軽視される傾向もあったようである。こういったものが影響しているのであろうか石碑などは作られていない。少年時代このあたりで育ったこともあり思い当たる門跡があるので紹介したいと思う。確認もしていないので間違っているかもしれないが、もしそうであれば貴重な輜重兵第8連隊の史跡となる。場所は弘前市大原の坂岡ガソリンスタンドの脇の道を少し入ったところ。現在はりんご畑である。また、今は某コンビニエンススアになってしまった空き地に昔、兵舎が2つほど残っていた。取り壊そうとすると怪我をするなど噂がたっていたが、取り壊してほしくない元隊員が流したデマなのかもしれない。写真に撮っておけばと悔やまれる。




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(参考)


wiki 輜重兵 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%9C%E9%87%8D%E5%85%B5


陸奥新報 http://www.mutusinpou.co.jp/%E5%8C%97%E6%96%B9%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%B4%A5%E8%BB%BD/2009/06/6824.html



 弘前三中は野砲兵第8聯隊の跡地です。裏の柴田高校、向かいの実業高校もそうでしょうか?




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 旧校門はそのときのものでしょうか?




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 これもそうでしょうか?




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 実業高校裏の私有地にあるこのレンガの建物もこの連隊のものでしょうか?




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 弘前市松原にある生協は騎兵第8聯隊(後に捜索第8聯隊に改編)の跡地です。指標があり、レンガ造りの店舗も兵舎と思われます。向かいに自衛隊の宿舎があるのもその名残でしょう。


 明治32年編成、昭和16年捜索第8聯隊に改編。日露戦争では永沼挺身隊として勇名を轟かせ、大東亜戦争(太平洋戦争)ではフィリピンにて最後まで敢闘し堂々たる戦歴を有する。またこの連隊は有名な馬術家を輩出しており、遊佐少将、城戸中佐、吉田大佐と我が国における第一回オリンピック馬術出場選手中3名はこの連隊出身将校です。これらの将校はその後も監督選手として我が国馬術の権威とされています。(wikiより)






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 弘前に日清戦争後に第8師団がおかれたのは先に述べたとおりであるが、師団の下に各連隊が組織されている。青森にある歩兵第5連隊もそうである。弘前には桔梗野の歩兵第31連隊、三中付近の野砲兵第八連隊、松原の騎兵隊第8連隊、清水3丁目付近の輜重兵第8連隊が置かれた。再掲ではあるが今回は桔梗野にあった歩兵第31連隊について述べる。


 


 写真は弘前市桔梗野にある歩兵第31聯隊(連隊)の正門跡である。いまでは町内会の建物の隣にあるただの空き地である。八甲田山という映画で高倉健が演習に出発する門がまさにこの門なのである。


 この連隊は主に岩手県出身者で構成されていたらしい。その人たちの宿舎が桔梗野市営住宅の前身であったのではと推測する。


 桔梗野小学校から四中向かいの市営住宅まで軍隊の土地だったであろう。そのせいか公営住宅、公務員宿舎(かなり古く今は使われてないかも)が多い。また軍隊のためこの門まで道路幅が広い。この門まで除雪の担当が道路維持課であるのもなごりであろうか。


 戦争関連の極端なタブー視をそろそろやめてこのような空き地を第31連隊公園とでもなずけ後世に保存するのはどうであろうか。






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 一昨日より、にほんブログ村弘前情報のバナーをつけ始めました。ランキングなどを少し励みにしております。過去の記事にバナーをつける方法がまだわかりませんので弘前に残る第8師団関係の遺跡に関してのブログを再掲することにしました。戦争遺跡がタブー視されているためか弘前に第八師団があったという大きな歴史を知らない人が多いと思います。弘前の歴史を語る上で江戸時代は勿論のこと戦前のこの事実を無視するわけにはいきません。自分も勉強不足で間違いもあるかもしれませんがこのことに興味を持つきっかけとなって頂ければうれしいです。戦争関係のことですので否定的なとらえ方でも構いません。自由だと思います。




 弘前大学農学部は第八師団司令部跡地。大規模な陸軍演習のため一時的に大本営司令部が弘前に置かれたこともある。一時的とはいえ弘前に大本営があったとはすごい。下の石碑のその記念碑。大本営跡と書かれている。本当にすごいものがこんなところにひっそりとある。






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